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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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第二十五湯 淀殿の茶、秀頼の膳

大坂城で向き合う、二組の親子。


守るために囲おうとする淀殿と、母を信じて手を差し出す秀頼。

そして、我が子を小姓として大坂へ送り出した湊一。


今回は、冷めていく茶と、分けられた膳に込められた思いのお話です。

第二十五湯 淀殿の茶、秀頼の膳


 大坂城へ入った湊一を待っていたのは、軍議ではなかった。


 茶と、膳だった。


     ◇


 直江兼続からの書状が届いた翌朝。


 湊一は供の者を連れ、佐和山を発った。


 馬上で何度も、懐へ手をやる。


 油紙に包んだ兼続の書状は、そこにある。


 上杉は、戦を望んでいるのではない。


 屈することを拒んでいる。


 だが言葉というものは、受け取る者によって姿を変える。


 忠義は反逆と呼ばれ、備えは謀反と呼ばれる。


 そして今、大坂城では、もう一つの話が持ち上がっていた。


 諸大名の妻子を、大坂へ集める。


 豊臣家を守るために。


「守る、か……」


 馬上で呟いた瞬間。


 腰に下げた竹筒の中で、水が揺れた。


 ちりん。


 鈴など付けていないはずなのに、小さな音が鳴る。


『言葉だけなら、毒も薬と名乗れる』


 白那の声が、水の底から響いた。


「聞いていたのか」


『妾は水守ぞ。そなたが水を持ち歩いておるのに、聞こえぬと思うたか。愚か者』


「便利なのか、迷惑なのか分からないな」


『妾の有り難さを理解できぬ時点で、そなたの頭は濁り井戸以下じゃ』


「そこまで言うか」


『まだ足りぬ』


 竹筒の中で、水が一度だけ跳ねた。


 それきり、白那の声は消えた。


 いつも通り、言いたいことだけ言っていなくなる。


 だが今回ばかりは、その毒舌が胸に残った。


 守るという言葉が、薬のままである保証はない。


 大坂には、もう一人、気に掛かる者がいた。


 長男である。


 長男は以前から、豊臣家への奉公として大坂へ上がり、幼い秀頼の小姓を務めていた。


 石田家の跡取りを、豊臣家の世継ぎに仕えさせる。


 三成にとっては忠節を示す務めであり、長男にとっては武家の子として果たすべき奉公だった。


 人質ではない。


 少なくとも、表向きは。


 けれど親の手が届かぬ城へ子を置くことが、ただの奉公で済むのか。


 湊一には、まだ答えが出ていなかった。


 今日、大坂城へ入れば、長男の姿を見ることがあるかもしれない。


 会えたとしても、父と子として言葉を交わせるとは限らない。


 湊一は手綱を握り直した。


     ◇


 大坂城の奥座敷。


 湊一の前に、茶が置かれた。


 茶碗から立つ白い湯気が、ゆっくりと揺れている。


「治部少輔。まずは茶を」


 上座から声を掛けたのは、淀殿だった。


 豪華な打掛をまとい、背筋をまっすぐに伸ばしている。


「佐和山からの道中、疲れたでしょう」


「恐れ入ります」


 湊一は茶碗へ手を伸ばした。


 だが、口を付けるより早く、淀殿が告げた。


「諸大名の妻子を、大坂へ集めます」


 湊一の手が止まった。


 客を迎えるために出された茶。


 その席で語られたのは、人を帰さぬための策だった。


 茶から立つ白い湯気が、急に頼りないものに見えた。


 淀殿は、世に語られるような、ただ高慢な女には見えなかった。


 疲れている。


 それも、一夜や二夜の疲れではない。


 この人は、もとは茶々。


 近江の浅井長政と、織田信長の妹・市との間に生まれた三姉妹の長女だ。


 幼い日に小谷城で父を失った。


 母が柴田勝家へ再嫁した後は、北ノ庄城で再び戦火に追われ、その母も失った。


 妹たちとともに戦の世を渡り、やがて豊臣秀吉の側室となる。


 最初に授かった鶴松も、幼くして亡くした。


 その後に生まれたのが、秀頼だった。


 城を失った。


 父を失った。


 母を失った。


 我が子さえ、一度はその腕から失った。


 だからこそ今度は、秀頼と豊臣の家だけは失うまいとしている。


 ただ高慢なのではない。


 守ることに、怯えているのだ。


 それでも弱みを見せまいとする、一人の母の顔だった。


「会津から、書状が届いたそうですね」


「はっ。直江山城守より、上杉家の考えが記されております」


「内府殿は、上杉を討つと申しております」


 淀殿は、自らの茶碗に手を添えた。


「東国で戦が始まれば、大坂も無関係ではいられませぬ」


「仰せのとおりにございます」


「夫や父が戦へ向かった後、国元に残された妻子を、誰が守るのです」


 淀殿の言葉は静かだった。


「大坂で預かれば、兵も、医師も、食糧も用意できます。軽率な振る舞いに及ぶ者を、思いとどまらせることもできましょう」


 筋は通っている。


 戦が起きれば、国元に残された妻子が危険にさらされる。


 大坂へ集めれば、守ることはできる。


 だが――。


「恐れながら、淀殿」


「申してみよ」


「人を守るための場所が、命令一つで檻へ変わることがございます」


 部屋の空気が、さらに冷えた。


 近習の一人が息を呑む。


 淀殿の目が細くなった。


「大坂城を、檻と申すか」


「城を指して申したのではございませぬ」


 湊一は頭を下げた。


「人は、自らの意思で入り、自らの意思で帰れる場所を宿と呼びます」


 茶から立つ湯気を見つめる。


「帰ることを許されぬならば、どれほど立派な部屋を与えられても、それは宿ではございませぬ」


 現代の旅館でも同じだった。


 客を迎えることと、客を閉じ込めることは違う。


 安全のためだと鍵を掛け、本人の意思を無視すれば、それはもてなしではない。


「そなたは、まだ湯宿の主のつもりでおるのですか」


 淀殿の声に、微かな苛立ちが混じった。


「ここは大坂城。天下の政を決める場所です。湯や飯だけで、豊臣を守れると思うておるのですか」


「思ってはおりませぬ」


 湊一は顔を上げた。


「されど、湯と飯を失った者が、何を守ろうとするのかは存じております」


 淀殿の指が止まった。


「腹を空かせ、家族の行方も分からず、帰る場所まで奪われた者は、忠義だけでは動けませぬ」


「では、恐れで従わせていると申すのですか」


「恐れは、人をその場に留めます」


 湊一は答えた。


「されど、その恐れが消えた時、人の心まで留めておくことはできませぬ」


 淀殿は、湊一をまっすぐに見た。


「随分と容易く申しますね」


 その視線が、湊一の肩越しへ移る。


「自らの子を、この城へ仕えさせておきながら」


 湊一の喉が詰まった。


 振り返らなくとも分かった。


 座敷の隅。


 秀頼の傍らに、一人の若い小姓が控えている。


 長男だった。


 佐和山で見送った時より、背が伸びている。


 肩も、僅かに広くなった。


 だが、互いに目を合わせなかった。


 ここにいるのは、父と子ではない。


 豊臣家の政を担う治部少輔と、秀頼に仕える小姓だった。


「長男の奉公は、本人も承知しております」


「妻子を大坂で預かることも、豊臣家への奉公と申せましょう」


「本人の意思で帰れるならば」


 湊一は長男を見ないまま答えた。


「奉公にございます」


「帰れぬならば?」


 淀殿の問いが、静かに刺さった。


 湊一は、膝の上で拳を握った。


「……人質です」


 座敷が静まり返った。


 湊一自身にも、その言葉が刺さっていた。


 長男は奉公だ。


 自ら送り出した。


 そう言い聞かせてきた。


 だが長男が「帰りたい」と願った時、自分は大坂城から連れ帰れるのか。


 できないのなら、父である自分もまた、都合のよい言葉で子を縛っているのではないか。


 淀殿は茶碗を持ち上げた。


 けれど、口元まで運んだところで止めた。


「では、何もせずに待てと申すのですか」


「いいえ」


 湊一は首を振った。


「大坂へ招くことには反対いたしませぬ。戦から守り、飯を出し、病人には薬を与える。それは必要にございます」


 一呼吸置く。


「ただし、逃げぬよう門を閉ざすことには反対いたします」


 淀殿は茶碗を持ったまま黙った。


 湊一も、それ以上は言わなかった。


 正しさだけで人を説き伏せられるほど、世の中は単純ではない。


 淀殿もまた、遊びで人を集めようとしているのではなかった。


 秀吉亡き後。


 幼い秀頼を守るため、必死なのだ。


 徳川家康が力を増す中、誰が味方で、誰が背を向けるのかも分からない。


 離れていく者を、ただ見送ることなどできないのだろう。


 淀殿は、茶碗を口へ運ばぬまま膳へ戻した。


 白かった湯気は、いつの間にか細くなっていた。


「治部」


 不意に、幼い声がした。


 淀殿の傍らで、秀頼が箸を置いていた。


 まだ母の庇護を必要とする年頃だ。


 小さな手に箸を持っているが、膳の飯はほとんど減っていない。


 大人たちの話を聞いていないようで、耳だけはこちらを向いていた。


「はっ」


「佐和山の湯は、温かいのか」


 淀殿が僅かに目を見開く。


 湊一も、すぐには言葉が出なかった。


 天下の行方を話していたはずなのに、秀頼が尋ねたのは湯の温度だった。


「はい」


 湊一は答えた。


「熱すぎぬよう、冷たすぎぬよう、人に合わせて整えております」


「皆で入るのか」


「身分により場所は分かれますが、湯の温かさに上下はございませぬ」


「飯も、皆で食べるのか」


「はい。武士も百姓も旅人も、腹が減ることに違いはございませぬゆえ」


 秀頼は自分の膳を見た。


 白い飯。


 吸い物。


 焼き魚。


 美しく盛られた料理が並んでいる。


「これは、わし一人では食べきれぬ」


「秀頼」


 淀殿が窘めるように呼んだ。


 だが秀頼は、焼き魚を見つめたまま言った。


「食べきれぬ飯を置いておくより、腹の減った者に分けた方がよいのではないか」


 あまりに単純な言葉だった。


 政も、面目も、家の都合も知らぬ子どもの考えだ。


 けれど湊一には、その言葉が一番まともに聞こえた。


「仰せのとおりにございます」


 湊一が頭を下げると、秀頼は少し嬉しそうに笑った。


「戦が来ても、佐和山では湯を沸かすのか」


「沸かします」


「客が来なくてもか」


「一人でも帰ってくる者がおれば、その者のために」


 秀頼はしばらく考えた。


「ならば、皆が帰れるようにしてやればよい」


 淀殿が息を止めた。


 湊一は膝の上で拳を握った。


 子どもに言えることは簡単だ。


 皆を帰す。


 誰も閉じ込めない。


 誰も殺さない。


 だが大人は、その簡単なことを守れない理由を、いくらでも並べられる。


「秀頼」


 淀殿の声が、先ほどより柔らかくなった。


「皆が勝手に帰ってしまえば、そなたを守る者がいなくなるかもしれませぬ」


「母上がおる」


「母だけでは、城は守れませぬ」


「なぜじゃ」


 秀頼は、本当に分からぬという顔をした。


「母上は、いつもわしを守っておるではないか」


 淀殿の指が、茶碗の縁で止まった。


 熱を失いかけた茶が、僅かに揺れる。


「夜に怖い夢を見た時も、母上は来てくれる。腹が痛い時も、そばにおる。ならば、城でも同じではないのか」


「それと、これは違います」


「何が違う」


「城には、敵が来ます」


「夢にも鬼が来るぞ」


 秀頼は真顔だった。


「されど、母上が手を握れば、鬼は消える」


 淀殿は答えなかった。


 答えられなかった。


 幼い秀頼にとって、母は城よりも強い。


 兵よりも、石垣よりも、天下人の名よりも、母の手の方が頼りになる。


 だが淀殿は知っている。


 母の手では、矢を防げない。


 母の腕では、城門を押し返せない。


 どれほど強く抱いても、戦は子どもを奪っていく。


 かつて自分から、父と母を奪ったように。


 最初の我が子を、その腕から奪ったように。


 淀殿は秀頼の頬へ手を伸ばしかけた。


 だが近習たちの目に気づき、その手を膝へ戻した。


「そなたは、豊臣の跡継ぎです」


 母の声ではなかった。


 大坂城を背負う者の声だった。


「ただの子どもではありませぬ」


 秀頼の顔から、僅かに笑みが消えた。


「わしは、母上の子ではないのか」


 淀殿の唇が動いた。


 けれど、すぐには声が出なかった。


「……もちろんです」


「ならば、跡継ぎでなくても、母上はわしを守るか」


「そのようなことを申すものではありませぬ」


 淀殿の声が強くなった。


 秀頼の肩が、小さく震えた。


 叱られた理由が分からないのだ。


 淀殿自身にも、なぜ声を荒らげたのか分からなかった。


 秀頼が豊臣の跡継ぎでなくなる時。


 それは豊臣が滅びる時か、秀頼が命を失う時だ。


 この子は何も知らず、淀殿が最も恐れている言葉を口にした。


「母上は」


 秀頼が俯いた。


「わしが秀頼だから、そばにおるのか」


「違います」


 今度の言葉は、すぐに出た。


 淀殿は人目も忘れ、秀頼の肩へ手を置いた。


「そなたが何者であろうと、わたくしの子です」


 秀頼は母の顔を見上げた。


「本当か」


「母が、そなたに偽りを申しますか」


 秀頼は安心したように、小さく息を吐いた。


 それから淀殿の手へ、自分の手を重ねる。


「ならば、母上も怖い時は、わしの手を握ればよい」


 淀殿の目が見開かれた。


「わしの手は小さいが、母上の鬼くらいなら消せるかもしれぬ」


 湊一は目を伏せた。


 淀殿が恐れている鬼は、夢の中にはいない。


 東にも、西にもいる。


 城の外にも、城の中にも。


 そして、その鬼から秀頼を守るため、淀殿自身が大坂城を檻へ変えようとしている。


「秀頼様」


 湊一は深く頭を下げた。


「某は、できぬ約束はいたしませぬ」


「何の話じゃ」


「皆が帰れるようにする、というお話にございます」


 秀頼が湊一を見た。


「そなたには、できぬのか」


 湊一の胸が痛んだ。


 この子は知らない。


 自分が関ヶ原で敗れることを。


 豊臣の世が、やがて終わることを。


 湊一だけが、その先を知っている。


 知っているからこそ、軽々しく「お守りします」とは言えなかった。


「すべての者を救えるとは、申し上げられませぬ」


 秀頼の顔から、期待が薄れた。


「されど、帰る場所を残すために、できる限りのことをいたします」


「帰る場所?」


「はい。城が落ちても、家が焼けても、生きて帰れる者がいる場所にございます」


 湊一は淀殿を見た。


「人が残らなければ、城だけ残っても、豊臣は残りませぬ」


 長い沈黙が落ちた。


 庭の水鉢から、水の滴る音がした。


 ぽつん。


 波紋が広がった時。


 ちりん。


 また、鈴の音がした。


『よう申した』


 白那の声が、微かに聞こえた。


『もっとも、そなた一人で何もかも救えると思うておるなら、やはり愚か者じゃがな』


 褒めているのか、貶しているのか分からない。


 湊一は危うく苦笑しそうになり、唇を引き締めた。


 淀殿が、近習たちへ目を向けた。


「妻子を大坂へ迎える件は、進めます」


 湊一は目を伏せた。


 止めることはできなかった。


「ただし、客として扱いなさい」


 淀殿の声が、座敷へ響く。


「食事を欠かさず、病人には医師を付ける。力ずくで門を破り、引き立てるような真似は許しませぬ」


「はっ」


「これは豊臣家による保護です。人質ではありませぬ」


 湊一は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 保護。


 客。


 人質ではない。


 正しい言葉だった。


 けれど正しい言葉ほど、誰かに利用された時は恐ろしい。


 秀頼は膳の焼き魚へ箸を伸ばした。


 うまく身を分けようとするが、小骨が邪魔をする。


 その危なっかしい手元へ、淀殿の手が伸びた。


「貸しなさい」


 淀殿は魚を受け取り、細い骨を一本ずつ取り除いた。


 それから身を、二つに分ける。


 秀頼の皿と、傍らに控える長男の皿。


 同じほどの大きさになるように。


「これならよいでしょう」


 秀頼が笑った。


「母上も、分けるのが上手いな」


「そなたが危なっかしいだけです」


 淀殿は素っ気なく言った。


 だが秀頼の皿へ魚を戻す手は、ひどく優しかった。


「そなたも食べよ」


 秀頼が長男へ言った。


 長男は膝をついたまま、頭を下げる。


「恐れながら、これは秀頼様の御膳にございます」


「母上が、そなたの分も作った」


「分けただけです」


 淀殿が訂正する。


「ならば、分けた膳じゃ」


 秀頼は長男の皿を指した。


「一人で食べるより、うまいのであろう?」


 長男が、ほんの一瞬だけ湊一を見た。


 父に答えを求めたのではない。


 幼い主君を困らせてよいものか、迷っただけだ。


 それでも湊一には、その一瞬が痛かった。


 佐和山にいれば、父と子として同じ膳を囲めたかもしれない。


 だが今、長男へ飯を分けてくれるのは、自分ではなく秀頼だった。


「頂戴いたします」


 長男が両手で皿を受け取る。


 秀頼は嬉しそうに笑った。


「うまいか」


「はい。たいそう、温かくございます」


 魚は、もうそれほど温かくないはずだった。


 長男が答えたのは、味のことではない。


 湊一には、そう聞こえた。


「母上」


 秀頼が、淀殿の茶碗を見た。


「茶が冷めておるぞ」


 白い湯気は、もうどこにもなかった。


「構いませぬ」


「冷たい茶は、うまくないであろう」


「大人は、うまくないものも飲むのです」


「なぜじゃ」


 淀殿は答えなかった。


 秀頼はしばらく母の顔を見つめた。


 やがて、自分の膳に添えられていた白湯の椀を両手で持ち上げる。


「ならば、わしのを半分やる」


「それは白湯です」


「温かいぞ」


 淀殿の顔が、ほんの僅かに崩れた。


 笑ったのか。


 泣きそうになったのか。


 湊一には分からなかった。


「要りませぬ」


「先ほど、分けた方がうまいと申したではないか」


「それは、そなたが申したのでしょう」


「母上も飲め」


 秀頼は譲らなかった。


 淀殿はしばらく白湯を見つめ、やがて椀を受け取った。


 一口だけ、口を付ける。


「……温かい」


「そうであろう」


 秀頼は得意そうに笑った。


 淀殿の前には、冷めた茶がある。


 その手には、我が子から分けられた温かな白湯があった。


 天下を守ることはできなくとも、幼い子の手は、母の冷えた心を一口だけ温めた。


 淀殿は白湯の椀を秀頼へ返すと、冷めた茶碗を持ち上げた。


 ゆっくりと口を付ける。


 表情は変えなかった。


 だが、その苦さを飲み込むように、喉が小さく動いた。


「治部少輔」


「はっ」


「そなたは、佐和山へ戻りなさい」


「はっ」


「湯を絶やさぬように」


 湊一は一瞬、淀殿の顔を見つめた。


 冗談を言っている様子はない。


「承知いたしました」


 深く頭を下げる。


     ◇


 座敷を退出しようとした時、長男が立ち上がり、襖を開けた。


 互いに何も言わない。


 言える立場ではなかった。


 湊一がその脇を通り過ぎようとした時。


「父上」


 聞き違えるほど、小さな声がした。


 湊一は足を止めなかった。


 振り返れば、治部少輔ではいられなくなる。


「膳を残すな」


 前を向いたまま言った。


 父として伝えられたのは、それだけだった。


 飯を食べろ。


 身体を壊すな。


 生きろ。


 帰ってこい。


 すべてを、その一言へ押し込めた。


「はい」


 背後から、長男の声が返った。


 湊一は振り返らなかった。


     ◇


 大坂城を出る前。


 湊一は、諸大名の妻子の名が記された帳面を目にした。


 誰を、どの屋敷へ迎えるのか。


 誰が病を抱え、誰が幼子を連れているのか。


 一人一人が、家名ではなく、生きた人間だった。


 帳面の中ほど。


 細川家の名があった。


 墨で書かれた文字の上へ、どこからか水滴が落ちた。


 黒い墨が、僅かに滲んだ。


「水?」


 天井を見上げる。


 雨漏りはない。


 開いた窓の向こうでは、大坂城の堀が陽を反していた。


 水面に、小さな波紋が生まれる。


 一つ。


 二つ。


 流れとは逆の方へ、何かが泳いだように波が走った。


 くくっ。


 子どもが喉の奥で笑ったような音がした。


 湊一が窓際へ寄った時には、もう何もいない。


 ただ、水面に一枚の青い葉が浮かんでいた。


 その背後で、近習が帳面を閉じる。


 滲んだ文字は見えなくなった。


 守るために、人を集める。


 その命令が、別の者の手に渡った時。


 客は、人質へ変わる。


 宿は、檻へ変わる。


 淀殿の茶は冷めた。


 秀頼の膳は、二人分になった。


 幼い手から渡された白湯だけが、僅かに温かさを残していた。


 そして正しい言葉は、ときに刃より速く、人を追い詰める。


 湊一は佐和山へ帰るため、城門へ向かった。


 懐の竹筒の中で、水が小さく揺れていた。


 まるで白那が、これから濁り始める遠い水の底を見つめているかのように。


関ヶ原まで、あと五十三日。


母であることと、豊臣家を守る者であること。


淀殿はその間で揺れながら、秀頼を失うまいと足掻いています。

けれど幼い秀頼が望んだのは、城でも兵でもなく、母の手でした。

一方、長男へ「生きろ」と言えなかった湊一が伝えたのは、

「膳を残すな」

という、たった一言。

冷めた茶。

分けられた膳。

そして、子から母へ渡された温かな白湯。

同じ座敷にいた二組の親子は、それぞれの言葉で「帰ってきてほしい」と願っていました。


次回、第二十六湯。

「白那の古い約束」

水守が、長く胸の奥へ沈めてきた記憶が明かされます。

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