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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

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第三湯 濁り井戸の庄屋

第三湯です。

今回は、佐和山の城下で起きる「井戸の異変」のお話です。

湯宿の若旦那だった湊一にとって、水は命そのもの。

けれど戦国の世では、水はただの生活の道具ではなく、村を守るものでもあり、時に人の恐れや欲を映すものでもあります。

そして今回、白那も少しだけ本気を出します。

ただし、力を使った後の彼女には、少々困った変化が……。


佐和山が「帰る場所」になるための、小さな一歩をお楽しみください。

第三湯 濁り井戸の庄屋


 井戸の水が出なくなった。


 その知らせが佐和山城に届いたのは、朝餉の膳が運ばれてきた直後だった。


 白瀬湊一――いや、今は石田三成として生きる男は、椀に箸を伸ばしかけた手を止めた。


「水が、出ない?」


「は。麓の村より訴えがございました」


 家臣は畳に手をつき、険しい顔で続ける。


「はじめは水が濁り、次第に細り、今朝には桶が底を叩くばかりだと」


 湊一は椀を置いた。


 粥の湯気が、静かに揺れる。


 水が濁るだけでも一大事だ。


 だが、水が出ないとなれば話は別である。


 飯が炊けない。


 喉が潤せない。


 子どもも年寄りも弱る。


 湯宿なら断水は営業停止だ。


 この時代の村なら、暮らしそのものが止まる。


「村の者はどうしている」


「庄屋が申すには、山の神の怒りであろうと。しばらく祈祷をして様子を見るべきだと」


「祈祷」


 湊一は眉を寄せた。


 戦国の世である。


 祟り。


 神罰。


 山の怒り。


 そうした言葉で片づけられることも多いのだろう。


 だが、湯宿の若旦那としては、その一言で済ませるわけにはいかない。


 水が止まるには、理由がある。


 水脈が変わったのか。


 井戸の底が崩れたのか。


 上の水筋を誰かが塞いだのか。


 それとも、もっと人間くさい事情があるのか。


「行く」


 湊一は立ち上がった。


 家臣がぎょっとする。


「殿自らでございますか」


「水の話だ。人任せにはしない」


「しかし、村の井戸にまで殿が出向かれるなど」


「井戸を軽く見るな」


 湊一は静かに言った。


「井戸が死ねば、村が死ぬ。村が死ねば、城も死ぬ」


 家臣たちは黙った。


 理屈は分かる。


 だが、城主が井戸の様子を見に行くという発想には、まだ慣れないらしい。


 湊一自身も、まだ慣れてはいない。


 自分が石田三成として扱われること。


 人が頭を下げること。


 命じれば誰かが動くこと。


 そのどれもが、まだ身体に馴染まない。


 だが、水の異変だけは放っておけなかった。


 湯宿は水で始まり、水で終わる。


 客に出す茶も、風呂も、飯も、布団を整える手も、すべて水に支えられている。


 水が止まれば、もてなしは止まる。


 そして、人の心も荒れる。


 湊一は粥を一口だけかき込み、椀を置いた。


「腹は戻ってから満たす」


「は?」


「いや、なんでもない」


 また妙なことを言った。


 小姓が困った顔をしている。


 湊一は咳払いをし、城を出た。


 山道を下ると、朝の空気は冷たかった。


 現代の山あいの湯宿「白峰」の朝にも似ている。


 ただし、聞こえる音はまるで違う。


 車の音もない。


 エアコンの室外機もない。


 代わりに、鳥の声と、土を踏む草履の音がある。


 その道中、湊一は何度も沢の流れを見た。


 上流の水は澄んでいる。


 少なくとも、山全体が干上がっているわけではなさそうだった。


「昨日は雨が降ったか」


「いいえ」


「山崩れは」


「聞いておりませぬ」


「なら、井戸そのものか、水筋の問題だな」


 家臣が首を傾げる。


「殿は、水のことにお詳しいのですな」


「詳しいというほどじゃない」


 湊一は苦笑した。


「ただ、湯宿では水が命だった」


「ゆやど?」


「……いや、宿だ。人を泊め、湯を沸かし、飯を出す場所だ」


 家臣はますます分からないという顔をした。


 まあ、分からなくていい。


 いずれ分かる。


 佐和山は、そういう場所にしていくのだから。


 村に着くと、空気は重かった。


 田の畦に人が立ち、家々の戸口から不安そうにこちらを見ている。


 中央の広場には、古い井戸があった。


 石で囲まれ、木の蓋が脇に立てかけられている。


 その周りに、村人たちが集まっていた。


 湊一が近づくと、村人たちは慌てて頭を下げた。


「面を上げろ」


 そう言っても、すぐには上がらない。


 恐れ。


 遠慮。


 疑い。


 いくつもの感情が、乾いた土の匂いに混じっている。


 その中から、一人の男が進み出た。


 五十を少し過ぎたほどだろうか。


 日に焼けた顔に、よく通る目をしている。


 身なりは村人より整っていた。


 この男が庄屋だろう。


「庄屋の権左にございます。殿自らお運びくださり、恐れ入ります」


 権左は深く頭を下げた。


 その動きは丁寧だった。


 だが、どこか固い。


 湊一は井戸を見た。


「水を見せろ」


「は」


 権左が合図すると、若い男が桶を下ろした。


 縄がきしみ、桶が井戸の中へ落ちていく。


 しばらくして。


 こつん。


 乾いた音が返った。


 水を打つ音ではない。


 桶が底を叩く音だった。


 湊一は井戸の縁に手をかけ、暗い底を覗き込む。


「……水音がしない」


 背筋が冷えた。


 濁っているどころではない。


 井戸が、死にかけている。


「いつからだ」


「三日前にございます」


 権左が答えた。


「急にか」


「はじめは濁り、それから少しずつ水が細り、今朝にはこの有り様で」


「腹を壊した者は」


 村人たちが顔を見合わせた。


 年配の女が、おずおずと手を上げる。


「子が二人、腹を下しております。昨日、濁った水を飲みまして」


 湊一の目が鋭くなった。


「その子らには、この井戸の水を飲ませるな。沢か湧き水を汲み、必ず一度沸かして使え」


「沸かす、でございますか」


「そうだ。飲む水は火を通せ。特に子どもと年寄りは必ずだ」


 村人たちは戸惑った。


 やはり、ここでも同じだ。


 水を沸かして飲むという発想は、茶や湯以外では徹底されていない。


「殿」


 権左が静かに口を開いた。


「恐れながら、この井戸は山の神の怒りに触れたものと見えます。無理に触れれば、さらに祟りが広がるやもしれませぬ」


「祟りと決めるのは、井戸の底を見てからだ」


 湊一は即答した。


 権左の眉が、わずかに動いた。


 その反応を、湊一は見逃さなかった。


「庄屋。この村に井戸はここだけか」


「主に使う井戸は、この一つにございます」


「主に?」


 湊一が聞き返すと、権左は一瞬だけ口を閉じた。


「我が家の奥にも、小さな井戸がございます。しかし、村人すべてに行き渡るほどではございませぬ」


 村人の中から、小さなどよめきが起きた。


 湊一はそれを聞いた。


 何かある。


 水が出なくなった村。


 村の中央の井戸。


 そして、庄屋の家にだけある別の井戸。


 宿でも同じだった。


 客の見えるところだけ整っていて、裏の配管が詰まっていることがある。


 帳場は明るいのに、従業員用の休憩所は雨漏りしていることがある。


 見える場所と、見えない場所。


 使う者と、決める者。


 そこがずれると、水は濁る。


「庄屋の井戸も見る」


 湊一が言うと、権左の顔が硬くなった。


「それは……」


「見せられぬ理由があるか」


「ございませぬ。ただ、殿にお見せするほどのものでは」


「水に上下はない」


 湊一は言った。


「殿が飲む水も、百姓が飲む水も、なくなれば命に関わる」


 権左は何も言えなかった。


 その時だった。


 ちりん。


 鈴の音がした。


 風はない。


 水もない。


 それなのに、乾いた井戸の底から、聞こえるはずのない水音がした。


 湊一は息を止めて覗き込む。


 暗い底に、白い光が立ち上がっていた。


 白那〈しろな〉だった。


 湊一をこの戦国の世へ導いた、白い髪の水の巫女。


 水音と鈴の音の向こうから現れ、いつも肝心なところで湊一を試す、神のようで、ひどく口の悪い少女。


 水のない井戸の闇に、その白那が立っている。


 白い髪は月光のように淡く輝き、白い衣は水面もないのに静かに揺れていた。


 人ではない。


 この世のものでもない。


 まるで、山の奥に眠る水そのものが、少女の形を借りて現れたようだった。


 村人たちは息を呑む。


 誰かが小さく「神さま」とつぶやいた。


 だが、その神々しい巫女は、開口一番、湊一を冷たく見上げた。


『遅い』


「第一声がそれか」


『水が枯れ、子が腹を壊し、庄屋が水を囲い、村人が疑い合う。ここまで濁って、ようやく気づくとは』


 白那は、すっと目を細めた。


『若旦那の名が泣きますね』


「一応、今は三成なんだが」


『では、石田三成の名も一緒に泣かせておきなさい』


「容赦がないな、お前」


『容赦で水が湧くなら、いくらでも優しくして差し上げます』


 村人たちには、白那の声が聞こえているのかいないのか分からない。


 ただ、井戸の底に白い巫女が立っているという事実に、誰も動けずにいた。


 湊一だけが、額に手を当てた。


「お前、本当に神々しい見た目なのに、性格が最悪だな」


『最悪なのは、水筋を曲げておきながら祟りのせいにした人間です』


 白那の視線が、庄屋の権左へ向いた。


 権左は膝をついたまま、震えている。


『恐れは分かります。守りたいものがあったのでしょう。ですが』


 白那の声が、わずかに低くなった。


『己だけが渇かぬよう水を曲げた時点で、その井戸はもう濁っています』


 井戸の底で、鈴が鳴った。


 ちりん。


 その音に、村人たちが一斉に身をすくめる。


 白那は、今度は湊一を見た。


『水は消えていません』


「消えていない?」


『道を奪われただけです』


 白那の鈴が、小さく鳴った。


『人の恐れは、水筋を曲げます。そして、曲げられた水は、必ず濁ります』


 湊一は井戸から顔を上げた。


「庄屋の屋敷へ案内しろ」


 権左は一瞬、息を詰めた。


「殿」


「行くぞ」


 湊一はそれ以上言わせなかった。


 庄屋の屋敷は、村の奥にあった。


 他の家より少し高い場所に建ち、裏手には竹垣が巡らされている。


 その奥に、小さな井戸があった。


 水は出ていた。


 桶を落とすと、すぐにちゃぽんと音が返る。


 村の井戸が乾いているのに、ここだけは澄んだ水をたたえている。


 村人たちの視線が、権左に集まった。


 権左の額に汗がにじむ。


 湊一は井戸の脇を見た。


 土が新しい。


 細い溝が掘られている。


 屋敷の裏から山側へ向かい、さらに村の古井戸へ続く水筋の脇をかすめるように伸びていた。


 完全な水路ではない。


 だが、山から落ちる水の流れを少し変えるには十分だった。


「これは何だ」


 湊一が問うと、権左は唇を震わせた。


「……我が家の井戸を守るためにございます」


「守る?」


「戦が近いと聞きます。兵が通れば、水も米も取られる。山が荒れれば沢も変わる。村を守るには、少しでも水を囲わねばならぬ」


 権左は膝をついた。


「綺麗事では、村は残りませぬ」


 村人たちがざわめいた。


「俺たちの水を曲げたのか」


「子どもが腹を壊したんだぞ」


「庄屋様だけ水を使っていたのか」


 怒りの声が上がりかける。


 湊一は手を上げ、それを止めた。


「責めるのは後だ。先に水を戻す」


「しかし殿!」


「怒りで井戸は満ちない」


 湊一の声が、村の空気を押さえた。


 自分でも驚くほど、石田三成の声だった。


 湊一は権左を見る。


 悪人か。


 最初はそう思った。


 自分の家の井戸だけ守り、村人には枯れた井戸を使わせた男。


 だが、その言葉には、乱世を生きてきた者の現実があった。


 守るために囲う。


 失わぬために隠す。


 それは卑怯だ。


 だが、恐怖から生まれた卑怯でもあった。


「溝を埋める。水筋を戻す」


 湊一は指示を出した。


「村の井戸の周りも掘る。崩れた石組みがあれば直す。泥をさらう。子どもと年寄りには、庄屋の井戸の水を分けろ。ただし、必ず沸かしてからだ」


 権左が顔を上げた。


「殿、それでは我が家の水が」


「村の水だ」


 湊一は言った。


「庄屋の井戸も、村の者が生きていてこそ意味がある」


 権左は唇を噛んだ。


「お前を今すぐ罷免することもできる」


 権左の肩が震えた。


「だが、今この村で水を一番知っているのは、お前だ」


 村人たちがざわつく。


 湊一は構わず続けた。


「だから罰として、役を与える」


「役……でございますか」


「水番だ」


 湊一は井戸を指した。


「今日からお前は、この村の水を一番最後に飲め」


 権左が目を見開いた。


「子ども、病人、年寄り、働き手。その順に水を配れ。自分の家は最後だ。井戸の周りは毎朝見る。濁りがあればすぐ知らせる。隠せば次はない」


 村人たちは黙った。


 甘い処分だと思う者もいるだろう。


 厳しい処分だと思う者もいるだろう。


 湊一にも、これが正しいかは分からない。


 ただ、庄屋を吊るし上げて終わりにすれば、村の水を知る者が一人消える。


 怒りは晴れても、井戸は戻らない。


 湯宿でもそうだった。


 失敗した者を怒鳴るだけでは、現場は良くならない。


 失敗の原因を直し、役割を決め、次に起きない仕組みにする。


 言うのは簡単だ。


 やるのは、とんでもなく面倒くさい。


 だが、その面倒くささを引き受けるのが、責任者の仕事だった。


「分かりました」


 権左は地面に額をつけた。


「この権左、村の水を預かります」


「預かるんじゃない」


 湊一は言った。


「返すんだ。村に」


 その瞬間だった。


 ちりん。


 鈴の音が鳴った。


 村の古井戸の方からだった。


 湊一は振り返る。


 風が止まっていた。


 鳥の声も消えていた。


 まるで村全体が、息をひそめているようだった。


 水筋は戻した。


 溝も埋めた。


 石組みも直し始めている。


 それでも、井戸の底から水音は返らない。


「まだ、出ないのか」


 湊一は井戸の縁に手を置いた。


 乾いた底が、暗く口を開けている。


 その闇の中に、再び白い光が立ち上がった。


 白那だった。


 今度は湊一だけではなかった。


 村人の何人かが、息を呑んだ。


「白い……」


「井戸の底に、誰か……」


 白那は水のない井戸の底に立っていた。


 白い髪が光を帯び、白い衣がゆっくりと揺れる。


 その姿は、恐ろしく美しかった。


 神々しい、という言葉がそのまま形になったようだった。


 だが、白那は相変わらず冷たい目で湊一を見上げる。


『さて、若旦那』


「何だ」


『人の濁りは、少しだけ片づけましたね』


「少しだけか」


『ええ。ほんの少しです。調子に乗るには百年早い』


「百年は長いな」


『あなたが鈍いので仕方ありません』


 湊一は言い返しかけて、やめた。


 白那の手が、かすかに震えているのに気づいたからだ。


 神々しい姿の奥に、痛みがあった。


 彼女はこれから力を使う。


 そして、その代償を知っている。


 それでも、井戸の底に立っている。


「白那」


『何です』


「無理をするな」


 白那の瞳が、冷たく細くなる。


『命令ですか?』


「違う。心配だ」


『不要です』


「でも、力を使ったら――」


『幼くなる、と言いたいのですか』


 白那は、ぞっとするほど美しく笑った。


『知っています。見られるのは不愉快です。抱えられるのも屈辱です。あなたに心配されるのは、もっと腹立たしい』


「そこまで言うか」


『ですが』


 白那は井戸の底に膝をついた。


 白い指先が、乾いた土に触れる。


『水が泣いているのを、放っておく方が嫌です』


 その声だけは、先ほどまでと違っていた。


 冷たいのに、痛みを含んでいる。


 強いのに、どこか傷ついている。


 湊一は言葉を失った。


 白那はドSだ。


 言葉は鋭い。


 こちらの弱さを、笑顔で刺してくる。


 だが、その内側にあるものは違う。


 誰かが苦しむなら、自分が痛む方を選んでしまう。


 水が傷つくなら、自分の姿が崩れても手を伸ばしてしまう。


 本人は絶対に認めないだろう。


 けれど、白那はそういう巫女だった。


『戻りなさい』


 白那の声が、井戸の底から響いた。


『この村は、まだあなたを必要としています』


 ちりん。


 鈴が鳴る。


 その瞬間、山が息をした。


 ごう、と低い音が地の底から響き、村人たちが悲鳴に近い声を上げる。


 乾いた井戸の底に、ぽたり、と一滴の水が落ちた。


 一滴。


 また一滴。


 やがて土の隙間から水がにじみ、細い流れとなって井戸の底を満たしていく。


「水だ……」


「水が戻った……!」


 村人たちの声が震える。


 しかし、戻ってきた水は澄んではいなかった。


 泥を含み、白く濁っている。


 湊一は水面を見つめた。


 白那はその濁った水の中に立ったまま、湊一を見上げた。


『水は戻しました』


 声が、少し高くなっていた。


 湊一は気づいた。


 白那の姿が、少しずつ縮んでいる。


 長かった白い髪がふわりと跳ね、肩の高さまで短くなる。


 凛と伸びていた背が低くなり、袖が余り始める。


 神々しい巫女の輪郭が、見る間に幼い少女のものへ変わっていく。


『けれど、この濁りを澄ませるのは、あなたの仕事です』


 白那は最後まで偉そうに言った。


 だが、最後の一音は完全に幼い声だった。


 そして。


 ぽすん。


 小さくなった白那は、井戸の底に尻もちをついた。


『……見ましたね』


「見えるだろ」


『見るなと言っています』


 白那は頬をぷくりと膨らませた。


 さっきまで山の水脈を従えていた巫女とは思えない。


 白い衣はぶかぶかで、袖は手の先まですっぽり隠れている。


 足元もおぼつかず、立ち上がろうとしては、裾を踏んでまたぺたんと座り込む。


 そのたびに、大きすぎる鈴が、ちり、と情けない音を鳴らした。


『……地面が悪いのです』


「井戸の底だからな」


『口答えしない』


「はい」


『若旦那』


「はい」


『今、失礼なことを考えましたね』


「いや」


『考えました』


「……少しだけ」


『正直でよろしい。ですが減点です』


「だから何の点数だ」


『あなた次第です。今のところ赤点です』


「厳しいな」


『水を預かる者に甘さは不要です』


 声だけは偉そうだった。


 けれど、目は少し潤んでいて、悔しさと眠気を必死にこらえているのが丸分かりだった。


 湊一は笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。


『今、笑いましたね』


「笑ってない」


『口元が裏切っています』


「鋭いな」


『当然です。私は水の巫女です』


 白那は胸を張ろうとした。


 だが、ぶかぶかの袖が重かったのか、胸を張った拍子にふらりと後ろへ倒れかける。


「危ない」


 湊一が手を伸ばすと、白那はその指を小さな両手でつかんだ。


 手は冷たく、驚くほど小さかった。


『……手を貸すことを許します』


「頼むとは言わないんだな」


『許します』


「はいはい」


『二回言わない』


「はい」


 湊一は井戸の底へ手を伸ばし、小さな白那を抱き上げた。


 軽い。


 あまりにも軽い。


 腕の中に収まった白那は、まだ威厳を保とうとして顎を上げている。


 けれど、濡れた白髪が頬に貼りつき、袖の中から指先だけがちょこんと出ているせいで、どう見ても強がる幼子だった。


『勘違いしないでください』


「今度は何だ」


『私は、あなたに抱えられたくて小さくなったわけではありません』


「分かってる」


『あなたの腕が、少しだけ安定しているなどとも思っていません』


「思ってるじゃないか」


『思っていません』


 白那はぷいと顔を背けた。


 そのくせ、小さな指は湊一の袖をぎゅっと掴んでいる。


 眠いのだろう。


 何度もまばたきをして、そのたびに白いまつ毛がふるふる震えた。


 村人たちは、呆然とその光景を見ていた。


 枯れた井戸に水が戻った。


 白い巫女が現れた。


 その巫女が小さな子どもの姿になって、殿に抱えられている。


 誰も理解できない。


 湊一にも、少し分からない。


 ただ一つだけ、分かっていることがある。


 水は戻った。


 だが、まだ濁っている。


 そして白那は、その濁りを湊一に託した。


「ここからは、人の仕事だ」


 湊一は村人たちへ向き直った。


「井戸をさらう。水を分ける。二度と誰か一人が囲わない仕組みにする」


 腕の中の白那が、小さく鼻で笑った。


『ようやく若旦那らしいことを言いましたね』


「三成らしい、じゃないのか」


『今のあなたは泥だらけの若旦那です』


「否定できないな」


『できると思っていたなら、さらに減点です』


「厳しすぎる」


『当然です』


 白那は小さな体を湊一の腕に預けたまま、偉そうに言った。


『私が水を戻したのです。あなたは、せいぜい人を戻しなさい』


 湊一は、ほんの少し笑った。


「ああ。任せろ」


『返事だけは及第点です』


「そこは褒めろ」


『調子に乗るので嫌です』


「やっぱり性格悪いな」


『今さらです』


 白那はそう言って、湊一の袖をもう一度だけ強く掴んだ。


 その手は小さく、冷たかった。


 その日、村では総出で井戸をさらった。


 男たちが石を動かし、女たちが桶を運び、子どもたちは小石を拾った。


 権左も誰より先に泥を運んだ。


 湊一も袖をまくり、井戸の周りに膝をついた。


 家臣が慌てて止めようとしたが、無視した。


「殿が泥を持つなど」


「泥くらい持つ」


「しかし」


「湯宿の若旦那は、詰まった排水溝も見るんだよ」


「はいすい……?」


「忘れろ」


 家臣は首を傾げたが、それ以上聞かなかった。


 小さな白那は井戸の縁に座り、濡れた袖を抱えながら湊一を見ていた。


『手際が悪いですね』


「なら手伝え」


『今の私に泥仕事をさせる気ですか。鬼ですか』


「口は元気だな」


『口まで幼くなってたまりますか』


「十分幼いぞ」


『減点です』


「またか」


 白那は答えず、ぷいと横を向いた。


 だが、村の子どもがそっと近づいてくると、少しだけ目を細めた。


「白い姫さま」


『姫ではありません』


「神さま?」


『違います』


「じゃあ、赤ちゃん?」


『違いますっ』


 白那の声が少し裏返った。


 村の子どもがきょとんとする。


 湊一はとうとう少しだけ笑ってしまった。


『若旦那』


「はい」


『今のは減点では済みません』


「申し訳ございません」


『分かればよろしい』


 白那はそう言って、ふんと鼻を鳴らした。


 だが、その直後に小さなくしゃみをした。


「くしゅん」


 井戸端にいた全員が、思わず固まった。


 白那は真っ赤になった。


『……今のは、水音です』


「いや、くしゃみだった」


『水音です』


「はい。水音です」


『よろしい』


 夕方近く。


 井戸の水は、まだ完全には澄んでいなかった。


 だが、朝とは違う。


 底から水音がしている。


 水は確かに戻っている。


 泥は少しずつ沈み、濁りは薄くなっていた。


 村人たちの顔にも、少しだけ色が戻っていた。


 湊一は井戸端に立ち、深く息を吐いた。


 水を整えるだけで、一日が終わる。


 天下など、遠すぎる。


 関ヶ原まで、あと九十四日。


 その数字が、ふいに胸の奥に浮かんだ。


 九十四日。


 歴史が大きく動くまでの時間。


 けれど今日、自分が動かしたのは、たった一つの井戸だった。


 それでも。


 この井戸が戻れば、粥が炊ける。


 子どもが水を飲める。


 村人が田へ出られる。


 庄屋が自分だけでなく、村のために水を見るようになる。


 小さすぎる一歩。


 だが、湯もまた一滴ずつ満ちていく。


 権左が湊一の前に膝をついた。


「殿。この権左、二度と水を囲いませぬ」


「囲うなとは言わん」


 湊一は言った。


 権左が顔を上げる。


「水を守ることは必要だ。だが、自分だけで囲うな。村で守れ。順番を決めろ。見張りを立てろ。濁れば隠すな。水は分けてこそ生きる」


「……は」


「今日からお前は水番だ。最後に飲め。最初に見る。それが罰であり、役目だ」


 権左は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その後ろで、村人たちもぽつりぽつりと頭を下げていく。


 湊一はそれを見ながら、心の中で思った。


 領主とは、何だ。


 城主とは、何だ。


 石田三成とは、何をすべき男なのか。


 まだ答えは出ない。


 だが、白瀬湊一としてなら分かることがある。


 水が止まれば、まず現場に行く。


 濁った水を、そのまま人に出してはいけない。


 困っている者を、見えない場所へ押し込めてはいけない。


 帰る場所を名乗るなら、まず水を戻し、澄ませなければならない。


「帰るぞ」


 湊一は家臣たちに告げた。


 山の向こうでは、佐和山城が夕日に染まっている。


 城へ戻れば、また山ほどの問題が待っているだろう。


 米。


 人手。


 台所。


 寝床。


 そして、やがて来る戦。


 だが、今日の佐和山には一つだけ増えたものがある。


 枯れた井戸を見捨てなかった、という事実だ。


 その小さな事実が、いつか誰かの帰る理由になる。


 湊一は泥のついた手を見た。


 戦国の城主らしくはない手だった。


 だが、湯宿の若旦那としては、悪くない手だった。


 井戸の縁に座っていた白那が、小さく鈴を鳴らした。


 ちりん。


『若旦那』


「何だ」


『次に水を濁らせたら、あなたから井戸に沈めます』


「怖いな、おい」


『当然です。水を預かる者に甘さは不要です』


 そう言いながら、小さな白那は眠そうに目をこすった。


 神々しさはどこへ行った。


 完全に幼児である。


 湊一はため息をつき、膝を折った。


「歩けるか」


『歩けます』


 白那は立ち上がろうとして、すぐにふらついた。


「歩けてないだろ」


『地面が悪いのです』


「はいはい」


『二回言わない』


「はい」


 湊一は白那を抱き上げた。


 白那は一瞬だけ抵抗したが、すぐに大人しくなった。


『勘違いしないでください』


「何度目だ、それ」


『私は疲れているだけです』


「分かってる」


『あなたの腕がちょうどよかったわけではありません』


「はい」


『ですから、余計なことを考えないように』


「考えてない」


 白那は湊一の袖をぎゅっと掴み、ふいに小さな声で言った。


『……水は、痛がっていました』


 湊一は黙った。


『曲げられて、囲われて、忘れられて。だから、少しだけ叱りました』


「少し?」


『少しです』


「山が鳴ってたぞ」


『水は声が大きいのです』


 湊一は苦笑した。


 白那はドSだ。


 口も悪い。


 態度も偉そうだ。


 だが、その奥で、彼女は誰よりも水の痛みに触れている。


 だから、放っておけない。


 自分が小さくなってしまうと分かっていても、力を使う。


 傷つく方を選んでしまう。


 まったく、厄介なヒロインである。


「白那」


『何です』


「ありがとな」


 白那は、ぱちりと瞬きをした。


 そしてすぐ、頬を赤くして顔をそむける。


『礼を言う暇があるなら、次はもっと早く気づきなさい。この鈍い若旦那』


「はいはい」


『二回言うなと言っています』


「はい」


 湊一は小さな白那を抱え直した。


 白那は不満そうにしていたが、もう抵抗する力もないらしく、湊一の胸元にこてんと額を預けた。


『重いでしょう』


「軽すぎて怖いくらいだ」


『では、ありがたく運びなさい』


「はい」


『……少しだけ、眠ります』


 そう言って、白那は湊一の袖を掴んだまま、すう、と寝息を立てた。


 神々しさも、毒舌も、威厳も、その小さな寝息の前では少しだけ丸くなる。


 湊一は苦笑しながら、佐和山の方を見た。


「まったく」


 水を呼ぶ神のような巫女。


 口を開けば容赦のない、面倒くさいヒロイン。


 そして今は、袖を握ったまま眠る、小さくて愛くるしい白い子ども。


「放っておけるわけないだろ」


 湊一は小さくそうつぶやき、白那を抱えたまま歩き出した。


 夕暮れの村に、戻ったばかりの水音が響いている。


 ちょろちょろと。


 まだ細く、まだ濁りを残しながら。


 それでも確かに、その音は生きていた。


 背後で、村人たちが井戸に手を合わせている。


 だが湊一は知っている。


 手を合わせるだけでは、水は守れない。


 水は、仕組みで守る。


 人の手で守る。


 そして、誰か一人のものにしない。


 井戸の底で、最後にもう一度だけ鈴が鳴った。


 ちりん。


 その音は、濁りの残る水の中へ、静かに溶けていった。


お読みいただき、ありがとうございます。

第三湯では、村の井戸を通して、湊一が「領主」として初めて民の暮らしに深く関わる回になりました。

水を戻すのは白那の力。

けれど、水を守る仕組みを作るのは湊一と人の仕事。


この役割分担が、今後の二人の関係にもつながっていきます。


白那は神々しい水の巫女でありながら、口はなかなか容赦ありません。

さらに力を使うと幼くなってしまうという、本人にとってはかなり不本意な弱点もあります。


次回は、佐和山の「水」と「人」が少しずつ動き出します。

湯宿の若旦那としての湊一が、戦国の城で何を整えていくのか、引き続き見守っていただけると嬉しいです。

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