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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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第二十三湯 届かぬ声、濁る水

届かぬ文。

濁らされた井戸。

そして、本人の知らぬところで書き換えられていく命令。

今回は、やがて起こる大きな悲劇へつながる、小さな濁りの始まりです。

第二十三湯 届かぬ声、濁る水


 文が届かぬのなら、俺が届くしかない。


 佐和山を出たのは、まだ空が白み始める前だった。


 供は左近と数名だけ。


 大勢を連れていけば、村人を余計に怯えさせる。


 城主が自ら出向くことに、家臣たちはそろって反対した。


 だが、俺の名で出した文が消え、代わりに偽りの噂が広がっている。


 座敷で次の文を書いているだけでは、同じことが繰り返されるだけだ。


「まったく、愚か者は足ばかり使いたがる」


 馬上の俺の前で、白那が不機嫌そうに呟いた。


 今日は俺と同じ馬に乗っている。


 正確には、乗せられている。


 昨夜、井戸の水を探った反動が残っているらしく、その姿は幼いままだった。


 白い髪を朝風に揺らしながら、両手で団子の包みを抱えている。


「文が届かないんだから仕方ないだろ」


「ゆえに、そなた自身を文の代わりにするか」


「顔を見せれば、少しは話を聞いてもらえるかもしれない」


「顔を見せただけで人の疑いが晴れるなら、世に戦など起きぬ」


 もっともな話だった。


 それでも、行かないという選択はなかった。


 出立する前、小さき湯番が一枚の紙を俺に渡してくれた。


 まだ不揃いな文字で、こう書かれていた。


 ――いどは しにませぬ。


 井戸は死なない。


 白那から聞いた言葉を、自分なりに書いたものらしい。


 俺はその紙を、懐に入れていた。


     ◇


 村へ近づくにつれ、人の姿が消えていった。


 畑には誰もいない。


 道端で遊んでいた子どもたちは、俺たちを見るなり家の中へ駆け込んだ。


 戸が閉まり、板壁の隙間から幾つもの目だけがこちらを窺っている。


「歓迎されてはおりませぬな」


 左近が静かに言った。


「ああ。分かりやすいくらいに」


 村の入口には、壊れた桶が転がっていた。


 底には、乾いた黒い泥がこびりついている。


 さらに進むと、井戸の前に十数人の男たちが集まっていた。


 手には鍬や鎌。


 武器ではない。


 だが、握り方は武器のそれだった。


「止まれ」


 年嵩の男が声を上げた。


 おそらく、この村の庄屋だろう。


「これより先へ、馬を入れられては困りまする」


 左近の後ろで、供の者が身構えた。


 俺は手を上げ、制した。


「ここで降りる」


「殿」


「馬に乗ったままじゃ、話しづらい」


 馬を降りると、白那も俺の腕を伝って地面へ降りた。


 庄屋は俺の顔を見ても、頭を下げなかった。


 ほかの村人たちも同じだった。


 怒っている。


 いや。


 怒らなければ、恐怖に押し潰されるのだ。


「石田治部少輔だ」


「存じております」


 庄屋の声は固かった。


「城主様が、何用でございましょう」


「井戸の水が濁ったと聞いた」


「ご覧のとおりにございます」


 井戸の傍らに置かれた桶を覗く。


 水は黒く濁っていた。


 泥水とは違う。


 墨を薄く溶いたような黒さが、底から滲んでいる。


 鼻を近づけると、湿った鉄のような臭いがした。


「この水を飲んだ者は?」


「腹を下した者が三人。子どもが一人、熱を出しております」


「医師は送った」


「来ておりませぬ」


 その一言が、胸へ刺さった。


「薬と米も送ったはずだ」


「届いておりませぬ」


「井戸を閉じるなという文は」


「そのような文も、見ておりませぬ」


 届いていない。


 予想していた答えだった。


 それでも、実際に聞くと重かった。


 佐和山から出した文も、薬も、米も。


 村へ入る前に、すべて消えている。


 代わりに届いたものは、偽りの噂だけだ。


「城が米を取り上げるという話は、誰から聞いた」


 俺が尋ねると、庄屋の顔が険しくなった。


「城下より来た役人にございます」


「名は?」


「名乗りませなんだ。されど、治部少輔様の御命令であると」


「どんな姿だった」


「笠を深く被っておりました。供を二人連れ、腰には立派な刀を」


「文は持っていたか」


「印の押されたものを見せられました」


 印まで用意している。


 ただの流言ではない。


 誰かが意図して、俺の言葉を作っている。


「何と書かれていた」


「戦支度のため、村の米を城へ集める。従わぬ村の井戸は閉じる、と」


 背後で、供の者たちが息を呑んだ。


 そんな命令は出していない。


 だが、俺が否定したところで、村人たちには確かめようがない。


 城から来た男が文を示した。


 その後、本当に井戸が濁った。


 ならば、城がやったと思うのは当然だ。


「わしらが米を隠したから、井戸に毒を入れたのでございましょう」


 庄屋の隣にいた若い男が吐き捨てた。


「違う」


「何が違う!」


 男が鍬を持ち上げた。


 左近の手が刀の柄へ動く。


「左近」


 俺が呼ぶと、その手が止まった。


 若い男の顔は青ざめていた。


 怒りより、恐怖のほうが大きい。


「城の者がやったのではないと、どうして言い切れる!」


 答えようとして、言葉が詰まった。


 城の者すべてを、俺が見張っているわけではない。


 俺の命令ではない。


 だが、俺の名を使って動いた者がいる。


 その責任まで、知らぬとは言えない。


「言い切れない」


 俺は答えた。


 村人たちがざわめいた。


「俺は井戸を濁らせろとは命じていない。米を奪えとも命じていない。だが、俺の名を使った者を止められなかった」


 庄屋が目を細める。


「ゆえに、知らぬ顔をするつもりもない」


「では、何をなさる」


「まず、水を調べる」


「調べて、井戸を埋めるおつもりか」


「埋めない」


 俺は羽織を脱ぎ、左近へ渡した。


 そして井戸の縁へ歩み寄る。


「この井戸は、閉めない」


「殿、何を」


 左近が止めるより先に、俺は桶を掴んだ。


 黒く濁った水を汲み上げる。


「まさか、飲まれるおつもりで」


「城が毒を入れたと思われてるんだ。俺が口もつけずに安全だと言って、誰が信じる」


 柄杓を取ろうとすると、小さな手が俺の袖を掴んだ。


「待て、愚か者」


 白那だった。


「無闇に飲むでない」


「でも」


「人の覚悟と無謀は、似ておるようで違う」


 白那は井戸の縁へ立つと、赤い瞳で水面を覗き込んだ。


 風が止まった。


 井戸の奥から、かすかな水音が聞こえる。


 澄んだ鈴のような音。


 しかし、その音に混じり、ざらざらと何かが擦れるような響きがあった。


「水そのものは死んでおらぬ」


 白那が呟く。


「上から、異物を流し込まれておる」


「井戸の中に?」


「違う。水の来る道じゃ」


 白那は村の奥へ顔を向けた。


「井戸へ入る前に、水脈が汚されておる」


     ◇


 村人の案内で、井戸の裏手へ回った。


 雑木林の中に、小さな水路がある。


 山から染み出した水が石の隙間を通り、井戸の底へ流れ込んでいるらしい。


 白那は水音を頼りに、迷いなく斜面を登っていった。


 幼い姿のくせに、こういうときだけ足取りが軽い。


「ここじゃ」


 白那が指した先には、石を積んだ狭い溝があった。


 その一部が、枯れ枝と土で不自然に塞がれている。


 左近と村の男たちが土を取り除く。


 すると、その下から油紙に包まれた布袋が出てきた。


 中には、錆びた鉄屑と黒く煮詰められた木の実が詰められていた。


 袋から染み出した汁が、水を墨のように変えている。


「毒ではない」


 白那は指先で黒い水を掬った。


「されど、長く飲めば腹を壊す。井戸を恐れさせるには十分じゃ」


「誰かが、わざと」


 庄屋が呆然と呟く。


「ああ」


 左近が周囲の地面を調べた。


「足跡がございます。少なくとも三人。村の者ではありますまい。草履の緒の結び方が違います」


「追えるか」


「雨が降る前ならば」


 左近の目が鋭くなる。


 だが俺は、首を振った。


「今は水が先だ」


「逃がすことになりますぞ」


「分かってる。けど、犯人を追っている間に村人が倒れたら、本末転倒だ」


 左近はしばらく俺を見ていた。


 やがて、わずかに頭を下げた。


「承知いたしました」


 袋を取り除き、塞がれていた水路を開く。


 最初は黒い水が流れた。


 やがて、それが薄まり始める。


 完全に澄むまでには時間がかかるだろう。


「今日は、この井戸を使わないでくれ」


 俺は庄屋へ言った。


「代わりの水を、城から運ばせる。今度は俺の家臣だけに任せない。村の者にも受け取りに来てもらう」


「我らが、城へ?」


「双方で数を確かめる。途中で消えたら、どこで消えたか分かるようにする」


 さらに俺は、供の者へ命じた。


「城へ戻ったら、医師と薬を送れ。米もだ。ただし、施しとは書くな」


「では、何と」


「城が届け損ねた分だ。詫びとして渡す」


 庄屋が顔を上げた。


「米は、取り上げぬので?」


「取り上げない」


「されど、戦が始まれば」


「必要な分を買うことはある。だが、勝手には奪わない。誰かが俺の名で奪おうとしたら、そいつを捕らえてくれ」


 若い男が、半信半疑の顔で尋ねた。


「城の役人でも?」


「俺の印を持っていてもだ」


「では、何を信じればよいのです」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 印は偽られる。


 文は消される。


 人の口から出た言葉は、伝わるうちに形を変える。


 何を信じればよいのか。


 俺自身にも、分からなくなりかけていた。


 そのとき、懐の紙を思い出した。


「これを」


 俺は折り畳んだ紙を庄屋へ渡した。


 そこには、不揃いな文字が並んでいる。


 ――いどは しにませぬ。


「娘が書いた」


「御息女様が?」


「小さき湯番だそうだ」


 白那が横から口を挟んだ。


「妾が任じた。まだ半人前にも届かぬがな」


 紙を覗き込んだ村の子どもが、小さな声で読んだ。


「いどは……しにませぬ」


 庄屋は、その文字をしばらく見つめていた。


 やがて、深く息を吐いた。


「立派な御文より、読めまする」


「字は下手だけどな」


「下手ではない!」


 なぜか白那が怒った。


「味があるのじゃ。そなたの虫が這うような字より、よほどましぞ」


「俺の字まで悪く言う必要ある?」


「事実を申したまでじゃ」


 村人たちの間から、かすかな笑いが漏れた。


 ほんの小さな笑いだった。


 それでも、この村へ来て初めて聞いた、恐れ以外の声だった。


     ◇


 佐和山へ戻る前、俺は庄屋の家を借りて、新しい文を書いた。


 米を無断で徴収してはならない。


 井戸や水路を塞いではならない。


 病人、老人、女子どもを、戦支度のために拘束してはならない。


 命令を伝える者は、必ず二人以上とする。


 印だけでなく、割符を添える。


 少しでも内容に疑いがあれば、従う前に佐和山へ問い返すこと。


 書き終えた文を見て、左近が言った。


「細かすぎる命令は、かえって動きを鈍らせますぞ」


「分かってる」


「戦場では、問い返す暇のないこともございます」


「ああ」


「それでも、なさいますか」


「人の命を奪う命令ほど、問い返せるようにしたい」


 俺は筆を置いた。


「特に、戦っていない人間を捕らえる命令は」


 左近の目がわずかに細くなった。


「女子どもを、敵へ寝返らぬための証とすることもございます」


「人質か」


「戦では、珍しきことではございませぬ」


「珍しくなくても、正しいとは限らない」


「甘うございますな」


「甘いよ」


 否定はしなかった。


「でも、俺の名で誰かの妻や子を捕らえるなら、せめて俺自身が、その命令を出した責任から逃げちゃいけない」


 左近は何も答えなかった。


 ただ、書き上げた文を静かに見つめていた。


「そなたは、まだ分かっておらぬ」


 白那が俺の隣で呟いた。


「何がだ」


「文を偽る者の狙いは、米や井戸だけではない」


 幼い手が、紙の端を押さえる。


「そなたの声を奪うことじゃ」


「俺の声を?」


「偽りを十度届ければ、真の言葉が一度届いても、誰も信じぬようになる」


 白那の赤い瞳が、黒い水を映していた。


「やがて、そなたが救えと命じても、殺せと受け取る者が現れる」


 背筋に冷たいものが走った。


「そんなことを、させるか」


「ならば覚えておけ」


 白那は言った。


「水は、濁り始めに正さねばならぬ。底まで黒く染まってからでは、澄ませるために多くのものを失う」


 村の井戸から、黒い水が流れ出ていた。


 新しい水が入り始めても、濁りはすぐには消えない。


 人の疑いも、同じなのだろう。


     ◇


 日が傾く頃、俺たちは村を発った。


 村人たちは、見送りには出てこなかった。


 それでいい。


 一度顔を見せたくらいで、すべてを信じてもらえるとは思っていない。


 ただ、村の入口を出る直前。


 後ろから、小さな声が聞こえた。


「お殿さま」


 振り返る。


 庄屋の家の陰から、先ほどの子どもが顔を覗かせていた。


 手には、小さき湯番の文を持っている。


「井戸は、本当に死なないのですか」


 俺が答えるより早く、白那が胸を張った。


「当然じゃ」


「でも、また黒くなったら」


「そのときは、また澄ませる」


「何度でも?」


「何度でもじゃ」


 白那は尊大に言い切った。


「水を守るは、妾の務めゆえな」


 子どもが、ようやく笑った。


 俺たちは再び馬を進めた。


 村から離れたところで、左近が一枚の紙を差し出してきた。


「水路の傍らで見つけました」


 泥に汚れた、短い文だった。


 半分ほど焼かれている。


 残っていたのは、わずかな文字だけ。


 ――城の命として。


 ――従わぬ者は。


 ――妻子を。


 その先は、焼け落ちていた。


「妻子……」


 井戸を濁らせた者たちは、米だけを狙っているのではない。


 俺の名で、人を縛る命令を作ろうとしている。


「殿」


 左近が低い声で言った。


「これは村一つを惑わすための仕掛けではございませぬ」


「ああ」


 もっと大きな場所で。


 もっと多くの人間を相手に。


 同じことをするための試しかもしれない。


 偽りの文を届ける。


 本物の声を消す。


 恐れた者たちに、命令の続きを勝手に想像させる。


 その先にあるものを考え、俺は手綱を握り直した。


 遠くで、水音がした。


 澄んだ音ではない。


 何かを訴えながら、それでも届かずに消えていくような音だった。


 文は届かず、水は濁る。


 そして、俺の知らないところで。


 俺の声をした何者かが、次の命令を書き始めていた。


関ヶ原まで、あと五十五日。

湊一は、届かぬ文に代わり、自ら村へ赴きました。

けれど、一度濁った水も、人の疑いも、すぐには澄みません。

さらに見つかったのは、

「妻子を――」と記された、焼け残りの文。

誰かが湊一の声を奪い、別の命令へ変えようとしています。


次湯、第二十四湯。

佐和山へ届いたのは、遠き会津からの書状。

その差出人は――直江兼続。


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