第一湯 湯は沸いている。客は来ない。
はじめまして。
本作は、現代の湯宿の若旦那・白瀬湊一が、戦国の世で石田三成として目を覚ます物語です。
史実を下敷きにしつつ、湯宿、水、もてなし、そして「帰る場所」を軸にした創作としてお楽しみください。
それでは、第一湯。
湯は、すでに沸いております。
第一湯を改稿しました。
物語の核となる「帰る場所を守る」というテーマと、白那との出会いをより明確にしています。
以降の展開に変更はありませんので、未再読でもそのままお楽しみいただけます。
第一湯 湯は沸いている。客は来ない。
湯は、今夜も沸いていた。
岩造りの浴槽へ、澄んだ湯が絶え間なく注いでいる。
湯口から立ち上った白い湯気は、天井近くでゆっくりとほどけ、誰もいない大浴場を満たしていた。
湯加減は悪くない。
湯量も、いつもどおり。
洗い場の桶は、すべて同じ向きに揃っている。
脱衣籠にも、髪の毛一本残っていない。
客を迎える支度は、できていた。
ただし――。
今夜、泊まる客は一人もいない。
◇
「若旦那」
厨房から呼ばれ、白瀬湊一は振り返った。
白峰の調理長が、包丁を置いてこちらを見ている。
年季の入った白衣の袖を肘までまくり、太い腕を組んでいた。
作業台の上には、明日の朝食に使う予定の野菜と、下ごしらえを終えた魚が並んでいる。
「明日の仕込みですがな」
「はい」
「減らしますぞ」
調理長は、予約表を指先で叩いた。
「宿泊予約はゼロ。当日客が来るにしても、用意しすぎれば、また食材を余らせることになります」
「量は減らしてください」
「ならば――」
「ただし、品数は減らさないでください」
調理長の眉間に、深い皺が寄った。
「若旦那」
「はい」
「量を減らせ。品数は減らすな。味も落とすな。そういうのを、世間では無茶と言うんです」
「無茶なのは分かっています」
「その無茶をする相手が来んでしょうが」
「今日は来ませんでした。でも、明日も来ないと決まったわけではありません」
「予約はない」
「予約なしで訪れる方もいます。道に迷った方や、急に泊まる場所が必要になった方が来られるかもしれません」
「その一人のために、何人分も仕込むんですか」
「一人分を、きちんと出せる仕込みにしてください」
調理長の目が細くなった。
「煮物を一品減らして、そのぶん主菜を厚くすれば十分でしょう」
「十分かどうかは、こちらが決めることではありません」
「では、誰が決めるんです」
「食べるお客様です」
「そのお客様が、来ておらんでしょうが」
湊一は黙った。
食材の値段は上がっている。
予約は減っている。
余った料理を、すべて賄いに回せるわけでもない。
食材を捨てることになれば、料理人が一番つらい。
調理長の言っていることが正しいのは、湊一にも分かっていた。
「調理長の言うことは正しいです」
「ならば」
「それでも、客が来てから、何もありませんでは宿になりません」
厨房に沈黙が落ちた。
換気扇の音だけが、低く回っている。
やがて調理長が、大きく息を吐いた。
「まったく……」
太い指で眉間を揉む。
「先代も堅い人だったが、若旦那は輪をかけて堅い」
「褒め言葉として受け取ります」
「そこです」
「何がですか」
「そういうところが、堅いと言っておるんです」
湊一は返す言葉を失った。
調理長は呆れたように首を振り、作業台へ戻った。
「野菜の切り方を変えます」
「切り方?」
「端材を出さぬようにする。煮物の量は少し減らすが、器を変えて貧相に見えぬようにする。魚は客が来てから火を入れる」
「ありがとうございます」
「礼を言うくらいなら、もう少し人の話を柔らかく聞きなされ」
「聞いています」
「聞くだけなら、壁でもできます」
包丁が、まな板を叩き始めた。
とん、とん、とん。
その音は少し乱暴だったが、調理長の手元に迷いはない。
文句を言いながらも、明日来るかもしれない誰かのために、仕込みを続けてくれている。
「調理長」
「今度は何です」
「無理を言って、すみません」
包丁の音が止まった。
調理長は振り返らない。
「分かっているなら、最初にそう言いなされ」
「はい。次から気をつけます」
「その言葉、忘れんでくださいよ」
再び、包丁の音が響き始めた。
湊一は一礼して、厨房を出た。
◇
白瀬湊一、二十五歳。
山あいに建つ温泉宿、白峰の若旦那である。
かつては、週末ごとに団体客が訪れ、宴会場から笑い声が絶えなかったという。
湊一が幼い頃にも、浴衣姿の客が廊下を行き交い、玄関には色とりどりの靴が並んでいた。
今は違う。
駅から遠い。
建物は古い。
近くに、誰もが知る観光地があるわけでもない。
客室は空きが目立ち、平日には宿泊客が一人もいない日さえある。
それでも、源泉から引いた湯は変わらず宿へ届く。
客が来ても。
客が来なくても。
水は湯となり、白い湯気を立て続けている。
帳場へ戻った湊一は、予約帳を開いた。
今日の欄は白い。
明日も白い。
明後日には一組だけ名前があるが、まだ仮予約の印がついている。
電話は鳴らない。
玄関の自動扉も開かない。
「湯は沸いている。客は来ない、か」
呟いてみると、白峰の現状があまりに簡単にまとまってしまった。
笑う気にはなれなかった。
帳簿の数字は、客がいない日にも容赦なく増えていく。
無駄を減らさなければ、この宿は残せない。
だが、何を無駄と呼ぶのか。
来るかどうかも分からない客のために、料理を仕込むことか。
誰も入らない浴槽を磨くことか。
玄関に花を飾り、誰かが山道を上ってくるのを待つことか。
「来なかったら、無駄なのか」
答える者はいない。
帳場の柱時計が、午後九時半を告げた。
湊一は予約帳を閉じた。
◇
館内の照明を、一つずつ落としていく。
食事処。
宴会場。
客室へ続く廊下。
明かりを消すたびに、宿が少しずつ眠りへ沈んでいく。
最後に大浴場へ向かった。
湯気の向こうで、湯は静かに揺れている。
誰も見ていないのに、湊一は少しずれていた椅子を直した。
桶の向きも揃え直す。
誰も見ていなくても、曲がったものは直しておきたい。
客を迎えると決めたなら、最後まで迎える支度をしておきたい。
正しいことを言っているつもりで、人を黙らせてしまう。
間違いを認めたくないのではない。
曖昧なまま笑って済ませるのが、苦手なのだ。
調理長の言葉がよみがえる。
『聞くだけなら、壁でもできます』
「……壁よりは、ましだと思いたいけどな」
湯気に向かって呟いた。
そのときだった。
ちりん。
小さな鈴の音がした。
湊一は顔を上げた。
館内には、もう誰もいない。
ちりん。
もう一度、鳴る。
音は大浴場の外――宿の裏手から聞こえた。
「白峰さんの鈴か?」
宿の裏山には、小さな祠がある。
誰が祀ったのか。
いつからそこにあるのか。
詳しいことは分からない。
宿の者は昔から、その祠を「白峰さん」と呼んでいた。
祠のそばには、使われなくなった古井戸がある。
温泉とは別の水脈につながっているとも、宿が建つ前からあったとも聞く。
ただ、湊一が物心ついた頃には、誰も使わなくなっていた。
ちりん。
三度目の音が響く。
呼ばれている。
なぜか、そう思った。
「見回るだけだ」
湊一は懐中電灯を手に取り、裏口を開けた。
◇
昼間に降った雨の匂いが残っていた。
木々の葉から雫が落ち、石段をぽつ、ぽつと叩いている。
湊一は懐中電灯で足元を照らしながら、細い山道を上った。
ほどなくして、光の中に小さな祠が浮かび上がる。
苔のついた石。
古びた屋根。
色あせた注連縄。
その下に、小さな鈴が結ばれていた。
「こんな鈴、あったか?」
湊一は祠へ近づいた。
風はない。
木々も揺れていない。
それでも鈴は、かすかに震えている。
ちりん。
その音に応えるように、背後で水音がした。
ちゃぷん。
湊一は振り返った。
古井戸から聞こえた。
「何か落ちたのか?」
石組みに片手を置き、井戸をのぞき込む。
普段なら、底に溜まった雨水が見えるだけだ。
ところが今夜の井戸は、懐中電灯の光さえ吸い込むほど深く、暗い。
はるか下に、水面が見えた。
鏡のように静かな水に、湊一の顔が映っている。
疲れた顔だった。
目の下には薄い隈があり、整えたはずの髪も少し乱れている。
「これが、若旦那の顔か」
苦笑した、その瞬間。
水面に映っていた湊一の顔が消えた。
代わりに――。
白い髪の少女が映っていた。
「……え?」
湊一は顔を上げた。
周囲には、誰もいない。
もう一度、井戸を見る。
少女はまだ、水の中にいた。
雪のように白い長髪。
水を織り上げたような白い衣。
年頃は十代半ばほどに見える。
けれど、その瞳には、人の一生など幾度も見送ってきたような古さが宿っていた。
少女は、ひどく不機嫌そうに湊一を見上げている。
『遅いぞ』
声が、頭の奥へ直接響いた。
「誰だ」
『妾を待たせるとは、相変わらず愚かな男よ』
「相変わらず?」
湊一に、少女と会った記憶はない。
だが少女は、初めて会う者を見る目をしていなかった。
怒っている。
呆れている。
それなのに、ほんのわずかに安堵しているようにも見えた。
『湯は沸いておるか』
「湯?」
『問うておる。そなたの湯は、沸いておるのか』
「沸いている」
意味は分からない。
それでも湊一は答えた。
「客はいないけど、湯はある。料理の仕込みもしてある」
少女の白い眉が、わずかに動く。
『誰も来ぬのにか』
「来ないと決まったわけじゃない」
『来なんだら、すべて無駄ではないか』
その言葉に、湊一は口を閉ざした。
先ほどから、自分の胸の中にあった問いだった。
「無駄かどうかは、来た人が決めればいい」
『来ぬ者には、決められまい』
「それでも、来たときに何もなかったら、帰るしかない」
少女は水面の向こうで、ゆっくりと首を横に振った。
『違う』
「何がだ」
『来るのではない』
祠の鈴が、かすかに揺れた。
『帰ってくるのじゃ』
「帰ってくる?」
『湯を沸かし、飯を整えて待つのであろう。その者が、帰ってきたときのために』
「誰が帰ってくるんだ」
『それを忘れたのも、そなたであろう』
「俺たちは初対面だ」
『初対面ではない』
少女は、きっぱりと言った。
『忘れたのは、そなたじゃ』
「だったら、どこで会った」
『知りたくば思い出せ』
「無茶を言うな」
『その程度の無茶もできぬ者が、帰る場所を守れるものか』
「俺はただ、宿を――」
『そなたは昔から、正しさを盾にする』
胸を突かれた。
調理長にも、似たようなことを言われたばかりだった。
『正しさで腹は膨れぬ。正しさで冷えた身体は温まらぬ』
「だから、湯と飯を用意している」
『その者が何を求めておるかも聞かずにか』
返す言葉がなかった。
少女は、かすかに鼻を鳴らした。
『やはり愚か者よ』
「初対面の相手に、そこまで言われる筋合いはない」
『じゃから、初対面ではないと申しておろう』
「なら、名前くらい教えろ」
『知りたくば思い出せ』
「そればっかりだな」
少女の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、その表情はすぐに消えた。
代わりに浮かんだのは、長い時を待ち続けた者の寂しさだった。
『今度こそ――』
水面が大きく揺れる。
『帰る場所を、失わせるでないぞ』
ちりん。
祠の鈴が鳴った。
同時に、湊一の足元から低い音がした。
濡れた土が崩れる。
「なっ――!」
身体が前へ傾いた。
井戸の石組みに掛けた手が滑る。
冷たい闇が、口を開けた。
「嘘だろ!」
湊一の身体は、古井戸の中へ投げ出された。
◇
落ちている。
どこまでも。
水に沈んだはずなのに、底へ着かない。
息ができない。
上下も分からない暗闇の中を、いくつもの音が通り過ぎていく。
馬のいななき。
甲冑がぶつかる音。
地を揺らす鬨の声。
燃え上がる城。
泣き叫ぶ子供。
水を求める声。
誰かの名を呼び続ける声。
見たことのない光景が、濁流のように頭へ流れ込んでくる。
土煙の中に、白い旗が見えた。
大一大万大吉。
四つの文字が風にはためいている。
旗の下を、鎧姿の男たちが駆けていく。
一人の武将が振り返った。
鋭い眼。
傷のある顔。
湯気を前に笑う、白い頭巾の男。
小さな手に握られた鈴。
燃え上がる山城。
それらは、まだ見たことのない景色だった。
それなのに、湊一の胸が痛んだ。
『若旦那』
白い少女の声が響いた。
「どこにいる」
『妾は、ずっとここにおる』
「俺に、何をさせる気だ」
『妾がさせるのではない』
暗闇の中で、白い指が湊一を指さした。
『そなたが、やり残したのであろう』
湊一は、その手へ向かって腕を伸ばした。
指先に触れたのは、少女の手ではなかった。
小さな鈴だった。
ちりん。
◇
「――殿!」
誰かが叫んでいる。
「治部少輔様!」
湊一は目を開けた。
見知らぬ天井だった。
太い梁。
煤けた板。
鼻を突く薬草の匂い。
枕元には、髷を結った男たちが並び、青ざめた顔でこちらを見ている。
「お気づきになられましたか!」
「すぐに医師を呼べ!」
「左近様にもお知らせせよ!」
湊一は身体を起こそうとした。
その瞬間、激しい違和感に息を詰まらせる。
身体が重い。
肩が広い。
腕が太い。
掌には、刀を握り続けた者の硬い皮ができている。
自分の身体ではない。
「治部……少輔?」
聞いたことのある官職だった。
歴史の授業で。
時代劇で。
関ヶ原を扱った本の中で。
湊一は震える手で、自分の顔に触れた。
頬の形も。
顎の感触も。
自分のものではない。
「殿、まだお動きになってはなりませぬ!」
近習らしき男が、湊一の肩を支えた。
その手を振り払おうとして、脇に置かれた水差しへ腕が当たる。
器が倒れた。
冷たい水が畳へ広がっていく。
湊一は、その水面を見た。
知らない男の顔が映っている。
四十を過ぎた頃だろうか。
細い目。
引き締まった口元。
ひどく生真面目で、融通の利かなそうな顔。
けれど、見覚えがあった。
記憶にはない。
それなのに、身体の奥深くにある何かが、その名を知っていた。
「石田……三成」
自分の口から漏れた名に、部屋の男たちが息を呑む。
「殿……?」
障子の向こうに、山城が見えた。
朝霧が城を包み、白い湯気のように谷間を流れている。
湊一は水面に映る男と、霧の向こうの城を交互に見た。
頭の中に、知らない記憶が次々と浮かび上がる。
佐和山。
治部少輔。
島左近。
徳川家康。
そして――。
まだ起きていない、大きな戦。
湯宿「白峰」の若旦那、白瀬湊一は――
関ヶ原を前にした佐和山で、石田三成として目を覚ました。
遠い水の向こうで、もう一度だけ鈴が鳴った。
ちりん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第一湯では、湊一がまだ「自分に何が起きたのか」を掴みきれないまま、佐和山の空気に触れるところまでを描きました。
歴史の大きな流れの中で、彼が何を変え、何を守ろうとするのか。
次の湯も、ゆっくり浸かるようにお付き合いいただければ幸いです。
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