第二十一湯 大谷吉継、湯気を見る
今回の第二十一湯は、三成の心の友・大谷吉継のお話です。
清正や正則、左近とはまた違う、昔の三成を知る友だからこそ見えるものがあります。
過去の茶碗と、今の白湯。
その間にあるものを、吉継はどう受け止めるのか。
どうぞ、湯気の向こうまでお付き合いください。
第二十一湯 大谷吉継、湯気を見る
大谷吉継が佐和山へ入ったのは、朝の湯気が城下を包み始めた頃だった。
白い頭巾を深くかぶり、供回りはわずか。
物々しい行列もなければ、先触れも最低限だった。
門前に立つ姿は、名高い武将というより、古い友を訪ねてきた旅人のように見えた。
「大谷刑部殿、ご到着にございます」
知らせを受けた湊一は、思わず背筋を伸ばした。
(大谷吉継……)
石田三成の友。
ただの同僚でも、利害で結ばれた味方でもない。
歴史の中で、三成が最も深く心を許したとされる男。
そして、いずれ勝ち目の薄い戦へ、友のために赴く男。
その名を思うだけで、胸の奥に重たいものが沈んだ。
「久しいな、三成」
吉継は穏やかな声で言った。
「刑部殿。遠路、よくぞお越しくださいました」
「ずいぶん他人行儀になったものだ」
「そうでしょうか」
「そうだな」
吉継は湊一の顔を見た。
鋭く睨んでいるわけではない。
けれど、逃げ道のない目だった。
表情ではなく、その奥を見ている。
湊一は思わず視線を逸らしかけた。
「顔つきが変わったな」
その一言で、胸が跳ねた。
「……疲れているのでしょう」
「以前のお前なら、そのような逃げ方はせぬ」
「逃げたつもりは」
「では、誤魔化したか」
「それも少々、言い方がきつくありませんか」
湊一が返すと、吉継の目元がわずかに緩んだ。
「今のような口の返し方も、前とは違う」
「困りましたね。何を言っても疑われそうだ」
「疑ってはおらぬ」
「では」
「見ているだけだ」
吉継はそう言って、城内へ視線を向けた。
湯屋へ薪を運ぶ足軽。
井戸端で桶を洗う女たち。
炊事場から立ち上る粥の匂い。
傷を負った兵が、湯上がりの身体を縁側で休めている。
その脇を、子どもたちが笑いながら駆けていく。
戦支度の城には、あまり似つかわしくない光景だった。
「妙な城になったな」
「よく言われます」
「以前のお前なら、兵糧の数を数え、槍の長さを揃え、奉行衆の遅れを責めていた」
「今も数えております」
「数えながら、湯を沸かしている」
「湯は大事ですから」
「戦よりもか」
湊一は少し考えた。
「戦の後まで考えるなら、刀だけでは足りません」
吉継は返事をしなかった。
ただ、湯屋から立つ白い湯気を見た。
朝日を受けた湯気は、城の石垣を柔らかく覆っている。
「まずは中へ」
湊一は吉継を座敷へ案内した。
二人の間には、白湯の入った湯呑みが置かれた。
茶ではない。
香りも色もない、ただの湯だった。
吉継は湯呑みを手に取り、しばらく中を見つめる。
白い湯気が揺れる。
その向こうに、吉継は遠い日の光景を見ていた。
◇
まだ互いに若かった頃。
大勢が集う茶の席で、一つの茶碗が回されていた。
順に口をつけ、次の者へ渡していく。
吉継にも茶碗が回ってきた。
すでに病は身体を蝕み、顔には布を当てていた。
口元を隠していても、周囲の視線までは隠せない。
好奇。
憐れみ。
そして、わずかな嫌悪。
吉継が茶碗に口をつけた。
次へ回す。
だが、受け取るはずの男の手が止まった。
一瞬の沈黙。
ほんの短い間だった。
けれど、吉継には十分すぎるほど長かった。
誰も何も言わない。
言わぬまま、視線だけが茶碗へ集まっていた。
そのときだった。
「遅い」
三成が低い声を放った。
次の者が何か言うより早く、三成は茶碗を取り上げた。
「喉が渇いておる。回すなら早う回せ」
そう言って、ためらいもなく茶を飲んだ。
一口ではない。
見せつけるように、残った茶を飲み干した。
周囲が息を呑む。
三成は誰も見なかった。
吉継にも、労わる言葉をかけなかった。
ただ、空になった茶碗を戻し、面倒そうに言った。
「茶の席で茶が飲めぬ者は、帰ればよかろう」
冷たい言葉だった。
けれど、その矛先は吉継ではなかった。
茶碗を受け取れなかった者たちへ、三成は容赦なく刃を向けていた。
あの日、三成は吉継を慰めなかった。
病を気遣いもしなかった。
ただ、吉継の尊厳が踏みにじられることだけを許さなかった。
◇
「……覚えているか」
吉継が呟いた。
「何をでしょう」
湊一は問い返した。
吉継は湯呑みを置く。
「昔、茶の席で、お前が私の後の茶を飲んだことだ」
湊一の指先がわずかに止まった。
知識としては知っている。
大谷吉継と石田三成の友情を語る、有名な逸話。
けれど、目の前の男にとって、それは物語ではない。
自分の記憶なのだ。
「……覚えています」
湊一は慎重に答えた。
吉継はその顔を見た。
「お前は、私を憐れんではいなかった」
「はい」
「励ましもしなかった」
「そのような柄ではなかったのでしょう」
「今のお前なら、何か言いそうだ」
「余計なことを、でしょうか」
「おそらくな」
吉継の口元が少しだけ緩む。
だが、その目は笑っていなかった。
「あの日のお前は、私を守ろうとしたのではない」
「……」
「間違っている者どもを、許せなかっただけだ」
湊一は黙った。
「お前は昔からそうだった。人の心より、正しさを先に置いた」
吉継は湯気の向こうから、湊一を見る。
「だから人に嫌われた」
「ずいぶん容赦がありませんね」
「友ゆえにな」
その一言が重かった。
清正や正則が三成と衝突するのは、互いの正しさがぶつかるからだ。
左近が三成を試すのは、主としての覚悟を問うためだ。
だが吉継は違う。
良いところも、悪いところも、言い訳も、未熟さも。
その全てを知ったうえで、なお友でいる。
「刑部殿」
「何だ」
「私は、前よりも弱く見えますか」
吉継はしばらく答えなかった。
「そうだな」
やがて、静かに言う。
「以前のお前は、自分が正しければ耐えられた」
「今は違うと」
「今のお前は、誰かが傷つけば立ち止まる」
湊一は庭へ目を向けた。
足軽の傷。
妻の疲れた顔。
娘の小さな手。
水を汲む者たち。
帰る家を失いかけた人々。
見えてしまったものを、もう見なかったことにはできない。
「それを弱さと申されますか」
「まだ分からぬ」
吉継は白湯を一口飲んだ。
「だが、以前より難しい道を選んでいるのは確かだ」
「難しい道」
「正しいことを言うだけなら、簡単だ」
吉継の声は穏やかだった。
「正しさに従えぬ者を責めるのも、容易い」
「……」
「だが、弱い者も、誤る者も、逃げる者も含めて守ろうとすれば、正しさだけでは足りぬ」
湊一は息を呑んだ。
それは、今の自分がずっと抱えてきた迷いだった。
湯を沸かし、飯を分け、帰る場所を作る。
けれど、それで戦が消えるわけではない。
善意だけで、すべてを救えるわけでもない。
「私は時折、何をしているのか分からなくなります」
湊一は初めて、正直に口にした。
「戦が迫っているのに、湯を沸かし、飯の味を気にし、子どもの笑い声に安心している」
「それでよいのではないか」
「しかし」
「お前は、戦う理由を見失ったのではない」
吉継は湯呑みを置いた。
「戦った後に残すものを、初めて考えている」
湊一は言葉を失った。
吉継は昔の三成を知っている。
その三成が何を守ろうとし、何を守れなかったのかも。
だからこそ、今の湊一の中にあるものを、誰より早く見つけていた。
「刑部殿」
「何だ」
「私が、以前の私ではないとしたら」
言ってから、胸が激しく鳴った。
踏み込んではならぬところへ、足を入れた気がした。
「それでも、友と呼べますか」
吉継は目を細めた。
座敷に沈黙が落ちる。
外からは、薪のはぜる音が聞こえた。
井戸の桶が鳴る。
どこかで子どもが笑っている。
吉継は長く湯気を見た。
「お前は妙なことを聞く」
「そうでしょうか」
「友であるかどうかを、本人に確かめる者があるか」
「では」
「知らぬ」
湊一が顔を上げる。
吉継は少しだけ意地悪そうに言った。
「友とは、気づけばなっているものだ。やめるときも、わざわざ許しを得ぬ」
「それでは答えになっていません」
「答えを求める顔をするな。鬱陶しい」
その言い方が、妙に優しかった。
「ただ」
吉継は続けた。
「あの日、私の後の茶を飲んだ男と、今ここで湯を沸かしている男が、まるで違うとは思わぬ」
「……」
「昔のお前は、他人の尊厳を踏みにじる者を許さなかった」
吉継は庭を見た。
「今のお前は、踏みにじられる前に、居場所を作ろうとしている」
湊一の喉が詰まる。
「やり方が変わっただけだ」
吉継は静かに言った。
「根は同じだ」
その言葉が、胸の深いところへ落ちた。
自分は三成ではない。
それでも、三成の人生を奪いたいわけではなかった。
彼が残したものを消したいわけでもない。
その続きを、自分なりに繋ぎたいと思っていた。
吉継は、その思いを言葉にする前から受け止めていた。
「ならば、刑部殿」
「何だ」
「私は、この佐和山を残したい」
「石垣をか」
「いいえ」
湊一は庭先へ目を向けた。
湯屋から上る湯気。
炊事場に立つ妻。
小さな桶を抱えた娘。
傷を癒やす兵。
井戸を守る者たち。
「誰かが帰ってこられる場所を、残したいのです」
吉継はしばらく黙った。
「それは、天下を取るより難しいぞ」
「分かっています」
「いや。お前はまだ、分かっておらぬ」
「ならば教えてください」
「自分で知れ」
「友なのに冷たいですね」
「友だからだ」
吉継は即座に返した。
湊一は、思わず笑った。
その笑いにつられたように、吉継も小さく肩を揺らす。
そこへ、廊下から小さな足音が聞こえた。
「父上」
娘が盆を抱えて入ってくる。
その上には、団子の載った小皿があった。
後ろには、幼い姿の白那が腕を組んでついている。
「刑部さまへ、甘味をお持ちしました」
「よく運べたな」
「白那さまが、こぼさぬよう見てくださいました」
「妾は見ていただけではない」
白那が胸を張る。
「そやつが信用に足るか、見定めておったのじゃ」
吉継が白那を見る。
「それで、私は信用に足るのか」
「まだ分からぬ」
「ずいぶん慎重だな」
「団子を持参せぬ者など、油断ならぬ」
「そこが基準なのか」
湊一が口を挟むと、白那は鋭く睨んだ。
「黙れ、愚か者。供物は誠意の証じゃ」
「刑部殿は、わざわざ佐和山まで来てくださったのですよ」
「ならば、なおさら団子を持って来るべきであろう」
吉継が小さく笑う。
娘は皿から団子をひとつ取り、白那へ差し出した。
「白那さま。こちらは刑部さまからの供物ということで」
「うむ。小さき湯番は話が分かる」
白那は満足げに受け取った。
そして、団子を半分に割る。
小さい方を娘へ差し出した。
「食せ」
「よろしいのですか」
「そなたが味を知らねば、次の供物を選べぬからな」
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ」
白那は顔を背け、大きい方を頬張った。
吉継はその様子を見ていた。
湯気の向こうで、静かに。
「三成」
「はい」
「昔のお前なら、このような者を城内に置かなかっただろうな」
「追い出そうとしても出ていきません」
「妾の城で、妾がどこへ行くというのじゃ」
「いつから白那さまの城に」
「水は妾のもの。水が巡る城も妾のものじゃ」
「横暴だな」
吉継が言う。
白那は鼻を鳴らした。
「病持ちのわりには、言うではないか」
湊一の顔がこわばった。
「白那さま」
「黙れ」
白那は吉継をまっすぐ見た。
「病を哀れむほど、妾は暇ではない」
吉継は目を細める。
「そなたは、まだ立っておる」
「……そうだな」
「ならば立てるうちは立て。倒れたときは、湯へ放り込んでやる」
「乱暴な巫女だ」
「水守じゃ」
吉継は、今度ははっきりと笑った。
その笑い声は大きくはない。
けれど、胸の奥に長く残る笑いだった。
「この城には、哀れむ者が少ないらしい」
「その代わり、口の悪い者が多くて困っています」
「誰のことじゃ、愚か者」
白那が睨む。
湊一は肩をすくめた。
吉継は再び湯呑みを手に取る。
白湯から立つ湯気が、彼の顔を隠した。
「湯気は妙だな」
「何がでしょう」
「形を隠す」
吉継は湯気の向こうから言った。
「だが、温かさまでは隠せぬ」
湊一は黙って聞いた。
「お前の顔は、以前とは違って見える」
「……はい」
「言うことも、やることも、随分変わった」
吉継は湯呑みを置く。
「だが、湯気の向こうにいる男が、私の友でないとは思わぬ」
湊一の胸が熱くなった。
吉継は立ち上がる。
「刑部殿」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「しかし」
「友の顔を見に来ただけだ」
吉継は庭へ向かう。
その背に、湊一は声をかけた。
「湯屋も見ていかれますか」
「無論だ」
「入られますか」
「湯が良ければな」
その瞬間、白那が勢いよく振り返った。
「待て」
「何だ」
「湯銭を先に決めておく」
「取るのか」
「当然じゃ」
「銭か」
「団子でもよい」
「やはり団子か」
吉継は笑いながら、湯屋の方へ歩いていく。
その背を見つめながら、湊一は思った。
この男は、何も見抜いていないわけではない。
おそらく、誰よりも深く気づいている。
それでも問い詰めなかった。
昔の三成を否定せず、今の湊一も拒まなかった。
過去の茶碗と、今の白湯。
その間に流れた年月さえ、吉継は友として飲み干したのだ。
湯屋から立つ白い湯気が、佐和山の空へ昇っていく。
大谷吉継は、その湯気の向こうに変わった友を見た。
そして、変わらず友でいられる理由も、確かに見つけていた。
――関ヶ原まで、あと五十七日。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、大谷吉継と三成の友情を中心に描きました。
過去の茶碗と、今の白湯。
昔の三成が守ったものと、今の湊一が残そうとしているものが、少しでも一本につながって見えたなら嬉しいです。
白那は相変わらずですが、吉継を病人として哀れむのではなく、今も立っている一人の武人として扱いました。
あの二人、案外相性が悪くないのかもしれません。
次回、第二十二湯。
影は、文を運ぶ
佐和山の湯気の外で、名もまだ明かされぬ影が、静かに動き始めます。
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