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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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第二十九湯 福島正則、湯を笑う

第二十九湯です。


今回は、福島正則と三成の関係を描きます。

友とは言いがたい。

けれど、同じ秀吉に仕え、同じ時代を走り、互いの働きを誰より知っている。

だからこそ、簡単には許せず、簡単には敵にもなれない。

そんな二人の、苦い湯の時間です。

第二十九湯 福島正則、湯を笑う


 福島正則が佐和山へ来たのは、昼前だった。


 供回りは五騎。


 旗も立てず、軍勢も連れていない。


 それでも城門の空気が張り詰めたのは、馬上の男が、今にも門を蹴破りそうな顔をしていたからだ。


「福島左衛門大夫様にございます!」


 門番の声が裏返る。


 正則は馬上から佐和山城を見上げた。


「治部はおるか」


「は、はい」


「ならば通せ」


「ご用向きを――」


「本人に言う」


 正則はそれだけ言うと、返事を待たずに馬を降りた。


 以前ここへ来たときとは違う。


 湯に文句をつけに来たのでも、飯の味を試しに来たのでもない。


 その顔に笑いはなかった。


     ◇


 湊一は、書きかけの文を置いた。


 机の上には、昨夜から何度も書き直した命令が並んでいた。


 人命に関わる命は、必ず複数の者が確かめること。


 命の意味が曖昧なときは、勝手に実行しないこと。


 命令を伝える者は、一字一句を違えぬこと。


 そして最後に、湊一は一文を加えた。


 ――人を生かすためならば、命令を止めよ。


 石田三成なら、書かなかった言葉かもしれない。


 だが、白瀬湊一は書いた。


 もう二度と、知らぬところで命が歪められぬように。


「正則が来たそうじゃな」


 鈴の音とともに、白那の声がした。


 部屋の隅。


 湯気の薄膜をまとったような姿で、白那が座っていた。


 昨日より小さい。


 白い髪も、頬も、畳の目が透けて見えるほど薄くなっている。


 それでも腕を組み、いつも通り偉そうに顎を上げていた。


「聞こえていたのか」


「あれだけ足音がやかましければ、井戸の底でも分かるわ」


 白那は立ち上がろうとした。


 小さな膝が震える。


 湊一が手を伸ばすと、白那は素早くその手を払った。


 ただし、以前ほどの力はなかった。


「触れるでない」


「転びそうだった」


「転ばぬ」


「膝が笑っている」


「これは武者震いじゃ」


「正則と戦うつもりか」


「妾を見て頭を下げぬならば、考えてやってもよい」


「今はやめておけ」


「何じゃ、その憐れむような目は」


「心配しているだけだ」


「それが余計じゃと申しておる」


 白那は頬を膨らませた。


 その表情は幼い。


 だが、目の奥にはまだ消えぬ悔しさがあった。


 救えなかった命を、水守もまた背負っている。


 湊一はそれ以上、何も言わなかった。


「正則を通してくれ」


 近習へ命じる。


「どちらへお通ししますか」


「広間ではなく、奥の座敷へ」


「湯殿ではないのか」


 白那が尋ねた。


「今日は湯に入りに来た顔じゃない」


「どのような顔で来ようと、汗はかく。客は客じゃ」


「本人が客だと思っていればな」


 廊下の向こうから、荒々しい足音が近づいてきた。


「治部!」


「来たようだ」


「聞けば分かるわ」


     ◇


 襖が開いた。


 正則は湊一を見るなり、挨拶もせずに言った。


「わしは、湯に入りに来たのではないぞ」


「分かっている」


「飯も食わぬ」


「それは後で決めればいい」


「勝手に決めるな!」


 正則はどかりと座った。


 湊一も向かいに腰を下ろす。


 二人の間には、茶だけが置かれた。


 正則は茶碗を取らない。


「細川殿の奥方が亡くなった」


「ああ」


「お前の命で、屋敷が囲まれた」


「そうだ」


「火まで出た」


「俺は火を命じていない」


「人を殺せとも命じておらぬそうだな」


「命じていない」


 正則の拳が畳を打った。


「ならば、誰のせいじゃ!」


 茶碗の水面が大きく揺れた。


 部屋の隅に置かれた水鉢も、同じように震える。


「俺のせいだ」


 湊一は答えた。


 正則の眉が動いた。


「……何?」


「火を命じてはいない。命を奪えとも言っていない。そこは必ず明らかにする」


「ならば――」


「だが、俺の命令が人を追い詰めた」


 湊一は正則から目をそらさなかった。


「俺の名で屋敷が囲まれた。俺の名で、逃げ道が塞がれた」


「……」


「命令を歪めた者がいる。それを止められなかった俺もいる」


 正則の顔から、怒りが消えたわけではない。


 むしろ、拳はさらに固く握られていた。


「言い逃れぬのか」


「逃げられるものなら、逃げたかった」


「治部」


「歴史を知っていた」


 思わず漏れた言葉に、正則が眉をひそめる。


「歴史だと?」


「こちらの話だ」


「また、お前だけが分かる言葉を使いおって」


「そうだな」


 湊一は目を伏せた。


「知っていたのに、届かなかった」


 細川屋敷。


 炎。


 逃げ場のない人々。


 白那の小さな身体。


 娘の手。


 すべてが胸の奥で重なった。


「もっと早く気づけたはずだった。もっと強く止められたはずだった。もっと――」


「それ以上、申すな」


 正則の声が低くなった。


 湊一が顔を上げる。


「何だ」


「聞いておれば腹が立つ」


「責任を問うために来たんだろう」


「責任を背負った顔を見せつけろとは言っておらぬ!」


 正則は吐き捨てた。


「お前は昔からそうじゃ。何でも自分一人で抱え込み、周りには何も言わぬ」


「昔から?」


「忘れたか」


 正則はようやく茶碗を取った。


 だが、飲まずに手の中で回した。


「まだ殿下が、天下人と呼ばれる前のことじゃ」


 その呼び名だけで、部屋の空気が変わった。


 豊臣秀吉。


 二人が同じ主君と仰いだ男。


「わしらが腹を空かせて陣へ戻れば、お前は兵糧の帳面を睨んでおった」


「数えなければ、次の日の飯がなくなる」


「わしが一椀多く食えば、すぐに気づいた」


「一椀ではなかった」


「清正も食っておった!」


「お前の方が二椀多かった」


「まだ覚えておるのか!」


「勘定だからな」


 正則は顔をしかめた。


 だが、怒鳴った声には、ほんのわずかに昔の響きが混じっていた。


 二人は友ではなかった。


 正則は三成の細かさを嫌った。


 三成は正則の荒っぽさに、何度も眉をひそめた。


 酒を酌み交わして胸の内を明かすような仲でもない。


 だが、同じ男の声を聞いてきた。


 雨の陣でも。


 泥に沈む道でも。


 兵が腹を空かせた夜でも。


 勝った朝も、負けた夕暮れも。


 正則が前で槍を振るう間、三成は後ろで米を動かした。


 三成が道を整えれば、正則はその道を走った。


 顔を合わせれば言い争った。


 それでも、どちらかが欠ければ、秀吉の戦は動かなかった。


「お前は、いつも後ろにおったな」


 正則が言った。


「わしらが血まみれになっておるとき、涼しい顔で帳面を見ていた」


「涼しい顔をしていただけだ」


「何?」


「米が届かなければ、お前たちは死ぬ。道を間違えれば、援軍が遅れる。数を一つ誤れば、飯を食えない兵が出る」


 湊一は正則を見た。


「怖くなかったわけじゃない」


 正則の目が細くなった。


「ならば、そう言えばよかったではないか」


「言っても、お前は聞かなかっただろう」


「聞かぬ」


「ほらな」


「じゃが――」


 正則は何かを言いかけた。


 だが、その言葉を飲み込んだ。


 茶碗から、細い湯気が上がる。


 その向こうに、若かった者たちの姿が一瞬だけ見えた気がした。


 清正が怒鳴る。


 正則が笑う。


 三成が眉をひそめる。


 その真ん中で、秀吉が誰よりも大きな声で、まだ形のない天下を語っている。


 仲がよかったわけではない。


 同じ夢を見ていたとも言い切れない。


 ただ、同じ男に前へ進めと命じられ、同じ時代を走った。


「殿下がおられたなら」


 正則が低く言った。


「今のわれらを見て、何と仰せになったであろうな」


「まず、お前を叱るだろう」


「なぜわしからじゃ!」


「声が大きい」


「お前は、陰気な顔をするなと叱られる!」


「それは否定できない」


 正則の口元が、ほんの少しだけ動いた。


 笑ったようにも見えた。


 だが次の瞬間、その表情は消えた。


「だからこそ、腹が立つのじゃ」


 正則は茶碗を置いた。


「わしはお前を、知らぬ敵だと思うことができぬ」


 湊一は黙っていた。


「何を考えておるか分からぬ男ではある。気に食わぬ。顔を見るたび腹が立つ」


「随分な言われようだ」


「黙れ」


 正則は湊一を睨んだ。


「じゃが、お前が後ろで米を動かしておったことも知っておる。眠らずに文を書いておったことも、兵の数を数えておったことも知っておる」


 太い指が、畳をつかんだ。


「知っておるからこそ、今のお前が許せぬ」


「正則」


「呼ぶな。友のように聞こえる」


「友ではないな」


「当たり前じゃ!」


 正則は即座に怒鳴った。


 部屋の隅で、ちりん、と鈴が鳴る。


「やかましいぞ、猪武者」


 白那が水鉢の脇に立っていた。


 正則が振り返る。


「また、お前か」


「妾を忘れるとは、猪より頭が悪いのう」


「誰が猪じゃ!」


「そなた以外に誰がおる」


「この童――」


「童ではない!」


 白那は小さな胸を張った。


 その身体は透け、今にも湯気へ溶けそうだった。


「妾は水守。そなたらが泥まみれになろうと、血に濡れようと、水だけは見てきた」


「水守だと?」


「そなたも治部も、愚か者じゃ」


「なぜ、わしまで言われる!」


「治部は考えすぎて誤る。そなたは考える前に怒鳴る」


「考えておるわ!」


「ならば、もう少し静かに考えよ。水面が揺れてかなわぬ」


 正則は言葉を失った。


 白那はふんと鼻を鳴らす。


 その直後、小さな身体が傾いた。


「白那!」


 湊一が抱き止める。


 白那には、払いのける力も残っていなかった。


「放せ……」


「立てないだろう」


「立てる」


「足が浮いている」


「妾は水守じゃ。浮くこともある」


「それは苦しい言い訳だな」


「黙れ、愚か者……」


 白那は湊一の腕の中で目を閉じた。


 正則は、その姿を黙って見ていた。


「その童も、細川殿の奥方を助けようとしたのか」


「童ではないと怒られるぞ」


「今は聞こえておらぬ」


「聞こえておる……」


 白那が目を閉じたまま呟く。


 正則は少しだけ顔をそむけた。


「お前だけではないのだな」


「ああ」


「背負っておるのは」


「ああ」


 部屋に沈黙が落ちた。


 やがて正則の腹が、大きな音を立てた。


 ぐうううう。


 白那が薄く目を開ける。


「猪が鳴いたぞ」


「これは腹じゃ!」


「同じようなものよ」


 湊一は思わず息を漏らした。


 正則が睨む。


「笑うな!」


「飯は食わないんじゃなかったのか」


「食わぬとは言っておらぬ!」


「最初に言った」


「気が変わった!」


     ◇


 正則は、白飯を三杯食べた。


 焼いた川魚を二尾。


 芋と大根の煮物も、椀が空になるまで平らげた。


「もう一杯いるか」


「いらぬ」


「本当に?」


「……半分だけ持ってこい」


「一杯でいいな」


「半分じゃ!」


 正則は味噌汁を飲み干し、大きく息を吐いた。


 白那は湊一の隣に座らされ、小さな椀の粥を口へ運んでいる。


「それは何じゃ」


 正則が尋ねる。


「水守の供物じゃ」


「粥に見えるが」


「そなたのような猪には分からぬ」


「わしの飯より少ないではないか」


「妾は慎み深いのじゃ」


「先ほど、余った団子をすべて持ってこいと言っておったぞ」


「聞き違いじゃ」


 正則が、ふっと鼻を鳴らした。


 笑いかけた。


 だが、すぐに顔を引き締める。


「治部」


「何だ」


「わしは、お前を許したわけではない」


「分かっている」


「この先、お前と同じ道を歩くとも限らぬ」


「ああ」


「次に会うときは、敵かもしれぬぞ」


「そうだな」


 正則は立ち上がった。


「それでも、今日聞いたことだけは忘れぬ」


「責任を認めたことか」


「それだけではない」


 正則は白那を見た。


「お前一人で背負っておるのではないということじゃ」


 白那が粥を食べながら言う。


「そなたに心配されるほど、落ちぶれてはおらぬ」


「口だけは元気じゃな」


「そなたより賢い分、口も回る」


「治部。こやつをどうにかせい」


「無理だ」


「即答するな!」


     ◇


 正則は、日が傾く前に城を出た。


 湊一は城門まで見送った。


 白那は来なかった。


 来られなかった、という方が正しい。


 馬へ乗る前、正則は湯殿の方を見た。


 屋根の向こうから、白い湯気が立ち上っている。


「相変わらず、湯を沸かしておるのだな」


「客がいるからな」


「天下が割れようというときにか」


「天下が割れようと、腹は減る。汗もかく。傷も痛む」


「それで湯か」


「それで湯だ」


 正則は鼻を鳴らした。


「そんなもので、戦が止まるものか」


「止まらないだろうな」


「人の怒りも、恨みも消えぬ」


「ああ」


「ならば、何のために沸かす」


「少しだけ、立ち止まるためだ」


 正則は黙った。


 湯気を見つめる。


 怒りは消えない。


 失われた命も戻らない。


 同じ主君に仕えた年月が、二人を同じ道へ戻すわけでもない。


 それでも今日、正則は刀を抜かなかった。


 湊一も言い逃れなかった。


 ほんのわずかな間だけ、二人は敵でも味方でもなく、同じ時代を生きた者として向き合った。


「腹の立つ湯じゃ」


 正則が言った。


「怒りを冷ましながら、忘れさせてはくれぬ」


「それは湯のせいじゃない」


「だから貴様は気に食わぬのじゃ、治部!」


 正則は怒鳴った。


 そして突然、声を上げて笑った。


「ははははっ!」


 初めて佐和山の湯へ来た日のような、豪快な笑いではなかった。


 苦く、短い笑いだった。


 昔を思い出した男の笑い。


 まだ相手を、完全な敵とは呼び切れぬ男の笑いだった。


「殿下が見ておられたなら、笑われるであろうな」


「俺たちがか」


「湯を挟まねば、まともに話もできぬ男どもだとな」


「違いない」


「笑うな!」


「お前が先に笑ったんだろう」


 正則は馬へ乗った。


「次は笑わぬぞ、治部」


「覚えておく」


「湯にも入らぬ」


「それは好きにしろ」


「飯も食わぬ!」


「それは無理だな」


「なぜ決めつける!」


 正則の怒声とともに、五騎が城門を出ていった。


 その背は、やがて街道の向こうへ消えた。


     ◇


「三成様!」


 正則が去って間もなく、近習が駆けてきた。


「どうした」


「城下で妙な噂が広がっております」


「噂?」


「福島様が三成様に降ったと」


 湊一は眉をひそめた。


「正則が城を出たばかりだぞ」


「それだけではございませぬ。三成様が福島様の前で罪を認め、内府様へ降ると誓ったとも」


「誰がそんな話を」


「分かりませぬ。ですが、すでに街道の茶屋でも語られていると」


 早すぎる。


 正則が佐和山へ来ることを、誰かが知っていた。


 二人が何を話すか分からぬうちから、噂だけが用意されていた。


 事実に、ほんの少しの嘘を混ぜる。


 正則が来た。


 三成が頭を下げた。


 そこまでは本当だ。


 だから、その先の偽りまで真実に見える。


 城門脇の水路を、黒い羽が一枚流れていった。


 ちりん。


 城内の奥から、白那の鈴が鳴る。


「濁った水ほど、流れは速いぞ」


 弱々しい声が、水音に乗って届いた。


 湊一は黒い羽を見つめた。


 人の口から口へ。


 城から村へ。


 村から街道へ。


 悪意は、水よりも速く流れ始めていた。


 関ヶ原まで、あと四十九日。

お読みいただき、ありがとうございます。


三成と正則は、仲のよい友人ではありません。

それでも、秀吉のもとで苦楽を共にし、前線と後方、それぞれの役目を支えてきた間柄です。

嫌いだからこそ目につき、知っているからこそ腹が立つ。

今回は、そんな「友ではないが、他人でもない」二人を描きました。

しかし、二人がようやく言葉を交わした裏で、悪意ある噂はすでに走り始めています。


次回、第三十湯「悪名は、水より速く」。

引き続きお楽しみいただけましたら幸いです。

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