第三十湯 悪名は、水より速く
第三章、最終話です。
人の噂は、ときに水よりも速く、真実よりも先に広がります。
けれど湊一は、その濁った流れの中で、ようやく自分が本当に守りたいものへ辿り着きます。
第三十湯 悪名は、水より速く
福島正則が佐和山を発った、その翌朝。
城下に、妙な噂が流れた。
「福島様が、治部少輔様に膝をついたそうじゃ」
「いや、逆じゃ。治部少輔様が内府様へ降るゆえ、仲立ちを頼んだとか」
「湯殿で密談したらしいぞ」
「福島様は、佐和山方につくと誓ったそうな」
同じ出来事から生まれたとは思えぬほど、噂の形はばらばらだった。
それでも、どの噂にも共通するものがある。
石田三成は、何かを企んでいる。
その一言だけは、誰も疑わなかった。
◇
「違う!」
佐和山城の台所で、湊一は思わず声を上げた。
街道から戻った足軽が、困ったように頭を下げている。
「申し訳ございませぬ。されど、宿場では皆、そのように……」
「正則は、昔の話をしに来ただけだ。湯に入って、飯を食って、笑って帰った。それだけだ」
「はっ」
「誰かが降ったわけでも、密約を交わしたわけでもない」
「はっ……」
足軽の返事は歯切れが悪い。
湊一は、そこで言葉を止めた。
この男を責めても仕方がない。
噂を作ったのは、この男ではない。
では、誰が最初に言ったのか。
宿場の旅籠か。
街道の茶屋か。
荷を運ぶ商人か。
それとも、最初から噂を広めるために放たれた者か。
「どこから流れた」
「それが……皆、ほかの者から聞いたと申すばかりで」
湊一の横で、左近が腕を組んだ。
「なるほど。敵ながら、よく分かっておる」
「何をだ」
「殿の嫌われ方を、でござる」
遠慮のない言葉だった。
だが、左近の目は笑っていない。
「石田三成は、銭勘定ばかりする冷たい男。人の情を解さぬ堅物。太閤殿下の威を借り、諸将を見下す小役人――」
「言いたい放題だな」
「某が申しておるのではござらぬ。世間が、そう思いたがっているのでござる」
思いたがっている。
その言葉が、湊一の胸に刺さった。
事実であるかどうかではない。
人は、自分が信じやすい話を信じる。
福島正則と笑い合ったと聞くよりも、石田三成が何かを企んだと聞くほうが、世間には分かりやすい。
「噂を打ち消す文を出す」
「誰に向けてでござる」
湊一は答えられなかった。
大名へか。
商人へか。
村々へか。
すべての宿場と、すべての茶屋と、街道を歩くすべての者へ、文を届けられるはずがない。
左近は低く言った。
「届かぬ声を追いかければ、殿の足が止まりまする」
それは、第三章を通して湊一が見続けてきたものだった。
文は届かない。
声はねじ曲げられる。
善意は遅く、悪意だけが先回りする。
水の濁りなら、上流を探せばよい。
井戸の毒なら、底をさらえばよい。
だが、噂には底がない。
人から人へ渡るたび、形を変えながら広がっていく。
「水より速いな」
「は?」
「悪名だ」
湊一は拳を握った。
「水は、高いところから低いところへ流れる。だが悪名は、場所を選ばない。坂を上り、川を越え、城壁まで抜けてくる」
左近が、わずかに眉を寄せた。
湊一の中には、四百年以上先の記憶がある。
石田三成。
人望のない男。
融通の利かない男。
徳川家康に敗れた、愚かな男。
後の世に残る三成の姿もまた、こうして作られていくのかもしれない。
一つの噂が、次の噂を呼ぶ。
戦に敗れれば、それらはすべて真実として書き残される。
勝った者の言葉は歴史となり、負けた者の声は、濁った水の底へ沈む。
「父上」
小さな声がした。
振り向くと、台所の入口に娘が立っていた。
両手で盆を抱えている。
盆の上には、湯気の立つ白湯と、小さな団子が二つ。
その後ろから、鈴の音がした。
ちりん。
白那が現れる。
まだ幼い姿のままだった。
透けるような白い髪は乱れ、歩く足取りにも力がない。
それでも顎だけは、いつもどおり尊大に上がっている。
「朝から騒々しいぞ、愚か者」
「白那。寝ていなくていいのか」
「妾を誰だと思うておる。少々、水の力を使いすぎた程度で寝込むほど、やわではない」
そう言った直後、白那の膝が小さく揺れた。
娘が慌てて、その肩を支える。
「白那さま」
「触れるでない。妾は転びかけたのではない。床の具合を確かめただけじゃ」
「床は、昨日から同じです」
「黙れ、小さき湯番」
白那は娘に支えられたまま、湊一の前まで来た。
そして盆の団子へ目を向ける。
「これは何じゃ」
「白那さまのお薬代わりに、と」
「薬とな」
「甘いものを食べると、少し元気になるかと思って」
「妾を団子一つで機嫌を取れる幼子と思うたか」
白那は団子を一つつまんだ。
「これは供物として受け取る。水守が供物を粗末にしては、そなたらに災いが降りかねぬからな」
「二つあります」
「一つは毒見じゃ」
「どちらも同じ団子です」
「毒は一つ目にないと見せかけ、二つ目に仕込むものじゃ。そなたは用心が足りぬ」
白那は二つ目も口へ運んだ。
娘が、ほんの少し笑った。
その笑顔を見て、湊一の中で固くなっていたものが、わずかに緩んだ。
白那は団子をのみ込み、湊一を見上げる。
「悪名が水より速い、とな」
「聞いていたのか」
「そなたの声は無駄に大きい。井戸の底まで響いておったわ」
白那は白湯を一口すすった。
「ならば、追うな」
「追うな?」
「流れた水を、一滴ずつ汲み戻す愚か者がおるか」
「だが、このままでは――」
「噂をすべて止めることなどできぬ。人の口は、ひび割れた樋より始末が悪い」
白那は小さな指で、湊一の胸を突いた。
「そなたが守るべきものは、口先の評判か」
「違う」
「ならば、何じゃ」
湊一は答えようとして、言葉に詰まった。
天下。
豊臣家。
佐和山。
歴史。
どれも間違いではない。
だが、どれも胸の奥へ、ぴたりとはまらない。
自分は石田三成になった。
だから、歴史を変えなければならないと思った。
関ヶ原に勝たなければならない。
徳川家康を止めなければならない。
後世に残る悪名を消さなければならない。
ずっと、そう思っていた。
だが。
娘が盆を抱えている。
台所の奥では、妻が朝餉の鍋をかき混ぜている。
竈の前では、料理人が汗を拭いながら汁の味を確かめている。
廊下の向こうから、湯桶を運ぶ者たちの声がする。
井戸端では、水をくむ音が重なっている。
かたん。
ざあっ。
ことん。
湯気と飯の匂い。
働く者たちの声。
子どもの笑い声。
そのすべてが、遠い記憶の中にある湯宿「白峰」の朝と重なった。
玄関を掃く音。
厨房から漂う味噌汁の香り。
浴場から戻る客の、火照った顔。
旅を終えた者へ、自然に口からこぼれていた言葉。
――お帰りなさいませ。
胸の奥で、何かが音を立ててつながった。
「そうか」
湊一の口から、息のような声がこぼれた。
白那が眉を上げる。
「何がじゃ」
「俺は……最初から知っていたんだ」
湊一は台所を見渡した。
佐和山城。
石田三成の城。
天下を争う者たちが集まり、兵が駆け、文が飛び交う場所。
けれど、それだけではない。
ここで人が飯を食べる。
ここで人が湯につかる。
ここで傷ついた者が眠り、疲れた者が息をつく。
誰かが出ていき、誰かが帰ってくる。
佐和山は、城である前に。
「帰る場所だ」
今度の言葉は、迷いなく出た。
「俺が守りたかったのは、ここだった」
胸の奥にたまっていた濁りが、一気に流れ落ちていく。
「天下じゃない。評判でもない。後の世に、俺がどう書かれるかでもない」
湊一の声が震えた。
恐怖ではなかった。
ようやく答えを見つけた者の震えだった。
「飯を食べて、湯に入って、くだらないことで笑って――」
娘を見た。
妻を見た。
左近を見た。
白那を見た。
「出ていった者が、もう一度ここへ帰ってこられる。その場所を、俺は守りたかったんだ」
心臓が強く打つ。
関ヶ原の結末を知っている恐怖は、消えていない。
佐和山が落ちる未来も。
左近が死地へ向かう未来も。
妻子が追われる未来も。
何一つ、消えてはいない。
それでも。
目の前が、急に明るくなった。
歴史に勝つ。
徳川に勝つ。
後世の悪名に勝つ。
そんな大きすぎるものばかり見上げて、自分が何をするべきか見失っていた。
自分は、英雄ではない。
天下人でもない。
湯宿の若旦那だ。
人を迎え、飯を食わせ、湯で温め。
そして最後には、無事に帰す。
「俺は、みんなを帰す」
湊一は笑った。
この時代へ来てから、初めて心の底から笑えた気がした。
「兵も、城の者も、村の者も。出ていった者を、必ず帰す。そのためなら、俺は何だってする」
「父上……」
娘の顔が、ぱっと明るくなった。
台所の者たちも、手を止めて湊一を見ている。
左近が、目を見開いていた。
白那だけが、呆れたように鼻を鳴らす。
「遅いわ、愚か者」
「そうだな。ずいぶん時間がかかった」
「そなたは初めから若旦那であろう。何を今さら、城主の真似事に迷うておる」
「城主も俺だ」
「ならば両方やれ。まこと、手のかかる男じゃ」
白那の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
湊一は大きく息を吸った。
湯気の匂いが肺いっぱいに入る。
怖くないわけではない。
負けてもよいわけでもない。
勝てるなら、勝ちたい。
誰一人失わず、佐和山も守り抜きたい。
だが、勝つことだけにしがみつけば、敗れた瞬間にすべてが終わる。
ならば、終わらせなければいい。
城が残らなくても。
名が汚されても。
人が生き、記憶が残り、いつか帰れる場所へつながる道が残ればいい。
「左近」
「はっ」
「城内と城下の食糧を、もう一度数え直す」
湊一の声には、先ほどまでの焦りがなかった。
「戦に出る兵の分だけではない。残る者の分も、避難してくる村人の分もだ」
「承知」
「井戸と水路を守る人数を決める。一つが濁っても、別の水を使えるようにする」
「はっ」
「薬、薪、塩、米。持ち出せる形に分けておく。怪我人を運ぶ者も決める」
次々に言葉が出てくる。
旅館で火事や災害に備えたときと同じだ。
客をどこへ導く。
誰が人数を数える。
何を持ち出し、誰を先に逃がす。
勝てるかどうか分からないからこそ、帰す支度をする。
「それから、城を出る道を調べる」
台所の空気が変わった。
左近は、すぐには返事をしなかった。
「殿」
「逃げるためじゃない」
湊一は、はっきりと言った。
「帰るためだ」
正面の道が塞がれたとき、どこから人を逃がすのか。
怪我人をどこへ運ぶのか。
女や子どもを、誰に預けるのか。
城が落ちたとしても、命と記憶をどこへ残すのか。
考えたくなかった。
考えれば、負けを認めることになる気がしていた。
だが違う。
これは敗北の支度ではない。
どんな結末になろうとも、人を明日へ送り出す支度だ。
左近はしばらく湊一を見つめた。
やがて、ふっと息を吐く。
「殿は、妙な城主になられましたな」
「嫌か」
「まさか」
左近の口元が、わずかに上がった。
「城より先に、人を帰す道を考える城主など、聞いたことがござらぬ」
「なら、俺が最初になればいい」
「御意」
左近は深く頭を下げた。
娘が湊一の袖をつかむ。
「お城が、なくなるのですか」
湊一は娘と目の高さを合わせた。
「なくさないために、戦う」
「はい」
「でも、もし何かあっても、お前たちが帰れる道は父上が作る」
「父上も帰ってきますか」
胸が詰まった。
だが、今度は迷わなかった。
「帰る」
湊一は娘の小さな手を握った。
「必ず帰る。帰って、また一緒に飯を食う」
「お団子もですか」
「団子もだ」
「妾の供物を勝手に約束するでない」
白那が割り込んだ。
娘がくすりと笑う。
「白那さまの分も作ります」
「妾は要らぬ」
「たくさん作ります」
「要らぬとは申したが、供えてはならぬとは申しておらぬ」
「どっちなんだ」
「黙れ、愚か者」
小さな笑いが、台所に広がった。
その声を聞きながら、湊一は立ち上がった。
外では、石田三成の悪名が街道を走っている。
やがてそれは川を越え、山を越え、まだ会ったこともない者たちの耳にまで届くだろう。
止めることはできない。
けれど、悪名より速くできることがある。
食糧を蓄える。
水を守る。
逃げ道を作る。
手をつなぐ。
生きて帰れと伝える。
「左近」
「はっ」
「勝つ支度だけでは足りない」
「では、何の支度を」
湊一は台所に満ちる湯気を見た。
この湯気を。
この笑い声を。
この場所で生きた者たちの記憶を。
たとえ城が焼けても、次の時代へ渡す。
「残す支度だ」
鈴が鳴った。
ちりん。
澄んだ音は、濁った噂よりずっと小さい。
けれど、その音は一人から一人へ、確かに手渡されていく。
悪名は、水より速い。
それでも。
帰る場所を願う心は、時を越える。
湊一はもう、濁った流れを追いかけなかった。
守るべきものが、はっきり見えていた。
――関ヶ原まで、あと四十八日。
第三章「濁る水、届かぬ声」は、これにて完結です。
悪名を消すことではなく、誰もが帰ってこられる場所を残すこと。
湊一はようやく、石田三成としてではなく、湯宿の若旦那として戦う理由を見つけました。
次章は、
第四章「勝つ支度ではなく、残す支度」。
戦は、さらに近づきます。
それでも湯は沸き、飯は炊かれ、帰る道は作られていきます。




