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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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挿話 四湯 吉継、白湯に笑う

本話は、第二十一湯「大谷吉継、湯気を見る」直後の挿話です。

公開順が前後しましたが、そのままお楽しみいただけます。


病に苦しむ吉継へ運ばれたのは、薬でも酒でもなく、ただの白湯。

不器用な友のもてなしと、小さき湯番、そして団子を諦めきれない水守のひとときをお楽しみください。

挿話 四湯 吉継、白湯に笑う


 大谷吉継が笑ったのは、その夜、二度目に運ばれてきた白湯を見たときだった。


     ◇


 夜の佐和山城は静かだった。


 昼間、廊下を忙しく行き交っていた足音も消え、遠くで警固の者が鳴らす拍子木だけが聞こえている。


 吉継は客間の褥に身を横たえていた。


 だが、眠れない。


 身体の奥に熱が籠もり、肌が細い針で刺されるように痛む。


 長い旅の疲れもあった。


 吉継はゆっくりと上体を起こし、枕元の椀へ手を伸ばした。


 白湯は、すでに冷めていた。


「仕方あるまい」


 呟いた、そのときだった。


 ちりん。


 廊下の向こうで、小さな鈴が鳴った。


「刑部さま。起きておられますか」


 幼い声である。


「起きている。入りなさい」


 襖が、指一本分だけ開いた。


 そこから小さな顔が覗く。


 三成の娘――小さき湯番だった。


 両手には、湯気の立つ椀を載せた盆を抱えている。


 その後ろから、白い髪がひょいと覗いた。


「白那さま、押してはなりませぬ」


「妾は押しておらぬ。そなたの歩みが亀より遅いだけじゃ」


「亀さんは、ゆっくりでも転びませぬ」


「口だけは達者になりおって」


 二人は小声で言い争いながら、客間へ入ってきた。


 娘は慎重な足取りで吉継の前まで進み、盆を置く。


「父上が、刑部さまの白湯が冷めておらぬか見てくるように、と」


「三成が?」


「はい。冷めていたら、こちらと替えるように申されました」


 吉継は新しい椀を見る。


 白い湯気が、細く立ち昇っている。


「先ほども、白湯を頂いたはずだが」


「父上は、冷めた白湯では身体が休まらぬ、と」


「ほう」


「それから、熱すぎても喉によくないので、少し冷ましてからお出しせよ、と」


「細かいな」


「父上は、細かいです」


 娘が、きっぱりと答えた。


 吉継の口元が僅かに緩む。


 その横で白那が腕を組み、ふん、と鼻を鳴らした。


「当然じゃ。水というものは、冷たければよい、熱ければよいというものではない。飲む者の身に合わせねば、ただの責め苦よ」


「白那さまが、湯加減を見てくださったのです」


「妾は水守ぞ。この程度、務めのうちじゃ」


 白那はそう言いながら、椀へ身を乗り出した。


 湯気を二度ほど嗅ぎ、満足げに頷く。


「毒はない」


「白湯に毒など入れぬだろう」


「愚か者。毒というものは、薬や刃ばかりではない。冷えた水も、弱った身体には毒となる」


 そう言われると、吉継も反論できなかった。


「では、有り難く頂こう」


 椀を手に取る。


 指先へ、柔らかな温かさが伝わった。


 熱すぎず、ぬるすぎない。


 ほんの一口、喉へ流し込む。


 白湯には味などない。


 茶の香りもなければ、酒の甘さもない。


 けれど、乾いていた喉がほどけていく。


 身体の奥に籠もっていた熱が、少しだけ静まったように感じられた。


「うまい」


 吉継が言うと、娘の顔が明るくなった。


「白湯が、でございますか?」


「ああ」


「何も入っておりませぬよ」


「何も入っていないから、うまいのだ」


 娘は不思議そうに首を傾げた。


 白那も同じように首を傾ける。


「人とは妙なことを申すものよ」


「白那さまも、お飲みになりますか」


「要らぬ。妾は水守じゃ。白湯など、いつでも口にできる」


 白那は即座に答えた。


 娘は頷き、盆に載せていた小さな椀を下げようとする。


「待て」


 白那の手が、その椀を押さえた。


「要らぬとは申したが、下げてよいとは申しておらぬ」


「では、どうぞ」


「仕方ない。刑部とやらに出す水が正しく沸かされておるか、妾が最後まで確かめてやる」


 白那は椀を両手で持ち、ちびりと白湯を飲んだ。


 途端に、眉間へ皺を寄せる。


「味がせぬ」


「白湯ですから」


「つまらぬ飲み物じゃ」


「白那さまが飲むと申されたのです」


「妾は確かめただけじゃ。次は団子を添えよ。白湯だけでは水守の務めに釣り合わぬ」


「夜に団子を召し上がると、また母上に叱られますよ」


「妾は神ぞ。夜も朝も関係ない」


「白那さまは、昨日もそう申して、母上に叱られておりました」


「……余計なことを覚えるでない」


 吉継は、とうとう声を立てて笑った。


 笑うと胸が痛む。


 けれど、笑いは止まらなかった。


「刑部さま?」


 娘が目を丸くする。


「いや、すまぬ。白湯を飲んで、これほど笑ったのは初めてだ」


「妾を笑うたのではあるまいな」


「違う。白湯に笑ったのだ」


「ますます意味が分からぬわ」


 白那が頬を膨らませたとき、廊下で足音が止まった。


「まだ起きていたのか」


 三成が襖を開けた。


 手には数枚の書付を持っている。


「父上」


「白湯は替えたか」


「はい。刑部さまが、うまいと申されました」


「そうか」


 三成はそれだけ言うと、吉継の顔色を確かめた。


 以前の三成なら、病人の顔をこれほど長く見つめることはなかった。


 具合を尋ねるとしても、返事を聞き終える前に必要な薬や医師の手配を始めていただろう。


 それは冷たさではない。


 三成なりの誠実さだった。


 感情よりも先に、するべきことを選ぶ男だった。


 だが、今の三成は違う。


「痛むのか」


 短い問いだった。


「いつものことだ」


「いつもの痛みなら、耐えてよいという理屈にはならぬ」


「治部」


「何だ」


「お前は、いつからそのようなことを言うようになった」


 三成の眉が寄った。


「おかしなことを言ったか」


「昔のお前なら、痛むと言えば医師を呼び、薬を用意し、明日の予定を削った。それで終わりだ」


「それでは足りぬのか」


「足りていた。私にはな」


 吉継は椀を持ち上げた。


「だが今のお前は、白湯が冷めていないかまで気にする」


「冷めた白湯を出すのは、もてなしとは言えぬ」


「そこだ」


 吉継は再び笑った。


「笑うほどのことか」


「ああ。大いに笑える」


 三成は不満そうな顔をした。


 娘は父と吉継を交互に見ている。


 白那は三成の膝元へ寄り、衣の裾を指で引いた。


「愚か者。笑われておるぞ」


「分かっている」


「ならば、何か言い返さぬか」


「白湯が冷める前に飲め、としか言えぬ」


「やはり、そなたは面白みに欠けるのう」


 白那が呆れたように息を吐く。


 吉継は椀の白湯を、もう一口飲んだ。


「三成」


「何だ」


「お前は、何を恐れている」


 部屋の空気が変わった。


 三成の視線が、僅かに伏せられる。


 廊下の外で、風が木々を揺らした。


 どこか遠くから、水の流れる音が聞こえる。


「帰れぬ者が増えることだ」


 三成は答えた。


「戦で死ぬ者だけではない。家を焼かれた者、田を失った者、偽りの文に惑わされる者。帰る場所を奪われた者は、生きていても帰れぬ」


 吉継は黙って聞いた。


「勝てるかどうかは分からぬ」


 三成は続ける。


「だが、勝てぬなら何も残らぬという世にはしたくない。飯を食える場所を、水を飲める場所を、傷を負った者が休める場所を残す。それだけは、戦の前でもできる」


「では、お前自身が帰れなくなったときはどうする」


 三成は答えなかった。


 娘が不安そうに父を見上げる。


 白那の瞳が、細くなる。


「まったく、揃いも揃って愚か者じゃ」


 白那は、二人の間へ進み出た。


「帰れぬときの話ばかりして、何故、生きて帰ると申さぬ」


「白那」


「黙れ、三成」


 白那は小さな身体で胸を張った。


「人の帰る場所を守るというなら、まず、そなたらが帰ってこい。守る者が勝手に消えて、残された者へ帰れなどと申すのは、ただの身勝手じゃ」


 三成は言葉を失った。


 吉継もまた、すぐには返せなかった。


 白那は鼻を鳴らし、自分の椀を掲げる。


「ゆえに誓え。戦だの政だのは妾には分からぬが、次もこうして白湯を飲むとな」


「白湯で誓いを立てるのか」


 吉継が尋ねる。


「酒よりましじゃ。酔うた者の約束ほど当てにならぬものはない」


「それは道理だ」


「刑部まで妾を笑うでない」


 吉継は三成を見た。


 三成もまた、吉継を見る。


 昔、二人の間にあったのは、言葉にせずとも通じる信頼だった。


 今、その間には白い湯気がある。


 娘がいて、白那がいる。


 守るべき家と、帰るべき場所がある。


 吉継は椀を差し出した。


「では、三成」


「何だ」


「次も白湯を飲もう」


 三成は少し迷ったあと、娘が持っていたもう一つの椀を受け取った。


「ああ」


 二つの椀が、かすかに触れた。


 澄んだ音がする。


 ちりん。


 娘の鈴も、それに応えるように鳴った。


「妾の椀を忘れるでない!」


 白那が慌てて自分の椀を突き出す。


 三成は困った顔をしながら、その小さな椀にも自分の椀を触れさせた。


「白那さま、先ほど白湯はつまらぬと」


「誓いと味は別の話じゃ」


「団子は?」


「それも別じゃ」


 吉継は、また笑った。


 白湯に味はない。


 けれど、その夜に飲んだ白湯の温かさを、吉継はいつまでも忘れなかった。


 笑ったのは、白湯がおかしかったからではない。


 不器用な友が、人の喉を潤す湯加減を覚えたことが、たまらなく嬉しかったからだ。


 そして吉継は思う。


 この男が帰る場所を守ろうとするなら。


 その道が、たとえ嵐の中へ続いていたとしても。


 せめて一人では、歩かせまい。


 白い湯気の向こうで、三成が椀を口へ運ぶ。


 吉継は静かに目を細めた。


 今度の笑みは、誰にも気づかれなかった。


 ――関ヶ原まで、あと五十七日。

白湯には、茶の香りも酒の甘さもありません。

それでも、相手を思って整えた湯加減には、言葉以上に伝わるものがあるのかもしれません。

三成の変化を誰よりも知る吉継だからこそ、その一椀に笑いました。


次回、第二十二湯「影は、文を運ぶ」。

白い湯気の向こうで交わされた約束とは反対に、佐和山の外では、偽りの文が人々の心を濁らせ始めます。

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