第二湯 佐和山の水は冷たい
第二湯です。
戦国の佐和山で目覚めた湊一。
今回は、城の「水」と「飯」と「人の流れ」を見ていきます。
現代の湯宿若旦那の感覚が、戦国の城で少しずつズレながらも役に立っていく回です。
第二湯 佐和山の水は冷たい
佐和山の朝は、水の音から始まった。
ざあざあと流れる川の音ではない。
きい、きい、と軋む滑車。
井戸の底へ落ちていく桶。
縄を引く者たちの掛け声。
重い水桶が、板の上へ置かれる音。
目を覚ました湊一は、薄暗い天井を見上げたまま、それらを聞いていた。
煤けた梁。
土壁と畳の匂い。
見慣れない寝具。
何度目を閉じて開いても、湯宿「白峰」の自室には戻らない。
ここは、慶長五年の佐和山城。
そして、自分の体は――石田三成のものだった。
「夢なら、そろそろ覚めてもよさそうなものだけどな……」
呟いた声も、自分のものではない。
低く、硬い声だった。
頭の中には、石田三成の記憶がある。
城内の構造。
家臣たちの顔。
諸大名との関係。
政務の手順。
だが、それは湊一自身が生きて得た記憶ではない。
知らない者が書いた帳面を、頭の中へ無理やり詰め込まれたような感覚だった。
そして歴史を知る湊一には、この先に待つものも分かっている。
徳川家康との対立。
関ヶ原の戦い。
三成の敗北。
佐和山城の落城。
妻も、子も、家臣も、城下の者たちも、その運命に巻き込まれる。
考えなければならないことは、山ほどあった。
兵の数。
兵糧。
諸将の動向。
誰が味方で、誰が背を向けるのか。
だが、遠くから飛んできた苛立った声が、湊一の思考を遮った。
「そちらは台所の分だ!」
「こちらは上の御殿へ運ぶ水だぞ!」
「先に並んでいたのはこちらだ!」
声は、寝所のすぐ外からではない。
御殿を隔てた下手――台所や納戸、下働きの者たちが出入りする一角から聞こえてくる。
朝から、ずいぶんな騒ぎだった。
湊一は身支度を整え、部屋を出た。
◇
廊下を渡り、庭を抜ける。
石段を下りるにつれ、言い争う声がはっきりしてきた。
上の御殿から離れた、台所裏の一角。
そこに設けられた城内の井戸では、十人近い者たちが揉めていた。
城に仕える小者。
台所働きの女。
水桶を担いだ少年。
鎧の手入れに使う水を求める足軽。
いずれも、佐和山城内の暮らしを支える者たちだった。
その中央で、井戸番の老人が両手を広げ、皆を押し止めている。
「順に並べ! 水は逃げぬ!」
「逃げませぬが、飯の支度が遅れます!」
「こちらは御殿へ運ぶ水だぞ!」
「上の御方だけ飲めればよいのか!」
湊一が姿を見せた途端、声が消えた。
全員が顔色を変え、その場へ膝をつく。
「治部少輔様……!」
ほんの一瞬前まで怒鳴り合っていた者たちが、そろって地面を見ている。
湊一は小さく息を吐いた。
旅館でも、責任者が現れた瞬間だけ静かになる現場ほど、あとで問題が大きくなる。
「続けろ」
誰も顔を上げない。
「聞こえなかったか。先ほどの話を続けろ」
井戸番の老人が、おそるおそる口を開いた。
「水の取り分を巡り、少々……」
「少々には聞こえなかった」
「申し訳ございませぬ」
「謝れとは言っていない。何が足りない」
老人は困ったように周囲を見回した。
答えたのは、台所働きの女だった。
「朝餉に使う水が足りませぬ」
「なぜだ」
「昨日より、井戸から上がる水が少のうございます」
湊一は井戸の縁へ近づき、底を覗き込んだ。
深い。
暗い水面が、はるか下でかすかに光を返している。
「昨日より、どれほど少ない」
誰も答えなかった。
「桶で何杯分だ」
井戸番が首を傾げる。
「はて……」
「一日に、何杯汲み上げている」
「必要なだけにございます」
「必要なだけでは分からないだろう」
周囲の者たちが、互いに顔を見合わせた。
水量の記録がない。
使用先ごとの割り当てもない。
井戸の水位が、どれほどの速さで下がっているかも分からない。
すべてが経験と勘で動いている。
「今日から、汲み上げた桶の数を刻め」
「桶の数を、でございますか」
「台所、飲み水、洗い物、馬、鎧の手入れ。それぞれ分ける」
足軽の一人が、戸惑った顔をした。
「水を使うたび、数えるのでございますか」
「そうだ」
「なぜ、そのようなことを」
「足りない理由を知るためだ」
湊一は井戸の縁を指で叩いた。
「井戸から上がる量が減ったのか、使う量が増えたのか。それすら分からぬまま、誰が先に汲むかで争っても、水は増えない」
台所働きの女が、はっとしたように顔を上げた。
「それは……そうでございますが」
「空の桶を持つ者と、満たした桶を運ぶ者の道も分けろ。細い道ですれ違えば、ぶつかる」
「道まで、お決めになるので?」
「転んで水をこぼせば、汲み直しだ。怪我人まで出れば、人手も減る」
作業の流れ。
使用量の確認。
事故の防止。
湊一にとっては、白峰で毎日のように考えてきたことだった。
だが、この時代の者たちには、城主が口を出すような話ではないらしい。
皆が珍しいものを見る目で、湊一を見ていた。
「何だ」
「い、いえ……」
「石田三成が、桶の置き場まで気にするのがおかしいか」
誰も答えない。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「俺だって、おかしいと思っている」
思わず漏らすと、台所働きの女が小さく吹き出した。
慌てて口を押さえ、青ざめる。
湊一は咎めなかった。
怒鳴り声ばかりの井戸端より、笑い声が一つある方がいい。
◇
汲み上げたばかりの水を、湊一は木椀に受けた。
手にしただけで、指先が冷える。
一口含む。
「冷たい……」
水は澄んでいた。
舌の上には、かすかな甘みもある。
山の中を通り、長い時間をかけて染み出した水なのだろう。
湯宿「白峰」で使っていた水とは違う。
白峰の水は、客を迎えるための水だった。
茶を淹れる。
料理を作る。
風呂を満たす。
部屋を清める。
ここ佐和山の水は、命をつなぐための水だ。
一杯を無駄にすれば、誰かの飯が炊けなくなる。
誰かが喉を潤せなくなる。
「この水、いつもより冷たくないか」
湊一の問いに、井戸番は眉を寄せた。
「水は冷たいものにございますが……」
「そういう意味ではない。昨日、一昨日と比べてどうだ」
「そこまでは……」
湊一は、もう一度水を口に含んだ。
冷たい。
ただ冷たいだけではない。
舌の奥に、針の先ほどの違和感が残る。
金気とも違う。
土臭さとも違う。
水そのものが、ひどく緊張しているような――。
ちりん。
鈴の音がした。
湊一は顔を上げた。
風は吹いていない。
鈴らしきものも、どこにもない。
もう一度。
ちりん。
今度は、井戸の底から聞こえた。
「聞こえたか」
「何がでございますか」
井戸番には聞こえていないらしい。
湊一は、暗い井戸の中を覗き込んだ。
水面が、ゆっくりと揺れる。
白いものが浮かび上がった。
長い、白銀の髪。
小さな額。
赤い瞳。
「何を呆けておる、愚か者」
幼い少女の声が、井戸の底から聞こえた。
「お前……昨夜、白峰の古井戸で会った少女か」
「ようやく妾に気づいたか。鈍い男よ」
少女は、水面の上に立っていた。
小さな体を包む白い衣。
長い髪は、水の中にあるように、ゆらゆらと揺れている。
昨夜は、ただ神々しく恐ろしい存在に見えた。
だが、こうして見ると、その姿は十にも満たぬ幼い娘そのものだった。
もっとも、こちらを見下ろす目だけは、幼子のものではない。
「名前を聞いていなかったな」
「妾の名を尋ねるとは、少しは礼儀を覚えたようじゃな」
少女は尊大に顎を上げた。
「妾は白那。佐和山の水を守る、水守じゃ」
「白那……」
「一度で覚えよ。二度も名乗らせれば、そなたを井戸の底へ沈めるぞ」
「物騒な名乗りだな」
「そなたが愚鈍なのが悪い」
湊一は声を潜めた。
「水が減っている。お前なら理由が分かるのか」
「水が減っておるのではない」
「では、何だ」
「水が、来ておらぬ」
白那は井戸の奥へ目を向けた。
「山の水は、道を違えぬ。道を違えるのは、いつも人よ」
「誰かが水の流れを変えたのか」
「さてな」
「知っているなら教えろ」
「妾に命じるでない」
白那は小さな腕を組み、鼻を鳴らした。
「そなたは、自らを何者だと思うておる」
「一応、この城の主らしい」
「妾には関わりのないことじゃ」
「なら、なぜ出てきた」
白那の眉が、ぴくりと動いた。
「佐和山の水が、愚か者どもの争いで汚されるのを見過ごせぬだけよ」
「つまり、心配なんだな」
「違う」
「水を使う人間が困るのが嫌なんだろう」
「違うと申しておる」
白那の頬が、わずかに膨らんだ。
昨夜の神々しい姿と、今の幼い姿。
どちらが本当の白那なのか。
湊一には、まだ分からない。
「どこを調べればいい」
「それくらい、自分で考えよ」
「水守なんだろう」
「水守は、愚か者の世話係ではない」
ちりん。
鈴が鳴り、白那の姿が水面へ沈み始める。
「待て。せめて一つだけ」
「妾は待たぬ」
「水は、どこで止まっている」
白那の姿が消える直前、小さな声が残った。
「城の下じゃ」
水面は静かになった。
湊一が顔を上げると、井戸番たちが不安そうにこちらを見ていた。
「治部少輔様……井戸に、何かございましたか」
「水守がいた」
「みずもり……?」
「いや、何でもない」
説明しても、信じてもらえる気がしなかった。
◇
湊一は、その足で台所へ向かった。
井戸から少し離れた土間には、大きな釜が並んでいる。
薪の匂い。
刻まれる菜。
洗われる米。
忙しく人が動いていたが、水桶の周りだけは空気が張り詰めていた。
「これは朝餉の分か」
「はい」
湊一は、米を研いだ水を見る。
白く濁っているが、妙な臭いはない。
「飲み水と洗い水は分けているか」
「もちろんにございます」
「一度使った水は」
「捨てます」
「すべてか?」
台所の者たちが顔を見合わせた。
「米を研いだ水は、床や桶を洗うのに使える。野菜を洗った水も、最初に泥を落としただけなら別の使い道がある」
「殿」
年嵩の女が、怪訝そうに眉をひそめた。
「まさか、捨てる水までお使いになるので?」
「飲めとは言っていない。使えるところへ回せと言っている」
「しかし……」
「井戸端で水を奪い合うよりはよい」
女は納得しきれない顔をしながらも、頷いた。
湊一は台所の奥へ目を向ける。
隅に、湯を沸かす釜があった。
「その湯は何に使う」
「汁物と、湯漬けにございます。残れば、手や器を洗うのにも」
「人が体を洗う湯は」
「城内に湯殿はございますが、毎日使えるほど水も薪もございませぬ」
やはり、そうなる。
現代の白峰なら、蛇口をひねれば湯が出た。
浴槽の温度も、機械が一定に保ってくれる。
だが、ここでは井戸から水を汲み、運び、薪を割り、火を焚き、ようやく湯になる。
湯を沸かすこと自体が、大仕事なのだ。
だが、だからこそ。
温かい湯には価値がある。
「小さな湯場なら作れるか」
台所の者たちが動きを止めた。
「湯場、でございますか」
「大きな湯殿はいらない。何人かずつ、順に手足や体を洗える場所でいい」
「そのようなものを、今から?」
「汚れの少ない者から使い、最後の湯は掃除へ回す。手足だけでも洗えれば、傷が悪くなるのを防げる」
年嵩の女が、呆れたように湊一を見た。
「殿は、戦の支度より湯を沸かされるので?」
その言葉に、土間が静まった。
もっともな疑問だ。
石田三成が、戦を前に湯場づくり。
誰が聞いても首を傾げるだろう。
湊一は少し考え、答えた。
「戦の支度だからだ」
「湯が、でございますか」
「汚れた体では、傷が悪くなる。眠れぬ者は判断を誤る。腹が減れば気が荒くなる。井戸端で起きていたことと同じだ」
水が足りない。
飯が遅れる。
体が休まらない。
それだけで、人は争う。
湊一には、関ヶ原で勝つ策などまだなかった。
だが、負ける場所がどのような場所かなら分かる。
人が疲れ切っている。
飯がまずい。
水が足りない。
誰も本当のことを言わない。
帰ってきても、ほっとできない。
そんな宿には、客は戻らない。
城だって、同じではないのか。
「ここを、帰ってきた者が息をつける場所にする」
口にした言葉が、不思議なほど胸へ落ちた。
天下を取る。
家康に勝つ。
そんな大きな言葉よりも、自分らしいと思えた。
帰る場所を整える。
それなら、自分にもできる。
「まず、水場を調べる。城内だけではない。山の水が、どの道を通って流れているか」
「麓の村まで、でございますか」
「ああ」
「庄屋へお尋ねになれば、済むのでは」
湊一は、白那の言葉を思い出した。
山の水は、道を違えない。
道を違えるのは、いつも人。
「尋ねるだけでは、見えぬこともある」
湊一は水桶の底を覗き込んだ。
水は澄んでいる。
だが、城へ届く量は減っている。
どこかで流れが変わった。
誰が。
何のために。
そして、そのために水を失っている者がいるのではないか。
「俺が見に行く」
「殿自ら?」
「水を見ずに、水のことは決められない」
おそらく、これまでの石田三成なら、庄屋を呼びつけて帳面を出させただろう。
数字を確かめ、責任を問い、命令を下す。
それは間違いではない。
だが、湊一は旅館の現場で知っている。
報告書に「異常なし」と書かれていても、浴場へ行けば湯がぬるいことがある。
帳簿では足りていても、厨房へ行けば食材が足りないことがある。
人は、叱られると思えば、都合の悪いことを隠す。
ならば、自分の目で見るしかない。
釜の蓋が持ち上がり、白い湯気が立った。
その向こうに、小さな白い影が見えた。
白那だった。
腕を組み、相変わらず不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
「少しは頭が動いたようじゃな」
「また出てきたのか」
「妾は水守ぞ。水と湯のあるところに、妾の目は届く」
「便利だな」
「敬え」
「その割には、ほとんど教えてくれない」
「すべて教えれば、そなたの頭はますます腐るであろう」
「言い方がひどいな」
白那は、ふん、と顔を背けた。
その視線が、釜のそばに置かれた小さな皿へ向く。
皿には、朝餉用らしい団子が二つ載っていた。
「欲しいのか」
「要らぬ」
「そうか」
「要らぬとは申したが、供物を下げてよいとは申しておらぬ」
湊一は思わず笑った。
「まだ供えてもいない」
「妾が見た時点で供物じゃ」
「無茶苦茶だな」
「水守の決まりに口を挟むでない」
白那は尊大に言い放つと、湯気の中から小さな手を伸ばした。
団子を一つ掴み、口へ入れる。
赤い目が、ほんの少しだけ細くなった。
「うまいか」
「毒はないようじゃ」
「もう一つも毒見するのか」
「やむを得ぬ。佐和山の水を守るためじゃ」
白那の手が二つ目へ伸びる。
その直前、台所働きの女が皿を持ち上げた。
白那の手は空を掴んだ。
「……何をする」
もちろん、女には白那が見えていない。
「こちらは殿の御膳へ」
白那の頬が膨らむ。
湊一は笑いをこらえながら、皿を受け取った。
団子を一つ摘まみ、湯気の中へ差し出す。
「水路を教えた礼だ」
「礼ではない。供物じゃ」
「はいはい」
「はいは一度でよい、愚か者」
白那は団子を奪い取った。
満足そうに頬張ると、その姿が湯気へ溶けていく。
「城の下を、よく見よ」
先ほどまでの食い意地の張った声とは違う。
静かな声だった。
「濁りは、すでに始まっておる」
ちりん。
鈴の音を残し、白那は消えた。
湊一は、しばらく湯気を見つめていた。
水が減っただけではない。
何かが始まっている。
人の欲か。
誰かの企みか。
それとも、もっと別のものか。
「明朝、麓へ下りる」
湊一は振り返った。
「水路と井戸を、この目で確かめる」
佐和山の水は冷たい。
けれど、その冷たさを知ったからこそ、温かい湯の意味が分かる。
喉を潤す水。
飯を炊く水。
傷を洗う水。
疲れた者を迎える湯。
まず、水から始めよう。
勝つためではない。
ここへ生きて帰ってきた者が、もう一度立ち上がれるように。
釜の中で、湯が静かに沸いていた。
お読みいただきありがとうございます。
第二湯は、佐和山の水と飯、そして人の流れを整える回でした。
湊一の現代人感覚が、少しずつ佐和山を変えていきます。
次回、第三湯。
城下で起こる「濁り井戸」の騒ぎ。
その井戸のそばで、湊一はひとりの少女と出会います。
彼女の登場が、佐和山の水と湊一の運命を大きく動かしていくことに――。
次回もよろしくお願いいたします。




