第二十六湯 白那の古い約束
今回は、白那がなぜ佐和山の水を守り続けているのか。
その「古い約束」に触れる回です。
いつも尊大で、毒舌で、団子には目がない白那ですが、今回は少しだけ、その奥にある弱さと健気さを描きました。
第二十六湯 白那の古い約束
佐和山へ戻ったのは、空から最後の赤みが消えた頃だった。
大坂から持ち帰った竹筒を、湊一は腰から外した。
中には、佐和山の井戸から汲んだ水が残っている。
行きには、歩くたびに小さな水音がしていた。
しゃらり。
ちゃぷり。
まるで白那が、竹筒の奥から文句を言っているような音だった。
だが今は、何も聞こえない。
竹筒を傾けても、水は底で重たく揺れるだけだった。
「白那」
呼んでみる。
返事はない。
湊一は城へ向かいかけた足を止め、井戸の祠へ走った。
◇
祠の前には、娘が座っていた。
膝の上には、小さな皿。
串団子が二本載っている。
「父上」
娘は立ち上がりかけ、すぐに祠を振り返った。
「白那さまが、まだお戻りになりませぬ」
「いつからだ」
「父上が大坂へ向かわれた朝からです。鈴は、ときどき鳴りました。けれど、お声が……」
娘は唇を噛んだ。
「一度も聞こえませぬ」
湊一は井戸を覗き込む。
水面は暗い。
月の光さえ映していない。
「白那」
もう一度、呼ぶ。
井戸の奥から、かすかな水音がした。
ぽたり。
ぽたり。
それきりだった。
「白那。帰ってきたぞ」
水面が、わずかに白く揺れた。
次の瞬間。
小さな手が、井戸の縁にかかった。
白い指。
濡れた爪。
だが、その手には身体を持ち上げる力がない。
指先が滑る。
「白那!」
湊一は身を乗り出し、その腕を掴んだ。
軽かった。
あまりにも軽い。
幼い白那の身体を抱き上げたはずなのに、腕の中にあるのは濡れた布と湯気ばかりのようだった。
「離せ……愚か者」
声は細く、息に混じって途切れた。
「妾は、自分で上がれた」
「井戸へ落ちかけていたぞ」
「落ちたのではない。水へ戻ろうとしておっただけじゃ」
「それを落ちたと言うんだ」
「人のくせに、水のことを語るでない」
白那は湊一の胸を押そうとした。
だが、小さな手は力なく着物に触れただけだった。
身体が震えている。
寒さではない。
輪郭そのものが揺れていた。
白い髪の先から、水滴が落ちる。
一滴落ちるたび、髪がわずかに短くなる。
「白那さま……」
娘が駆け寄った。
白那は娘を見ると、無理に胸を張った。
「何を泣きそうな顔をしておる。妾は水守ぞ。この程度、朝飯前じゃ」
「もう夜でございます」
「口答えするでない」
いつもの毒舌だった。
けれど声に張りがない。
言い終わった白那は目を閉じ、湊一の胸へ額を預けた。
ほんの一瞬だった。
すぐに顔を上げたが、湊一は見逃さなかった。
「立てるか」
「立てる」
「本当か」
「妾を誰だと思うておる」
白那を祠の板へ降ろす。
小さな足が板へ触れた。
その途端、膝が折れた。
娘が抱き留める。
「白那さま!」
「騒ぐでない……少し、板が傾いておるだけじゃ」
「傾いておりませぬ」
「ならば、山が傾いた」
「佐和山が傾いたら大事だぞ」
「黙れ、愚か者……」
白那は娘の腕の中で、悔しそうに顔をしかめた。
その頬は青白い。
唇も色を失っている。
呼吸をするたび、肩の辺りがふっと薄くなった。
「団子を」
白那が言った。
娘は皿を差し出す。
「どうぞ。二本とも召し上がってください」
「二本ともなど要らぬ」
「でも、お身体が」
「妾を食い意地だけで生きておるように申すな」
白那は一本だけ取ろうとした。
しかし指に力が入らず、串を落とした。
からん。
小さな音が、やけに大きく響いた。
白那は落ちた団子を見つめた。
拾おうと手を伸ばす。
届かない。
もう一度伸ばす。
それでも、指先が板を掻くだけだった。
湊一が拾うと、白那は顔を背けた。
「……要らぬ」
「さっき欲しがっただろう」
「落ちた供物など、妾へ差し出すでない」
「串の持ち手が落ちただけだ。団子は無事だ」
「ならば、毒見せよ」
「分かった」
湊一が一つ齧ろうとすると、白那の手がすばやく串を奪った。
「全部食うつもりか、愚か者!」
「毒見しろと言ったのはお前だ」
「妾への供物を食い尽くせとは申しておらぬ!」
白那は団子を一つ頬張った。
小さな頬が、少しだけ膨らむ。
だが、噛む力さえ弱っているのか、いつものようには進まない。
娘が心配そうに見つめる。
「ゆっくりでよろしいのです」
「見るでない」
「でも」
「妾が団子を食す姿は、水守の秘儀じゃ」
「秘儀なのですか」
「そうじゃ。見た者は、もう一本供えねばならぬ」
娘の目に、ようやく小さな笑いが戻った。
「では、見ないふりをいたします」
「うむ。賢明じゃ」
白那は満足そうにうなずいた。
その直後。
身体がふらりと傾いた。
娘の肩へ、白い頭がこつんと落ちる。
白那は起き上がろうとしたが、娘がそっと抱き締めた。
「少しだけ、このままでいてくださいませ」
「妾を子ども扱いするでない」
「白那さまは、今はわたしより小さいです」
「見た目だけじゃ」
「はい」
「妾は、そなたより遥かに偉い」
「はい」
「あと……団子も、妾の方が多く食べられる」
「それは存じております」
「ならばよい」
白那は娘の肩から離れなかった。
◇
湊一は竹筒を祠の前へ置いた。
「大坂まで来ていたな」
「妾が来たのではない」
白那は目を閉じたまま答える。
「そなたが佐和山の水を持ち出したのじゃ」
「この水を通して、淀殿たちの声を聞いていたのか」
「少しだけじゃ」
「それで、こんなに弱ったのか」
白那は答えない。
「白那」
「しつこい男じゃ」
薄く目を開く。
「佐和山の水は、佐和山におる妾の身体そのものじゃ。遠き水へ意識を伸ばせば、こちらが薄くなる」
「なぜ、そこまでした」
「そなたが余計なことをせぬよう、見張っておった」
「姿が消えかけるほどか」
「妾は消えておらぬ」
白那の手から、また水滴が落ちた。
娘がその手を両手で包む。
白那の指は、娘の指の間から向こうが透けるほど薄い。
「白那さま」
「その顔をするでない」
「どの顔ですか」
「捨てられた子犬のような顔じゃ」
「白那さまが、いなくなるのが嫌なのです」
娘はまっすぐに言った。
白那の口が止まる。
「……妾はおらぬようにはならぬ」
「本当ですか」
「水守が、そう簡単に消えてたまるか」
「では、お約束ください」
「何をじゃ」
「無理をなさらぬと」
白那は目を逸らした。
「約束は嫌いじゃ」
「どうしてですか」
「守らねばならぬからに決まっておる」
その声には、いつもの強さとは違うものがあった。
遠い昔を見ている声だった。
湊一は尋ねた。
「お前が佐和山にいるのも、何かの約束なのか」
白那はしばらく黙っていた。
井戸の水が、小さく揺れた。
祠の鈴が一度だけ鳴る。
「古い話じゃ」
◇
城も、石垣もなかった頃。
佐和山の麓には、小さな村があった。
山から流れる水と、わずかな田畑。
豊かではなかったが、人々は皆、同じ井戸の水を飲み、同じ川で泥を落として暮らしていた。
ある夏。
三日三晩、雨が降った。
山が鳴り、川が溢れた。
夜のような雲の下で、家が流された。
道も橋も消えた。
人々は濁流から逃れ、山の中腹へ駆け上がった。
その中に、一人の少女がいた。
名は、もう誰も覚えていない。
年は、今の娘と同じほどだったという。
少女の父と母は、逃げ遅れた老夫婦を助けるため、濁流の中へ戻った。
「ここにいなさい」
父は言った。
「必ず迎えに戻る」
母は少女の髪を撫でた。
「水を飲んで、待っていて」
二人はそう言い残し、雨の中へ消えた。
夜になった。
雨は止まない。
誰も戻ってこない。
少女は山の湧き水のそばに座っていた。
傍らには、小さな椀が一つ。
湧き水は細く、今にも泥に埋まりそうだった。
逃げてきた村人たちは、皆、喉が渇いていた。
少女自身も、唇がひび割れていた。
それでも少女は、一滴も飲まなかった。
白那は、その水の中から姿を現した。
当時の白那は、今よりもさらに小さかった。
名もなく、祠もなく、ただ湧き水のそばにいるだけの水の精だった。
「飲まぬのか」
白那が尋ねた。
少女は首を横に振る。
「父さまと母さまが帰ってきたら、飲むから」
「戻らぬかもしれぬ」
「戻る」
「流されたやもしれぬ」
「戻る」
「死んでおるやもしれぬ」
少女は白那を睨んだ。
目には涙が溜まっていた。
だが、泣かなかった。
「戻るったら、戻る」
「なぜ、そう言い切れる」
「父さまが、必ず戻ると言ったから」
白那は呆れた。
人の約束など、水に書いた文字より儚い。
流され、消え、忘れられる。
そんなものを信じて待つ少女が、愚かに見えた。
「ならば、好きに待て」
白那は水へ戻ろうとした。
そのとき、少女が呼び止めた。
「ねえ」
「何じゃ」
「この水、なくならないようにして」
「なぜ妾が」
「帰ってきた人が、飲めなくなるから」
「そなたが飲めばよかろう」
「わたしは、ここにいるもの」
少女は小さな鈴を取り出した。
泥で汚れた赤い紐が結ばれていた。
母が持たせてくれたものだという。
少女はその鈴を、湧き水のそばの枝へ結んだ。
ちりん。
雨音の中で、か細い音がした。
「父さまと母さまが、迷わないように」
「こんな音、雨に消される」
「それでも鳴らす」
「愚かじゃ」
「帰る場所がなかったら、帰ってこられないでしょう」
白那は、何も言えなくなった。
少女は一晩中、鈴を鳴らした。
眠りそうになるたび、泥だらけの手で紐を引いた。
喉が渇いても、水を飲まなかった。
誰かが帰ってきたときのため。
傷を洗う水が必要だから。
生き延びる水が必要だから。
そして夜明け前。
鈴の音に重なるように、山道から人の声がした。
少女の父が戻ってきた。
背には怪我をした老人を負っていた。
その後ろから、母も戻った。
腕に幼子を抱いていた。
二人とも泥まみれだった。
父は水辺へ崩れ落ちた。
少女は椀に水を汲み、父へ差し出した。
「お帰りなさい」
父は水を飲み、泣いた。
母も泣いた。
少女も、そこで初めて泣いた。
白那は、湧き水の中から三人を見ていた。
「それで、お前は約束したのか」
湊一が尋ねる。
白那は娘の肩に寄りかかったまま、鼻を鳴らした。
「妾からではない」
「少女から頼まれたのか」
「命じられたのじゃ」
雨が上がった朝。
少女は鈴を外し、白那へ差し出した。
『今度は、あなたが鳴らして』
『なぜ妾が』
『また誰かが帰ってくるかもしれないから』
『断る』
『では、帰ってきたら返して』
『そなたはもう帰ってきたであろう』
『わたしじゃない誰か』
少女は笑った。
『帰る人がいなくなるまで、預かっていて』
白那は嫌だと言った。
面倒だとも言った。
水を守るだけでも十分なのに、鈴まで預かる義理はないと怒った。
だが少女は、鈴を水辺へ置いて走っていった。
「それきりじゃ」
白那が言った。
「その少女は大きくなり、嫁ぎ、子を産み、年老いた」
「鈴を取りには来なかったのですか」
娘が尋ねる。
「一度だけ来た」
白那の声が、わずかに震えた。
「白髪の老婆になっておった」
老婆は水辺に座り、鈴の音を聞いた。
『まだ守ってくれていたのね』
そう言って笑った。
『もう返すか』
白那が尋ねると、老婆は首を振った。
『まだ帰る人はいるでしょう』
『そなたの約束は長すぎる』
『あなたなら守れるもの』
『勝手なことを申すな』
『お願いね、白那』
その時、少女だった老婆が、初めて白那へ名をつけた。
白い水のようだから。
白那。
それが、白那の最初の名だった。
「その者は、次の春に亡くなった」
白那は淡々と言った。
「妾へ鈴を預けたままな」
娘の目から、涙が一粒落ちた。
白那は眉を寄せる。
「泣くでない」
「でも……」
「人は皆、いずれ死ぬ」
「白那さまは、寂しくなかったのですか」
「ならぬ」
「本当に?」
「妾は水守じゃ」
白那はそう言った。
だが、娘の肩を掴む指に、少しだけ力が入った。
「それで、お前は今も守っているのか」
「仕方なくじゃ」
白那はそっぽを向く。
「鈴を返す相手がおらぬゆえな」
祠の鈴が鳴る。
ちりん。
その音は、何百年も前の雨の中で鳴った鈴と、よく似ていた。
「城が建とうが、城が落ちようが」
白那は静かに言った。
「主が替わろうが、人が妾を忘れようが」
井戸の水面に、淡い光が広がる。
「帰る者のために、一筋の水を残す」
小さな胸を張る。
弱り切り、娘に支えられながら。
それでも白那は、誇らしげに言った。
「それが、妾の古い約束じゃ」
◇
娘は団子の皿を白那へ差し出した。
「残りも、お召し上がりください」
「要らぬ」
「でも」
「そなたの分であろう」
「白那さまに差し上げます」
「同情で団子を食うほど、妾は落ちぶれておらぬ」
「同情ではありません」
娘は少し考えた。
「供物です」
白那の片眉が上がる。
「ほう」
「水守さまへ、これからも一緒にいてくださいという供物です」
「……仕方ないのう」
白那は団子を受け取った。
「供物を無下にするのも、水守の名折れじゃ。妾が責任を持って片づけてやる」
「ありがとうございます」
「礼を申すのは妾ではない。そなたじゃ」
「はい」
白那は団子を一口食べた。
その頬に、ほんの少しだけ色が戻った。
娘が嬉しそうに笑う。
「白那さま、おいしいですか」
「まずい」
「では、わたしが食べます」
「待て」
「まずいのでしょう?」
「まずいからこそ、妾がすべて始末せねばならぬ」
「白那さまは、お優しいですね」
「どこをどう聞けば、そうなる!」
白那は怒鳴った。
だが、その声には少しだけ力が戻っていた。
湊一は笑う。
「もう少し食べれば、身体も戻るかもしれないな」
「ならば、城中の団子を集めよ」
「調子に乗るな」
「妾を失いたくないのであろう?」
白那は湊一を見上げる。
意地悪そうな笑みだった。
だが、その笑みも長くは続かなかった。
身体が傾く。
今度は、湊一が支えた。
白那は抵抗しなかった。
「少しだけじゃ」
「ああ」
「少し休めば、すぐに戻る」
「ああ」
「妾は消えぬ」
その声だけは、強くなかった。
自分へ言い聞かせているようだった。
娘が白那の手を握る。
湊一も、反対の手を支えた。
「消えさせない」
湊一が言う。
白那は目を閉じた。
「人が、水守へ偉そうに申すでない」
「約束する」
「……約束は嫌いじゃ」
「それでもだ」
白那はしばらく黙ったあと、小さく呟いた。
「ならば、破るでないぞ。愚か者」
◇
その時。
祠の外から、慌ただしい足音が近づいた。
「治部少輔様!」
駆けてきた近習が、膝をつく。
「大坂より、急ぎの知らせにございます」
差し出された書状を、湊一は受け取った。
妻子を大坂へ移す命。
だが、その文面は、淀殿が語ったものとは違っていた。
客として迎える。
守るために集める。
そのはずだった命が、すでに人質を取る命へ変わりつつある。
「細川越中守殿の御内室、玉殿が、大坂入りを拒んでおられます」
細川玉。
明智光秀の娘。
異国の教えを信じ、ガラシャの名を持つ女。
「屋敷を囲む動きがございます」
湊一は書状を握り締めた。
淀殿の言葉が、人の手を渡るうちに濁っていく。
澄んだ水へ、泥が流れ込むように。
「大坂へ使いを出す」
湊一は立ち上がった。
「淀殿の真意を伝えろ。玉殿にも、こちらの意を届ける」
「間に合うと思うておるのか」
白那が目を閉じたまま尋ねる。
「分からない」
「届かぬやもしれぬぞ」
「それでも出す」
「なぜじゃ」
「帰る場所を守るには、誰かが鈴を鳴らさなければならない」
白那はゆっくり目を開いた。
そして、ほんのわずかに笑った。
「よくもまあ、妾の話をすぐに自分のものにする男じゃ」
「駄目だったか」
「駄目とは申しておらぬ」
祠の鈴が鳴った。
ちりん。
弱く。
けれど確かに。
「水は、細き隙間からでも流れる」
白那は言った。
「声もまた、届く時は届く」
湊一はうなずき、闇の向こうへ歩き出した。
背後では、娘が白那を抱いている。
白那の白い髪が、娘の肩で小さく揺れていた。
「小さき湯番よ」
「はい」
「残った団子は、妾の枕元へ置け」
「先ほど、全部召し上がりました」
「なに?」
「二本とも」
「……そなたの分は?」
「白那さまに差し上げました」
白那はしばらく黙った。
「明日は、三本供えよ」
「どうしてですか」
「妾と、そなたと」
白那は少し間を置いた。
「帰ってくる者の分じゃ」
鈴が、もう一度鳴った。
遠い大坂の闇へ。
消えかけた灯へ。
帰る場所を知らせるように。
関ヶ原まで、あと五十二日。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
白那の古い約束。
帰る者のために、水と鈴を残す。
この約束は、これから先の物語でも大切な意味を持ってきます。
そして次回は、第二十七湯「ガラシャの灯」。
大坂で、消えかけた灯を守ろうとする者たちの物語です。




