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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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第二十七湯 ガラシャの灯

第二十七湯です。


今回は、細川玉――ガラシャの生涯と、その最期にともされた灯を描きます。

史実を踏まえつつ、湊一の命令が何者かによって歪められたという、本作独自の展開を加えています。

届かなかった文。

間に合わなかった水。

そして、消えなかった灯のお話です。

第二十七湯 ガラシャの灯


 大坂へ使者を送り出してから、夜が二度明けた。


 返事は、まだ来ない。


 佐和山城の台所では、朝餉の支度が始まっていた。


 釜から白い湯気が立ち、米の炊ける匂いが廊下まで流れている。


 いつもなら、それだけで少し心が落ち着く。


 だが今朝の湊一には、白い湯気さえ息苦しく見えた。


「大坂からの早馬は」


「まだにございます」


 近習の返事を聞き、湊一は奥歯を噛んだ。


 遅い。


 いや、焦っているだけだ。


 佐和山から大坂まで、馬を継いでも時はかかる。


 まして街道には、誰が味方で、誰が敵かも分からぬ兵があふれ始めている。


 文は、声より遠くへ届く。


 だが途中で奪われれば、どこにも届かない。


 そして言葉を一つ変えられれば、命令は刃にも火にもなる。


     ◇


 井戸の祠へ向かうと、鈴が鳴っていた。


 風はない。


 それでも鈴は、ひどく細い音を立てている。


 ちりん。


 ちりん。


 まるで、遠くから誰かが助けを求めているようだった。


「白那」


 祠の陰に、小さな姿があった。


 白那は井戸の縁に両手を置き、暗い水面をのぞき込んでいる。


 白い髪の先が、昨日よりも透けていた。


 裸足の爪先など、朝霧と見分けがつかないほど薄い。


「何が見える」


「見えてはおらぬ」


 白那は振り返らなかった。


「聞いておるのじゃ」


「何を」


「水の怯える音を」


 湊一も井戸をのぞき込んだ。


 水面は静かだった。


 だが耳を澄ませると、井戸の底から、かすかな震えが伝わってくる。


 ぽつり。


 ぽつり。


 どこか遠い場所で、水滴が焼けた石へ落ちているような音だ。


「大坂か」


「おそらくな」


 白那の指が、井戸の縁を強くつかんだ。


「火が近い」


 湊一の胸が冷たくなった。


「使者は出した。無理に連れ出すな。屋敷を囲むな。刃を抜くなと、重ねて命じた」


「そなたが何を命じたかなど、遠くにいる者には分からぬ」


 白那が、ようやく振り返った。


 小さな顔は青ざめている。


 それでも瞳だけは、いつものように尊大だった。


「届いた言葉だけが、命となる」


「分かっている」


「分かっておらぬから、そのような顔をしておる」


 白那は立ち上がろうとした。


 だが膝から力が抜け、その身体が傾く。


 湊一は慌てて腕を伸ばした。


「触れるでない!」


「倒れかけた者が威張るな」


「妾は倒れておらぬ。地面の方が近づいてきただけじゃ」


「便利な地面だな」


 そう言いながら、湊一は白那の身体を支えた。


 軽い。


 以前から小さかったが、今は抱き留めたという感覚すらほとんどない。


 まるで湯気を両腕に集めているようだった。


「大坂まで、水を送れないのか」


「送っておる」


「では――」


「届かぬのじゃ」


 白那が唇を噛んだ。


 悔しそうに。


 幼い顔で。


「大坂の水は、佐和山の水と遠すぎる。鈴の道も、まだ細い。妾が無理に渡れば、途中で水へ還るやもしれぬ」


「なら、やめろ」


「愚か者」


 白那の声が低くなった。


「人が火に囲まれておるのに、水守が水を止めてどうする」


「お前まで消えたら、誰を守れる」


「妾に指図するでない」


「する」


 湊一は白那を井戸の縁へ座らせた。


「俺はもう、守ると言いながら誰かを失うのは御免だ」


 白那は何かを言い返そうとした。


 だが、その瞬間。


 城門の方角から、鐘が打ち鳴らされた。


 一度。


 二度。


 三度。


 急使を知らせる鐘だった。


     ◇


 大坂から戻った使者は、馬から降りることもできなかった。


 鞍から転がるように落ち、門番たちに抱えられて広間まで運ばれてきた。


 顔は煤で黒く汚れている。


 袖の一部が焼け焦げていた。


「治部少輔様……」


「細川屋敷は」


 男は答えなかった。


 答えられなかった。


 ただ、両手で抱えていた油紙の包みを差し出した。


 湊一が包みを開く。


 中には、二通の文が入っていた。


 一通は、湊一が大坂へ送った命令の写し。


 諸将の妻子を大坂城内へ移し、戦火から保護すること。


 本人の意志に反して、無理に連れ出してはならない。


 屋敷へ兵を入れてはならない。


 刃傷は厳禁とする。


 それが、湊一の命じた内容だった。


 だが、もう一通には違うことが書かれていた。


 ――諸将の妻子を大坂城内へ連行せよ。


 ――拒む者の屋敷は兵で囲め。


 ――抵抗あらば、力を用いることを許す。


「これは……」


 湊一の手が震えた。


 印は本物に見える。


 石田三成の名も記されている。


 だが、肝心の言葉が違う。


「誰が、この文を渡した」


「途中の宿場にて……命が改められたと」


「誰にだ」


「黒い笠をかぶった女にございます」


 男は震える指で、文の端を示した。


 紙の繊維に、小さなものが挟まっている。


 黒い羽根だった。


「女は、治部少輔様からの新たな命であると申しました。印も、合図も、すべて違いなく……」


 湊一は文を握り潰しかけた。


 まただ。


 文が、すり替えられた。


 いや。


 ただ言葉を変えただけではない。


 石田三成なら、人質を取る。


 石田三成なら、従わぬ者を兵で囲む。


 石田三成なら、目的のために情を捨てる。


 人々がそう信じやすい形へ、命令そのものを作り替えている。


「俺の命令ではない」


 口から言葉がこぼれた。


 だが、その言葉はひどく軽かった。


 男は顔を上げない。


 広間にいる家臣たちも、誰一人として動かなかった。


「何があった」


 湊一は、もう一度尋ねた。


 使者は畳に額をつけた。


「細川越中守様の御内室、玉様は……大坂城へ移ることを拒まれました」


 その名に、三成の記憶が反応した。


 細川玉。


 明智光秀の娘にして、細川忠興の妻。


 のちに、ガラシャと呼ばれる女。


     ◇


 玉は、明智光秀の娘として生まれた。


 若くして細川忠興へ嫁ぎ、武将の妻となった。


 夫婦の間には子も生まれ、穏やかな暮らしが続くかに見えた。


 だが、本能寺で父・光秀が織田信長に刃を向けた日、その人生は大きく変わった。


 謀反人の娘。


 ただそれだけで、玉は人々から遠ざけられた。


 夫や子どもたちとも引き離され、丹後の山深い地へ退けられた。


 父の罪は、娘の罪ではない。


 それでも世は、玉に父の名を背負わせた。


 誰の娘として生まれたか。


 誰の妻となったか。


 誰に従うべきか。


 玉の居場所は、いつも他人の都合によって決められてきた。


 やがて幽居を解かれた玉は、異国から伝わった教えに心を寄せた。


 身分も、生まれも、男も女も関係なく、人の魂は神の前で等しい。


 その教えは、他人の名によって人生を縛られてきた玉の心に、静かな灯をともした。


 玉は洗礼を受けた。


 授けられた名は、ガラシャ。


 神の恵みを意味する名だった。


 明智光秀の娘ではなく。


 細川忠興の妻でもなく。


 一人の人間として授かった、自分自身の名。


 そして今。


 玉は再び、他人の都合によって居場所を決められようとしていた。


 今度は、人質として。


 石田三成の名によって。


     ◇


 その夜。


 大坂玉造の細川屋敷は、兵に囲まれていた。


 塀の外には松明が並び、槍の穂先が赤く照らされている。


「門を開けよ!」


「玉殿を、大坂城へお連れする!」


「これは治部少輔様の命である!」


 石田三成の名が、夜の闇へ何度も響いた。


 屋敷の奥では、玉が一つの灯明に火をともしていた。


 小さな炎だった。


 風が入れば、すぐに消えてしまいそうなほどの。


「奥方様」


 侍女が震える声で呼びかけた。


「裏手からお逃げください。まだ兵の少ない道がございます」


「逃げません」


 玉は静かに答えた。


「ですが、このままでは……」


「あなたたちは逃げなさい」


 侍女たちが息を呑んだ。


「わたくし一人を残し、生きてここを出るのです」


「そのようなことはできませぬ!」


「できます」


 玉の声は穏やかだった。


 だが、揺らがなかった。


「ここで皆が命を捨てても、何も残りません」


 玉は侍女たちを一人ずつ見つめた。


「生きてください。そして今夜、ここで何があったのかを伝えてください」


「奥方様……」


「誰かの妻である前に、誰かの娘である前に、あなたたちには、あなたたちの命があります」


 侍女の一人が、その場に泣き崩れた。


 別の侍女が、その肩を抱く。


 玉は灯明のそばに置かれていた、小さな花へ目を向けた。


 花びらが一枚、静かに落ちる。


「わたくしも、ようやく自分で決めることができます」


「何を、でございますか」


「どこへ行くかではありません」


 玉は灯明の炎を見つめた。


「何に従って生きるかを、です」


 廊下の向こうから、家臣の足音が近づいてきた。


「奥方様」


 障子の外で、小笠原少斎が膝をつく。


「もはや、これまでにございます」


「皆は」


「逃がしております」


「そうですか」


 玉は目を閉じた。


 塀の外では、なおも兵たちが叫んでいる。


「門を開けよ!」


「治部少輔様の命である!」


 玉はゆっくりと目を開いた。


 灯明の炎が、その瞳に映っている。


「少斎」


「はっ」


「この身を、人質として渡すことはできません」


「承知しております」


「ですが、わたくしは信仰に背き、自ら命を絶つこともできません」


 障子の向こうで、少斎が深く頭を下げた。


「すべて、この少斎が承ります」


 玉は胸の前で手を組んだ。


「皆に伝えてください」


「何を、でございましょう」


「わたくしは、誰かを恨んで逝くのではないと」


 玉はわずかに笑った。


「そして、誰かの持ち物として死ぬのでもないと」


「……はっ」


「この灯を、消さないでください」


「必ず」


 障子が閉じられた。


 やがて、屋敷の奥で刃の鳴る音が一度だけした。


 それから火が放たれた。


 炎は廊下を走り、柱をのみ込み、屋根へ駆け上がった。


 塀の外にいた兵たちは後ずさる。


 誰も、炎の中へ踏み込めなかった。


 屋敷の奥にともされていた小さな灯は、激しい火に呑まれて見えなくなった。


 けれど、その灯は消えなかった。


 逃がされた侍女たちの胸に。


 生きよと命じられた者たちの胸に。


 誰の持ち物にもならぬと示した、一人の女の灯が残った。


     ◇


「細川屋敷は、焼け落ちました」


 使者の声が、佐和山の広間に響いた。


「玉様は……お亡くなりにございます」


 誰も言葉を発しなかった。


 外では、雨が降り始めていた。


 細い雨だった。


 屋根を濡らし、石を濡らし、庭の土へ吸い込まれていく。


 大坂では間に合わなかった水が、今になって佐和山へ降っている。


「俺は、火を命じていない」


 湊一は言った。


 言い逃れのためではない。


 起きたことを、歪めずに見つめるためだった。


「屋敷を囲めとも、玉殿を死なせろとも命じていない」


 握っていた文を、畳の上へ置く。


「だが、俺の名で兵が動いた」


 黒い羽根が、文の上から滑り落ちた。


「俺の名を叫ぶ兵に囲まれ、一人の女が死んだ」


 石田三成の名。


 この時代において、それは湊一が背負う名でもある。


「ならば、知らなかったでは済まされない」


「殿……」


「俺の意志ではなかった。それでも、俺の名で起きたことだ」


 湊一は拳を畳についた。


「俺が背負う」


「背負う、背負うと、そなたは荷車か」


 幼い声が、広間の静寂を破った。


 白那が入口に立っていた。


 壁へ手をつかなければ、立っていることさえできない。


 身体の向こうに、雨に濡れた庭が透けて見える。


「白那」


「背負っただけで満足するな、愚か者」


 白那は一歩、広間へ入った。


 足元に、小さな水の跡が残る。


「そなたが潰れれば、言葉を歪めた者が喜ぶだけじゃ」


「だが――」


「火を命じておらぬのなら、それを明らかにせよ」


 白那の声は弱かった。


 それでも、その言葉は広間の誰よりも強い。


「文を変えた者を見つけよ。次の灯が焼かれる前に、人が生きて逃げられる道を作れ」


「……ああ」


「悔いるのは、それからにせよ」


 湊一は畳の上の黒い羽根を拾った。


 指先に力を込める。


「必ず見つける」


「当然じゃ」


 白那は鼻を鳴らした。


「妾の水を出し抜いたのじゃ。ただで済むと思わせるでないぞ」


「お前の水だけではない」


「何じゃ」


「玉殿の灯もだ」


 湊一は立ち上がった。


「消えたことにはさせない」


 白那は、しばらく湊一を見つめていた。


「ならば、さっさと働け。そなたは立ち止まって絵になるほど、見栄えのよい男ではなかろう」


「相変わらず、ひどいな」


「事実じゃ」


 そう言った直後。


 白那の身体が、大きく揺れた。


「白那!」


 湊一が駆け寄る。


 白那は倒れまいと手を伸ばしたが、その小さな指は、何もつかめなかった。


 湊一の腕の中へ、力なく崩れ落ちる。


「しっかりしろ」


「騒ぐでない……」


 白那は、かすかに目を開いた。


「少し……水を遠くへ流しすぎただけじゃ」


 白那の袖から、一滴の水が落ちた。


 続いて、もう一滴。


 畳の上に、小さな輪が広がっていく。


 湊一は白那を抱きかかえたまま、井戸の方角を見た。


 祠の鈴が鳴っている。


 ちりん。


 ちりん。


 佐和山の井戸の水面には、どこから入り込んだのか、小さな光が一つ揺れていた。


 遠い大坂で消えたはずの灯が、水の道をたどり、そこへ流れ着いたかのように。


 白那は、その光へ手を伸ばした。


 だが指先が触れるより早く、静かに目を閉じた。


 関ヶ原まで、あと五十一日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


誰かの娘、誰かの妻、人質――。

他人の都合で居場所を決められてきたガラシャが、最後に守ろうとしたものを描きました。

そして、大坂まで水を届けようとした白那にも、限界が近づいています。


次回、第二十八湯。

「水守、泣かぬ」

強がる白那の心と、届かなかった水の行方を描きます。

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