第三十一湯 左近、生きて帰れと言われる
第四章「勝つ支度ではなく、残す支度」の始まりです。
未来を知っているからこそ、簡単には答えを選べない湊一。
そして、死ぬ覚悟を忠義としてきた左近。
二人が初めて、真正面からぶつかります。
第三十一湯 左近、生きて帰れと言われる
湊一は、七枚目の絵図を破った。
紙の裂ける音が、夜更けの広間に響いた。
床には、すでに六枚分の紙片が散らばっている。
小早川。
毛利。
吉川。
島津。
宇喜多。
大谷。
諸将の名の傍らには、兵の数、街道、城、使者を送る順、説得に使えそうな縁が、細かな字で書き込まれていた。
どの絵図にも、途中までは勝てる策があった。
途中までは。
湊一は新しい紙を広げた。
筆を取り、中央へ一人の名を書く。
――小早川秀秋。
その文字を見ただけで、背中に冷たい汗が流れた。
現代で知った歴史が、頭の中によみがえる。
関ヶ原。
松尾山。
動かぬ大軍。
やがて山を下り、大谷吉継の陣へ殺到する小早川勢。
横腹を裂かれる西軍。
続いて東軍へ転じる諸隊。
押し返せなくなる戦の流れ。
島左近は死地に立ち。
大谷吉継は敗れ。
石田三成は戦場を落ちていく。
後の世では、わずかな文字で片づけられていた。
小早川秀秋、裏切る。
大谷吉継、自刃。
石田三成、敗走。
だが、今はまだ誰も死んでいない。
紙の上に書かれた名には、息がある。
腹が減れば飯を食う。
傷つけば血を流す。
腹を立て、笑い、迷い、誰かの帰りを待っている。
「止めればいい」
湊一は呟いた。
小早川秀秋を止めればいい。
未来を知っているのだ。
敗れた理由を一つずつ消していけば、関ヶ原の結末も変えられる。
湊一は、最初の策を書いた。
――松尾山を先に押さえる。
信頼できる兵を入れ、小早川勢を近づけない。
未来において西軍を崩す場所を、最初から渡さなければよい。
だが、筆先はすぐに止まった。
理由もなく松尾山を塞げば、秀秋はこちらが疑っていると悟る。
疑われていると知った者は、信じられている者よりも早く敵へ走るかもしれない。
松尾山へ入れなければ、別の場所で家康と結ぶこともできる。
湊一は、その策に線を引いた。
次に書く。
――小早川勢を分ける。
秀秋の軍勢を幾つかに分け、信頼できる将の傍らへ置く。
寝返ったとしても、大軍が一度に敵へ回ることは防げる。
だが、それは味方に対する扱いではない。
三成は味方を信じていない。
次に兵を奪われるのは自分かもしれない。
そう思わせれば、ただでさえ脆い西軍の結び目が、戦う前からほどけていく。
線を引く。
――人質を取る。
秀秋に近しい者を佐和山か大坂へ置かせる。
裏切れば失うものを作る。
湊一の指が止まった。
「違う」
低く呟く。
それは、人の心をつなぐ策ではない。
恐怖で縛る策だ。
しかも、石田三成が豊臣恩顧の大名から妻子を奪ったと広まれば、黒羽たちが流した悪評に、自ら真実を与えることになる。
三成は横暴だ。
三成は人を駒としか見ぬ。
三成は豊臣の世を、己の思いどおりにしようとしている。
誰も、その噂を否定できなくなる。
湊一は人質の二文字を塗り潰した。
領地を約束する。
官位を約束する。
秀頼が成人するまでの重職を約束する。
秀秋が欲しがるものを与えれば、こちらへつなぎ止められるかもしれない。
だが、勝ったあとの褒美など、敗れれば何一つ渡せない。
秀秋が恐れているのは、何を得られるかではないのかもしれない。
負けた時、誰が自分を守るのか。
豊臣家は、本当に自分を必要としているのか。
石田三成を信じて、自分に帰る場所が残るのか。
秀吉の養子となった。
だが、秀頼が生まれれば、豊臣家の中心から外へ出された。
小早川家を継いでも、その立場は人の都合で揺れ続けた。
大きな名を与えられた者ほど、自分がどこに属する者なのか分からなくなることがある。
三成の記憶の中にも、若い秀秋の顔があった。
酒席では大きく笑う。
だが、笑いながらも周囲の目をうかがっていた。
褒めれば、子供のように喜ぶ。
少し強く責めれば、笑みの奥に怯えを隠す。
後の世では、裏切り者。
けれど、今はまだ、何も選び切れていない若者だった。
「ならば、会う」
湊一は紙へ書いた。
――佐和山へ招き、直接話を聞く。
膳を囲む。
湯を用意する。
誰にも邪魔をさせず、何を恐れているのかを尋ねる。
責めない。
脅さない。
裏切るなと命じる前に、どこへ帰りたいのかを聞く。
その案だけは、すぐには消さなかった。
だが、それで十分だとは思えなかった。
一度の湯と飯で、人の心がすべて解けるものではない。
湯宿のもてなしは、何もかも解決する術ではなかった。
温かな膳を出しても、客が抱えてきた苦しみまで消してやれるわけではない。
湯に浸かれば、誰もが本音を話すわけでもない。
笑って帰った者が、翌日には敵になることだってある。
「では……」
湊一の目が、紙の余白へ落ちた。
まだ書いていない策があった。
もっとも確実で。
もっとも早く。
そして、二度と取り返せない策。
――殺す。
小早川秀秋を、戦が始まる前に消す。
今なら、できるかもしれない。
道中で襲わせる。
病に見せかける。
家中へ人を忍ばせる。
一人の命で、吉継を救える。
一人の命で、西軍の横腹を守れる。
一人の命で、万の兵が助かるかもしれない。
未来で犯す罪が分かっているのなら、罪を犯す前に裁けばよい。
筆先から、墨が一滴落ちた。
黒い染みが、秀秋の名を汚した。
湊一は、その染みを見つめた。
胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げる。
「まだ何もしていない」
声が震えた。
「まだ何もしていない若者だ」
秀秋は、まだ裏切っていない。
吉継へ刃を向けていない。
西軍を崩していない。
後の世の結末を知っているというだけで、今ここにいる人間を殺してよいのか。
湊一が過去へ来たことで、すでに歴史が変わっているのなら。
この秀秋は、本当に裏切るのか。
こちらが信じなかったことが、秀秋を裏切りへ追い込むのではないか。
だが、信じて備えなければ、知っていた悲劇を繰り返す。
信じる。
疑う。
守る。
斬る。
どれを選んでも、誰かが傷つく。
「俺は知っているのに」
湊一は両手で頭を抱えた。
「全部、知っているはずなのに……」
未来を知っていれば、正しい道を選べると思っていた。
敗れた原因を知る者なら、同じ間違いを避けられると思っていた。
だが、後の世の書物が教えてくれたのは、起きた結果だけだ。
誰が、どの夜に眠れなかったのか。
誰が何を恐れ、誰の言葉を待っていたのか。
どの沈黙が拒絶に見え。
どの疑いが、人を敵へ追いやったのか。
そんなものまでは残っていない。
歴史は答えではなかった。
死者の数と勝者の名を残した、冷たい跡だった。
ちりん。
広間の隅に置かれた水碗から、鈴の音がした。
水面が、かすかに揺れている。
白那は姿を見せなかった。
大きな力を使った傷が、まだ癒えていない。
それでも、湊一が一人になる夜には、水音か鈴の音を残していた。
「何か言えよ」
湊一は水碗へ向かって呟いた。
返事はない。
「愚か者でも、甘いでも、何でもいい」
水面に小さな波紋が広がった。
やがて、水の底から弱い声が届く。
「……妾に、決めさせるでない」
「白那」
「そなたが選ぶのじゃ」
姿は見えない。
それでも、その声には白那らしい尊大さが残っていた。
「妾が命じれば、そなたは後で申すであろう。水守が命じたゆえ、仕方がなかったとな」
「そんなことは言わない」
「口ではな」
白那は鼻を鳴らした。
「そなたは、己で選ぶのが怖いのじゃ」
湊一は否定できなかった。
「人を信じて裏切られるのが怖い」
「……ああ」
「疑って、まだ罪なき者を傷つけるのも怖い」
「ああ」
「勝てぬのが怖い」
「ああ」
「勝つために、大切なものを壊すのも怖い」
湊一は唇を噛んだ。
「怖いよ」
声が漏れた。
「何を選んでも、間違う気がする」
長い沈黙のあと、水面が再び揺れた。
「ならば、間違うた後に戻れる道を残せ」
湊一は水碗を見つめる。
「戻れる道……」
「そなたは湯宿の者であろう」
白那の声が、わずかに強くなる。
「客が道を間違えたなら、帰る道を教える。腹を空かせて戻れば、飯を出す。傷ついて戻れば、湯で血を洗う」
「戦は、宿とは違う」
「違わぬ」
白那は言い切った。
「人が帰らねば、どちらも終わりじゃ」
◇
湊一は新しい絵図を広げた。
八枚目だった。
最初に、赤い線を引いた。
兵を進める道。
美濃へ向かう街道。
押さえるべき城。
味方の陣を結ぶ連絡路。
松尾山へ先回りする道。
小早川勢の動きを監視する場所。
大谷吉継へ知らせを走らせる道。
毛利と吉川を動かすための使者の順。
勝つための策を、捨てたわけではない。
秀秋には会う。
言葉を尽くす。
その一方で、松尾山へ備える。
吉継にも警戒を頼む。
秀秋だけに目を奪われ、ほかの諸将の動きを見失わない。
後の世で知った敗因を、一つでも減らす。
赤い線を引き終えると、湊一は筆を持ち替えた。
白い絵具を溶く。
絵図の端から、一本の白い線を引いた。
佐和山城下から、北へ延びる山道。
大軍は通れない。
だが、女子供や負傷者なら、人目を避けて進める。
途中には清水が湧く。
少し離れた場所には寺もある。
次の白い線を引く。
村から寺へ。
街道から井戸へ。
戦場になり得る場所から、湯を沸かせる小屋へ。
負傷者を運ぶ道。
老人や子供を逃がす道。
兵糧を一か所へ集めず、小分けにして預ける場所。
傷口を洗う水。
粥を炊く米。
追手から身を隠す納屋。
一晩だけでも眠れる寺。
赤い線と白い線が、同じ絵図の上で交わった。
「違う」
湊一は、自分へ言い聞かせる。
「これは負ける支度じゃない」
勝つ支度をする。
同時に、勝てなかった時に残す支度もする。
どちらか一つを選ぶのではない。
勝つために、人を使い潰さない。
負けることを恐れて、初めから逃げもしない。
守れるものを一つでも増やしたうえで、勝ちに行く。
帰る場所とは、佐和山城だけではない。
城が落ちても、誰かが湯を沸かす場所。
旗が倒れても、誰かが飯を分ける場所。
主を失っても、傷ついた者へ水を差し出す場所。
帰った者へ、よく戻ったと言える場所。
それを残す。
「殿」
背後から低い声がした。
湊一は筆を止めた。
「いつからいた」
「水守殿が、そなたが選べと仰せになった頃から」
島左近だった。
広間へ入ると、床に散らばった紙を一枚ずつ拾い上げていく。
松尾山。
軍勢の分断。
人質。
領地。
そして、墨で塗り潰された文字。
左近の眉間に、深い皺が刻まれた。
「三日」
左近が言った。
「殿は三日三晩、まともにお休みになっておられぬ」
「眠れなかった」
「軍議をなされるならば、なぜ某を呼ばれませなんだ」
「呼べば、お前はすぐに答えを出す」
「それが軍師の役目にございます」
「だから呼べなかった」
左近の目が細くなった。
「某の策を、お信じになれぬか」
「違う」
「では、某では殿のお苦しみを分かち合えぬと?」
「違うと言っている」
「同じことにございます!」
左近の声が広間を打った。
「殿はお一人で苦しみ、お一人で答えを出し、その後で我らへ命じられる。某は何のため、殿の傍らにおりまする!」
「お前を呼べば、斬れと言うだろう」
「誰を」
「小早川秀秋を」
左近は一瞬、黙った。
破られた絵図へ視線を落とす。
「裏切るとお考えならば」
「まだ裏切っていない」
「裏切ってからでは遅い」
「証もない」
「戦場で証を待てば、証を得た時には味方が死んでおりまする」
「分かっている!」
湊一の声も大きくなった。
「だから三日考えた!」
水碗が震えた。
左近は一歩も退かない。
「考えた末が、この白い線にございますか」
左近の指が、絵図の山道をなぞった。
「女子供の道。負傷者を運ぶ道。寺。井戸。湯を沸かす小屋」
「そうだ」
「殿は、初めから負けるおつもりか」
湊一の胸へ、刃が入った。
何度も自分で自分へ突きつけた言葉だった。
「違う」
「では、なぜ敵を破る道より、逃げる道を細かく書かれる」
「逃げる道ではない」
「何が違いまする」
「帰る道だ」
「言葉を替えただけにござる!」
左近の拳が、絵図の脇へ落ちた。
紙が大きく跳ねた。
「兵へ退路を見せれば、苦しくなった時に退くことを考える! 城下の者へ逃げ道を知らせれば、戦う前から負ける噂が広がる!」
「ならば何も知らせず、戦に巻き込めと言うのか!」
「戦とは、そういうものにございます!」
「だから変えたいんだ!」
「変えられぬものもございます!」
二人の声がぶつかった。
湊一は立ち上がった。
左近も立っている。
広間の空気が張り詰めた。
「勝つためなら、城下の米をすべて集めるか」
湊一が問う。
「必要ならば」
「歩ける男を全員、兵にするか」
「必要ならば」
「敵に使われぬよう、村を焼くか」
「必要ならば!」
「そこまでして勝ったあと、誰が帰る!」
「生き残った者が!」
「何もない場所へか!」
左近の頬が引きつった。
「焼けた家へ戻り、空の井戸を見て、それを勝ったと呼べるのか!」
「負ければ、家も井戸も敵に奪われまする!」
「だから両方守ると言っている!」
「そのような都合のよい戦が、どこにございます!」
「ないから作るんだ!」
「殿は戦を甘く見ておられる!」
左近の声に、怒りだけではないものが混じっていた。
恐れだった。
「湯を沸かし、飯を炊き、帰る場所を作れば、皆が戻るとお思いか」
「思っていない」
「ならば!」
「戻れない者がいると知っていても、初めから戻れぬ策を立てたくない!」
左近の目が揺れた。
湊一は、荒く息を吐いた。
「左近。お前は勝つ策を立てろ」
「無論にございます」
「だが、お前自身を最初から死ぬ者の中へ入れるな」
左近の顔から、表情が消えた。
「……何を仰せです」
「この山道を覚えろ」
湊一は白い線を指した。
「負傷した兵を連れて退け。道に迷った者を拾え。追手が来れば食い止め、また退け」
「某へ逃げよと」
「帰れと言っている」
「どこへ」
「佐和山へ」
「殿は」
「俺も帰る」
左近は湊一を見つめた。
嘘を許さぬ目だった。
「約されますか」
湊一は答えられなかった。
「必ず佐和山へ帰ると、某へ約されますか」
「それは……」
「お約しくだされ」
左近が一歩近づいた。
「殿が帰ると約されるならば、某も帰ると約しましょう」
湊一は拳を握った。
未来を知っている。
石田三成が、佐和山へ帰れないことを知っている。
敗走し。
山中をさまよい。
やがて捕らえられる。
その結末を知りながら、必ず帰るとは言えなかった。
「約せない」
左近の顔が歪んだ。
「では、なぜ某にだけ命じられる」
「左近」
「卑怯にございますぞ」
低い声だった。
怒鳴り声よりも深く刺さった。
「ご自分は帰ると約されぬ。されど家臣には帰れと命じる」
「ああ」
「殿を置いて帰った島左近に、何が残りまする」
「命が残る」
「その命に何の値がある!」
「生きていれば――」
「殿のおらぬ佐和山で、誰に仕えよと申される!」
左近が叫んだ。
「某は、殿に仕えるためここへ参った!」
大きな拳が、自らの胸を叩く。
「殿が世に嫌われていることも知っていた! 融通が利かぬと笑われ、正しいことを正しいと申して人を怒らせる方だとも知っていた!」
「左近」
「秀吉公亡きあと、皆が己の家を守る中、殿だけが豊臣の世を支えようとあがいておられた!」
左近の声が震える。
「誰もが殿を嫌うなら、せめて某だけは殿の前へ立とうと思うた!」
湊一は言葉を失った。
「殿へ届く刃は、某が受ける。殿へ向けられた悪意は、某が斬る。殿が進むなら、血の中へでも道を開く」
左近は白い線を踏まぬよう、半歩だけ足をずらした。
その小さな動きが、かえって湊一の胸を締めつけた。
「それが島左近の帰る場所にございます」
「違う」
「何が違う!」
「俺の前で死ぬことを、帰る場所と呼ぶな!」
「某からそれを奪うおつもりか!」
「奪う!」
湊一は叫んだ。
「そんな帰る場所なら、俺が奪う!」
左近が息を呑んだ。
「お前は死ぬ覚悟を忠義だと思っている。だが俺には、お前が死ぬ理由を先に探しているように見える!」
「何と……」
「勝てなかった時、殿を守って死んだと言えば済む! 最後まで忠義を尽くしたと言えば、そこで終われる!」
「それ以上申されるな」
「生きて負けを背負うより、死ぬ方が楽だと思っている!」
「それ以上、申されるな!」
左近の拳が、湊一の襟元をつかんだ。
太い指が震えている。
「某が、楽をしたいがために死地へ立つと」
「ああ」
「某の忠義が、その程度に見えまするか」
「違う」
「何が違う!」
「忠義が深すぎるから、死ぬことに使うなと言っている!」
湊一は、襟をつかむ左近の手首を握った。
「お前の忠義は、俺一人の墓へ供えるものじゃない!」
「某が誰へ忠義を尽くすかは、某が決めまする!」
「ならば、俺が命じる!」
「何を!」
「生きて帰れ!」
左近の手が止まった。
湊一の声は、もう怒鳴り声ではなかった。
喉が潰れたような、かすれた声だった。
「俺を守って死ぬな」
「……できませぬ」
「死ぬことを先に決めるな」
「できませぬ」
「負傷者を拾え。逃げ遅れた兵を連れろ。城下へ帰せ」
「殿を置いては行けませぬ」
「俺より先に、助けられる者を助けろ」
「できませぬ!」
「なぜだ!」
「殿が、某を拾われたからだ!」
左近の目から、一筋の涙が落ちた。
左近自身も、その涙に気づいていないようだった。
「誰もが、某の槍と首の値を見た」
左近の声が震える。
「されど殿は、某という人間を見られた」
湊一の襟をつかんでいた指から、少しずつ力が抜けていく。
「某が殿を選んだのではない」
左近は歯を食いしばった。
「殿に選ばれたから、某は島左近でいられたのです」
湊一の胸の奥で、三成の記憶が熱を持った。
左近を迎えた日のこと。
法外な禄だと笑われても、惜しくはないと思ったこと。
この男なら、自分が見落とすものを見てくれる。
自分が誤れば、命を懸けて止めてくれる。
そう信じたこと。
三成にとっても、左近はただの家臣ではなかった。
自分が嫌われ者であることを知りながら、隣に立ってくれた男だった。
「ならば」
湊一の目からも、涙が落ちた。
「選んだ俺の言うことを聞け」
「この命だけは、聞けませぬ」
「なぜだ」
「殿を失って生きることは、某には死ぬよりつらい」
「つらくても生きろ!」
「残酷なことを仰せになる!」
「ああ、残酷だ!」
湊一は左近の胸を拳で打った。
一度。
硬い胸板は、びくともしない。
「俺は、お前が死ぬところを見たくない!」
もう一度。
「お前の名が、戦場で消えたと聞きたくない!」
もう一度。
「どこで死んだかも分からぬまま、後の世で生きたとも死んだとも語られるような終わりにしたくない!」
左近が目を見開いた。
湊一自身も、自分が何を口にしたのか気づいた。
現代で読んだ記録。
島左近の最期には、幾つもの伝承がある。
関ヶ原で討ち死にしたとも。
戦場を脱して生き延びたとも。
その曖昧さが、今はひどく恐ろしかった。
「殿は……何をご存じなのです」
左近の問いに、湊一は答えられなかった。
ただ、左近の陣羽織をつかんだ。
「お前がいなくなる先を、何度も夢に見た」
嘘ではなかった。
「俺だけが生き残れと言っているのではない」
涙で、左近の顔が滲む。
「俺も帰りたい」
「ならば、約されよ」
「約せない」
「なぜ!」
「帰れないかもしれないからだ!」
湊一は叫んだ。
「だから、もがいているんだ!」
左近の顔が固まった。
「帰れると言い切れるなら、こんな絵図は要らない! 勝てると分かっているなら、小早川一人のことで三日も眠らない!」
湊一の拳が、力なく左近の胸へ落ちる。
「怖いんだよ」
その言葉は、石田三成の口から出るには、あまりにも弱かった。
「皆が死ぬのが怖い」
湊一はうつむいた。
「左近が死ぬ。吉継が死ぬ。城が落ちる。妻も子供も、帰る場所を失う」
三成の記憶と、白瀬湊一の心が、胸の中で一つになっていた。
「知っているのに、止められないかもしれない」
「殿……」
「何を変えても、別の誰かが裏切るかもしれない。小早川を止めても、毛利が動かぬかもしれない。毛利を動かしても、家康が別の策を打つかもしれない」
湊一は、絵図の白い線を見た。
「だから、せめて帰る道を残したい」
城を守れなかった時も。
主君を守れなかった時も。
勝てなかった時も。
「俺たちがすべてを失っても、誰かが生きて帰れる場所を残したい」
「それは、敗れる覚悟では」
「違う」
湊一は首を振った。
「勝つ覚悟だけでは足りないんだ」
左近の目を見た。
「負けたあとも、生きる覚悟が要る」
左近の頬を、もう一本の涙が流れた。
それでも左近は、首を縦には振らない。
「殿を置いて帰るとは、申せませぬ」
「分かっている」
「殿へ迫る刃があれば、某は前へ出まする」
「ああ」
「某の命でしか殿を救えぬ時は、この命を使いまする」
湊一は目を閉じた。
「その時は」
喉が詰まる。
「その時は、俺が命じる」
「はい」
「だが、それまでは勝手に捨てるな」
左近は答えなかった。
「お前の命は、お前だけのものではない」
「家臣の命は、主のものにございます」
「ならば、主である俺が捨てるなと言っている」
左近の口元が、かすかに歪んだ。
「まこと、卑怯な主君にございますな」
「ああ」
「ご自分は帰ると約されぬのに」
「ああ」
「某へだけ帰れと命じられる」
「ああ」
「腹が立ちまする」
「知っている」
「殴ってもよろしいか」
「もう襟をつかんだだろう」
「あれは殴っておりませぬ」
左近は拳を握った。
湊一も逃げなかった。
しばらく二人は向かい合っていた。
だが、左近の拳が振るわれることはなかった。
代わりに、その大きな手が湊一の肩をつかんだ。
「ならば、殿」
「何だ」
「某へ帰れと命じるたび、殿も帰る道を探されよ」
「ああ」
「某が諦めそうになれば、殿が引き戻されよ」
「ああ」
「殿が諦めそうになれば」
左近の手に力が入る。
「某が、たとえ殴ってでも連れ帰りまする」
「分かった」
「俵のように担いでも?」
「それはやめろ」
「戦場で聞き分けのない方に、選ぶ権利はござらぬ」
湊一は、涙の残った顔で少し笑った。
「お互い様だ」
左近も笑った。
先ほどまで涙を流していた男の、低く、少しかすれた笑いだった。
その時、絵図の端に置かれた水碗が鳴った。
「そなたも同じじゃ、愚か者」
幼い声がする。
二人が振り向く。
水碗の縁から、小さな白い頭が半分だけ出ていた。
白那が両腕を震わせながら、どうにか碗の外へよじ登ろうとしている。
「白那」
「見るでない!」
「出られないのか」
「出られる!」
白那の片足が滑った。
ぽちゃん、と水へ落ちる。
すぐに顔を出し、濡れた白髪を額へ張りつかせながら叫んだ。
「これは水守として、碗の深さを測っておっただけじゃ!」
左近が大きな手を差し出した。
「お助けいたしましょう」
「無礼者! 妾に触れるでない!」
「では、このままで」
「待て!」
左近の指先につかまり、白那はようやく絵図の上へ上がった。
息を切らしながらも、胸を張る。
「まったく、揃いも揃って泣き喚きおって」
「泣いてはいない」
「某のは汗にございます」
「目から水を出すのは妾の領分じゃ。勝手に使うな」
「そこまで水守の支配下にございますか」
「当然じゃ」
白那は左近を見上げた。
「左近」
「はっ」
「死ぬ覚悟など、軽々しく口にするでない」
「覚悟がなければ、戦場には立てませぬ」
「違う」
白那は小さな指で、左近の胸を指した。
「死ぬ覚悟と、死ぬつもりは別じゃ」
左近が黙る。
「そなたは覚悟を口実に、先の苦しみから逃れようとしておる」
「水守殿まで、そのようなことを」
「妾は長く水を見てきた」
白那の身体は薄く透けていた。
絵図の文字が、小さな足の向こうに見えている。
「死んだ者は戻らぬ」
その声が、わずかに揺れた。
「残された者は、水音を聞くたび、今度こそ帰ってくるのではないかと思う」
湊一は息を止めた。
白那は、救えなかった命を今も抱えている。
それ以前にも、数え切れない者を水の向こうへ見送ってきたのだろう。
「待つ者に、終わりはない」
白那は俯きかけ、すぐに尊大な顔へ戻った。
「ゆえに、妾を待たせるでない」
「水守殿が、某を?」
「勘違いするでない!」
白那の顔が赤くなる。
「そなたほど大きな男が湯へ戻らねば、湯の加減が狂うではないか」
「某が入れば、湯が減るのでは?」
「減れば足せばよい!」
「ぬるくなりましょう」
「妾が温めてやる!」
「そのお身体で?」
「愚か者!」
白那が左近の指を蹴った。
小さな足では、まったく痛くない。
「妾は弱ってなどおらぬ!」
「碗から出られませんでしたが」
「あれは水守の鍛錬じゃ!」
「どのような鍛錬にございますか」
「そなたには百年早い!」
左近が再び笑った。
白那は今度は湊一を指差す。
「他人へ帰れと命じるならば、そなたも帰るためにあがけ」
「ああ」
「分からぬで済ませるな」
「分かっている」
「分かっておらぬ」
白那は、湊一の拳へ小さな手を置いた。
その手は驚くほど冷たかった。
「帰る場所とは、誰かが用意して待つだけのものではない」
湊一は、白那の手を包んだ。
「互いに残すものじゃ」
左近の大きな手も、その上へ重なった。
「重い!」
白那が叫んだ。
「妾を潰す気か、愚か者ども!」
二人は慌てて手を離した。
◇
夜明け前。
湊一と左近は、改めて絵図を挟んで座った。
先ほどまでの言い争いが、なかったことになったわけではない。
左近はまだ、殿を置いて帰るとは約していない。
湊一も、自分が必ず帰るとは約せなかった。
それでも、二人は同じ絵図を見ている。
「金吾中納言には、佐和山へ来ていただく」
湊一が言った。
「応じましょうか」
「応じさせる」
「何を差し出されます」
「まず、湯と飯だ」
左近の口元が少し緩んだ。
「戦支度の軍議に、湯宿のもてなしを持ち込まれますか」
「人の本音を聞くなら、槍を並べるよりはいい」
「毒を疑われますぞ」
「白那に毒見をさせる」
「妾を何だと思っておる!」
絵図の端で、白那が声を上げた。
先ほどの騒ぎで疲れたのか、娘が使う小さな座布団へ横になっている。
「水守としての務めだ」
「毒見を口実に、妾へ団子を食わせるつもりであろうな」
「団子でなくても毒見はできるだろう」
「団子でなければ、毒が分からぬ」
「どんな力だ」
「神秘じゃ」
左近が咳払いをした。
「金吾中納言を招くだけでは足りませぬ」
「ああ」
湊一は、新しい紙を取り出した。
「北政所様へも文を出す」
左近の目が変わった。
「北政所様へ」
「金吾殿は、あの方の甥だ」
豊臣家の中で居場所を見失ったとしても、血のつながる伯母の言葉なら、まだ届くかもしれない。
北政所は、秀吉の正室として、血縁の有無を問わず多くの若者を見てきた。
秀秋が豊臣の内へ帰れる道を示せる者がいるとすれば、その一人だった。
「金吾殿を説得するよう、頼まれますか」
「いや」
湊一は首を振った。
「説得より先に、話を聞いてほしいと頼む」
「裏切るなと叱っていただくのではなく?」
「叱られて戻れる者なら、俺が叱れば済む」
秀秋が必要としているのは、正しさを押しつける声ではないかもしれない。
自分が何を恐れているのか。
どこにも居場所がないと感じているのか。
それを、責めずに聞く者だ。
「帰る場所を失った者へ、忠義だけを求めても届かない」
左近は黙って聞いていた。
「北政所様に、金吾殿の帰る場所は、まだ豊臣の内にあると伝えていただく」
「それで戻りましょうか」
「分からない」
「また、分からないと」
「ああ」
湊一は、今度は目を逸らさなかった。
「分からないから、できることを全部する」
秀秋を信じるための文を出す。
同時に、松尾山へ備える。
秀秋の動きを見張る者を置く。
吉継には、南からの動きへ注意するよう知らせる。
人質は取らない。
証もなく斬らない。
だが、裏切りが明らかになった時には迷わない。
「信じることと、備えぬことは違う」
「ようやく軍議らしくなりましたな」
「今までも軍議だ」
「三日間、一人で紙を破ることを、軍議とは申しませぬ」
「泣いてはいない」
「先ほどは泣いておられた」
「お前もだろう」
「目から出た汗にございます」
白那が座布団から顔を上げた。
「見苦しい言い訳じゃ」
「水守殿は黙っておられよ」
「妾の前で泣いた者が偉そうに申すでない」
「泣いておりませぬ」
「二度も申す者は、たいてい泣いておる」
障子の向こうから、小さな足音が聞こえた。
「父上」
娘の声だった。
「入ってもよろしいですか」
湊一は、散らばった紙を慌てて集めた。
「どうした」
障子が開く。
娘が両手で文箱を抱えていた。
その後ろには妻が立っている。
「まだお休みになっていないと聞きました」
妻の声には、責める色よりも心配がにじんでいた。
「少し、軍議を」
「三日も続く軍議がございますか」
「……ある」
「湯宿でも、三日眠らぬ主人がいれば、皆が困ります」
湊一は言葉に詰まった。
白瀬湊一の心を、妻は知らないはずだった。
それでも、同じようなことを言う。
「父上」
娘が文箱を差し出した。
「お文を書かれるのでしょう?」
「なぜ分かった」
「墨を用意するよう、母上が」
妻は何も言わず、湊一を見た。
眠れぬ夜が続いていることも。
それでも何かを決めようとしていることも。
すべて気づいていたのだろう。
「二通だ」
湊一が言うと、娘は新しい紙を二枚取り出した。
「一つは、小早川金吾殿へ」
「はい」
「もう一つは、北政所様へ」
娘の手が止まった。
「北政所様とは、秀吉公の奥方様ですか」
「そうだ」
「怖い方ですか」
湊一は少し考えた。
「怖いというより、強い方だ」
「白那様よりも?」
「何を申す!」
座布団の上から白那が起き上がった。
「妾より強い者などおらぬ!」
「碗から出られなかったのに?」
娘が不思議そうに尋ねる。
白那の顔が真っ赤になった。
「あれは水守の鍛錬じゃ!」
「私もできますか?」
「百年早い!」
「百年たてば、できますか?」
「できる!」
「勝手に弟子を取るな」
「そなたは黙って文を書け」
娘がくすくす笑いながら、硯へ水を落とした。
小さな手で墨をする。
円を描くたび、黒い水が静かに濃くなっていく。
湊一は、最初の紙へ筆を置いた。
小早川秀秋へ。
佐和山へ来てほしい。
誰の耳もない場所で話をしたい。
責めるためではない。
豊臣のためという言葉を、一方的に押しつけるためでもない。
何を恐れているのか。
誰の言葉を信じられないのか。
どこへ帰りたいのか。
その胸の内を聞きたい。
書状には、裏切りの二文字を一度も使わなかった。
次に、北政所へ筆を向ける。
金吾中納言の心が、豊臣の内から離れかけているように思われること。
だが、まだ引き返せると信じたいこと。
甥御を叱るのではなく、ただ一度、その言葉を聞いていただきたいこと。
三成一人の言葉では届かぬものも、北政所の言葉なら届くかもしれないこと。
そこまで書き、湊一の筆が止まった。
「父上?」
娘が、隣から顔を覗き込む。
幼い頬。
小さな手。
この娘にも、やがて帰る道が必要になる。
佐和山が落ちた時。
石田の名が罪となった時。
父も母も、傍らにいられなくなった時。
どこへ行く。
誰のもとなら、この子を一人の人間として迎えてくれる。
現代で知った歴史の中に、一人の女性の名が浮かんだ。
今は北政所と呼ばれる人。
そして、さらに遠い北の地へつながっていく、細い縁。
湊一は、胸の奥で首を振った。
今から自分の敗北を前提に、娘を預ける文を書くことはできない。
この子の人生を、まだ起きていない戦の後始末として決めてはならない。
だが、道を一本残すことはできる。
「父上。私の顔に、墨がついていますか」
「いや」
「ずっと見ていらっしゃるから」
「大きくなったと思ってな」
「昨日と同じです」
「そうだな」
湊一は、文の末尾へ一行だけ書き添えた。
――いずれ戦の騒ぎが収まりましたなら、幼き娘を伴い、ご機嫌を伺いたく存じます。
守ってほしいとは書かなかった。
預かってほしいとも。
ただ、石田三成に幼い娘がいることを。
その娘が、夜明け前に父の隣で墨をすっていたことを。
北政所の記憶の片隅へ残したかった。
「何と書かれたのですか」
「戦が終われば、お前と一緒に北政所様へご挨拶に行くと書いた」
「父上も一緒ですか」
湊一の指が止まった。
左近が、黙ってこちらを見ている。
先ほど交わした言葉が胸へ戻った。
湊一は、娘の目から逃げなかった。
「ああ」
「必ず?」
必ずとは言えない。
現代で知った未来が、そう告げる。
だが、左近が隣にいる。
白那が見ている。
妻も、静かに答えを待っていた。
「必ず帰るために、できることをする」
娘は少し首を傾げた。
約束とは少し違う答えだったからだろう。
それでも、やがて笑った。
「では、私も待っています」
湊一の胸が痛んだ。
「父上が帰ってきたら、お湯を沸かします」
「お前が?」
「白那様と一緒に」
「妾は湯番ではない!」
「お団子も用意します」
白那が黙った。
「……帰ってきた者へ供物を与えるのは、悪くない」
「用意するのは私です」
「妾が受け取ってやる」
「父上の分ですよ」
「毒見が要る」
「半分こです」
「ならば許す」
娘は白那の隣へ、小さな団子を一つ置いた。
いつの間に持ってきたのか。
白那は要らぬという顔をしたまま、すぐに両手で抱え込んだ。
左近が、その光景を見ている。
「左近」
湊一が呼んだ。
「はっ」
「お前の分の団子も用意させる」
「大きなものを願いまする」
「帰ってきたらな」
左近の顔から、笑みが消えた。
だが、今度は目を逸らさなかった。
「では」
低く、静かな声だった。
「食い損ねぬよう、戻らねばなりませぬな」
それは、帰るという約束ではなかった。
けれど、死ぬつもりしかなかった男が初めて口にした、帰る側の言葉だった。
湊一は頷いた。
「ああ」
北政所への書状は、夜明けとともに佐和山を出る。
今は、小早川秀秋を豊臣の内へ引き戻すための一通。
だが、その末尾に添えられた娘の存在が、やがて遠い北へ流れる縁の、最初の一滴となる。
そのことを、この時の娘は知らない。
湊一もまた、その縁が本当に娘の帰る道となるのかまでは分からなかった。
だからこそ、今は道を増やす。
一通の文。
一度の出会い。
一杯の湯。
一膳の飯。
人と人との間に残した細い縁が、いつか誰かの帰る場所になると信じて。
◇
日が昇り始めた頃。
一騎の使者が、佐和山城へ駆け込んだ。
馬は汗に濡れ、使者の衣には長い道の泥がこびりついている。
「敦賀より、知らせにございます」
差し出された書状には、見慣れた筆跡があった。
大谷刑部少輔吉継。
三成の古くからの友。
そして湊一が、その最期を知っている男。
小早川秀秋の軍勢を正面に受け、崩れゆく西軍の中で戦う男。
湊一は、震える指で書状を開いた。
記されていた言葉は短かった。
――近く、佐和山へ参る。
味方になるとは書かれていない。
共に戦うとも。
ただ、佐和山へ来るとだけ記されている。
「吉継……」
会いたかった。
だが、会うのが怖かった。
その顔を見れば、知っている未来がさらに現実へ近づく。
それでも、逃げるわけにはいかない。
左近が、湊一の隣へ立った。
「殿」
「何だ」
「刑部殿にも、帰れと命じられますか」
湊一は書状を握りしめた。
「命じる」
「素直に聞かれますかな」
「聞かないだろうな」
「頑固なお方ですからな」
「お前に言われたくはないだろう」
「殿にも」
二人は、ほんの少しだけ笑った。
絵図の上には、赤い道と白い道が残っている。
勝つための道。
帰るための道。
どちらも、まだ途中だった。
ちりん。
白那の鈴が鳴る。
朝の光を受けた水碗から、澄んだ波紋が広がった。
「行くぞ、左近」
「はっ」
「勝つ支度をする」
「御意」
「そして、皆で帰る支度もだ」
左近はすぐには答えなかった。
やがて、胸へ手を当てる。
「殿」
「何だ」
「某を必ず、お連れくだされ」
湊一は左近を見た。
「俺を置いていくなよ」
「御意」
今度の返事は、迷いなく広間へ響いた。
関ヶ原まで、あと四十七日。
今回は三成と左近が互いの胸の内をぶつけ合ったため、いつもよりかなり長い一話となりました。
勝つために人を死なせるのか。
敗北へ備えることは、弱さなのか。
そして、主君を失っても生きろという命令は、忠臣にとって救いなのか、責め苦なのか。
書いているうちに二人とも引かなくなり、私自身、天手古まいも熱くなってしまいました。
それでも左近は、まだ「必ず帰る」とは約束していません。
ただ、死ぬことを先に選ばず、帰る道を探すと決めました。
小早川秀秋と北政所へ送られた二通の書状。
その一通に添えられた娘の存在も、やがて遠い北へ続く、小さな縁となっていきます。
次回、第三十二湯「吉継、友を選ぶ」。
佐和山へ、未来の最期を知る友がやって来ます。




