第二十湯 近江の水、遠く濁る
いつも『佐和山若旦那録』をお読みいただき、ありがとうございます。
前話「白那、叱る」で、湊一は白那から厳しく叱られ、「帰る場所を守る」という覚悟を新たにしました。
しかし、本当に恐ろしい敵は、刀を抜く者だけではありません。
静かに広がる噂と疑いは、人の心を濁し、やがて国さえ揺るがします。
第二十湯は、佐和山の外で始まる"見えない戦"の幕開けです。
どうぞ最後までお楽しみください。
第二十湯 近江の水、遠く濁る
佐和山の朝は、久しぶりに穏やかだった。
濁っていた水路には澄んだ流れが戻り、城下の共同井戸にも、朝早くから桶の音が響いている。
崩された木枠は組み直され、泥に埋もれていた溝もさらわれた。
昨日まで眉を寄せていた者たちも、水面を確かめながら、ようやく安堵の息を漏らしていた。
「父上」
井戸端で、小さき湯番が湊一を呼んだ。
両手には、小さな湯飲みが一つ。
白い湯気が、ふわりと立っている。
「母上が、少しお休みくださいと」
「ありがとう」
湊一は湯飲みを受け取り、ひと口飲んだ。
ただの白湯だった。
けれど、その温かさが喉を通り、夜通し働いた身体の奥へ、ゆっくりと染み込んでいく。
「水が普通に飲めるって、ありがたいな」
湊一が呟くと、井戸の縁に腰掛けていた白那が鼻を鳴らした。
「今さら何を申しておる」
幼い姿の白那は、団子の包みを膝に抱えていた。
昨日、水路へ力を使った反動が残っているのか、白い頬にはまだ眠たげな色がある。
それでも、口だけは普段どおりだった。
「水がなければ、飯は炊けぬ。湯も沸かせぬ。人も生きられぬ。そなたは湯宿の者であろう。その程度、骨身に染みておけ」
「染みてるよ。だから寝てないんだ」
「寝ておらぬことを誇るでない。愚か者の働き方じゃ」
「厳しいな」
「妾は優しいぞ」
白那は団子を一つ、口へ運んだ。
「そなたが倒れれば、妾に面倒が増える。ゆえに、先に叱ってやっておる」
小さき湯番が、嬉しそうに笑った。
「白那さまは、父上を心配しておられるのですね」
「違う」
白那は即座に答えた。
「妾は、供物が絶えることを案じておるだけじゃ」
「昨日、三本お召し上がりでした」
「数えるでない」
穏やかな朝だった。
少なくとも、佐和山では。
◇
佐和山から半日の距離にある、小さな村。
田へ水を引く細い溝のそばで、二人の百姓が鍬を休めていた。
「聞いたか」
年嵩の男が声を潜める。
「何をじゃ」
「佐和山の話よ」
「水が濁ったという話か」
「それだけではない」
男は周囲を見回してから、さらに声を落とした。
「石田様は、城下の湯を沸かすため、村々の水を集めておられるらしい」
もう一人の男が眉をひそめる。
「そんな馬鹿なことがあるか。水は川から引けばよい」
「だが、実際に佐和山の水路は濁ったそうじゃ」
「それと村の水に、何の関わりがある」
「知らぬ」
年嵩の男は肩をすくめた。
「昨日、峠を越えてきた行商人が申しておったのじゃ」
「誰から聞いた」
「城下から来た者に聞いた、と」
「その城下の者は?」
「そこまでは知らぬ」
根も葉もない話だ。
そう笑って済ませることもできた。
だが、二人の視線は、自然と足元の水へ向いた。
流れは澄んでいる。
それでも、昨日までと同じ水には見えなかった。
「今朝、少し臭わなかったか」
「気のせいじゃろう」
「そうかのう」
二人はしばらく、水面を見つめていた。
その日の夕刻。
村では、佐和山が水を集めているという話が、五つに増えていた。
湯殿を増やすため。
兵を集めるため。
城へ水を囲い込むため。
村々を従わせるため。
そして――。
従わぬ村には、濁った水を流すため。
誰も、その話を最初にした者の名を知らなかった。
◇
さらに西の宿場。
旅籠の土間では、旅人たちが囲炉裏を囲んでいた。
その中に、一人の僧がいた。
擦り切れた墨染めの衣。
深くかぶった笠。
旅慣れた足袋。
僧は宿の主人から白湯を受け取り、静かに頭を下げた。
「ありがたい」
「白湯しかございませんで」
「水があるだけで十分にございます」
その言葉を聞き、隣に座っていた商人が口を挟んだ。
「水といえば、佐和山で妙なことが起きたそうですな」
主人が顔を上げる。
「妙なこと?」
「井戸が濁ったとか」
「それなら聞きました。すぐに直したそうですが」
「直した、ということになっているのでしょう」
商人は意味ありげに声を落とした。
「城が水を止め、民が騒いだゆえ、慌てて戻したとも聞きましたぞ」
「どなたから、その話を?」
「大津へ向かう途中で会った者から」
「名は?」
「名までは」
僧は黙ったまま、湯飲みへ視線を落としている。
湯気が細く揺れた。
主人が困ったように笑った。
「石田様は、城下に湯場を作り、民にも使わせておられるとか。水を奪うお方とは思えませぬが」
「人は変わるものです」
商人が言う。
「善い顔を見せているときほど、裏では何をしているか分からぬ」
囲炉裏端が静かになった。
誰かが咳をする。
薪が、ぱちりと爆ぜた。
僧は白湯を飲み終えると、静かに立ち上がった。
「お休みになられぬので?」
主人が尋ねる。
「先を急ぎます」
「もう日が暮れますぞ」
「闇の方が、歩きやすい道もございますゆえ」
僧は銭を置き、宿を出た。
その後に、黒い羽根が一本、土間へ落ちた。
だが、誰も気づかなかった。
◇
別の村には、一通の文が届いた。
宛名は、村を預かる庄屋の名。
差出人には、近隣の村役人の名が記されている。
文には、こうあった。
――佐和山より、水改めの者が参るやもしれぬ。
――井戸、川、湧き水の数を、隠さず申し出るべし。
――逆らう村には、相応の沙汰があると聞く。
庄屋は何度も文を読み返した。
「水改めとは、何じゃ」
隣にいた息子が訊く。
「分からぬ」
「水の数を調べて、どうするのでしょう」
「分からぬと申しておる」
庄屋の声が荒くなる。
文そのものに、井戸を奪うとは書かれていない。
水を止めるとも、兵を送るとも書かれていない。
それでも、最後の一文が胸へ引っかかった。
相応の沙汰。
それが何を意味するのか、どこにも書かれてはいない。
書かれていないからこそ、人は最も恐ろしいものを勝手に思い浮かべる。
「隣村にも確かめて参ります」
息子が立ち上がった。
「待て」
「なぜです」
「この文が、もし本当ならば……」
庄屋は声をさらに落とした。
「こちらから動いたと知られるのは、まずい」
「では、どうするのです」
庄屋は、しばらく黙った。
そして、井戸のある裏庭へ目を向けた。
「一つ、隠す」
その判断は、誰かに命じられたものではない。
誰かに脅されたものでもない。
ただ一通の曖昧な文が、庄屋自身に選ばせたものだった。
◇
夜更け。
名もない寺の一室に、燭台の火が揺れていた。
机の上には、何枚もの文が広げられている。
筆跡は、それぞれ違う。
村役人のもの。
商人のもの。
寺僧のもの。
足軽のもの。
そこに並ぶ言葉も、少しずつ違っていた。
水。
佐和山。
徴収。
改め。
濁り。
沙汰。
細い指が、そのうちの一枚を手に取った。
白い指だった。
爪は短く整えられ、墨一滴さえ付いていない。
女は、筆先で一文字を削った。
次に、別の一文を上へ移す。
新たな嘘は書かない。
実際に水路は濁った。
実際に佐和山では、湯場が作られている。
実際に石田三成は、水路や井戸を調べさせている。
それらを並べ替えるだけでよい。
「これで、よろしいので」
向かいに座る男が尋ねた。
男は顔を上げなかった。
いや、上げられなかった。
女の声を聞くだけで、喉の奥がひどく乾いた。
「一つ、違うわ」
女の声は、低くも高くもなかった。
穏やかですらあった。
それなのに、聞いた者の背骨を、冷たい指でなぞるような声だった。
「何が、でしょう」
「よろしいかと尋ねたこと」
女は文を折り畳んだ。
「おまえは、言われたことを運べばよい」
「……は」
男の額を汗が伝った。
部屋は寒くない。
燭台の火も燃えている。
それでも、男の指先は震えていた。
女が笑った。
美しい笑みだった。
だからこそ、恐ろしかった。
毒蛇が獲物を見つめるときも、きっとこのように静かなのだろう。
「嘘は書かぬ」
女は、机の端に置かれた水差しへ目を向けた。
中の水は澄んでいる。
「人は、自分が恐れている順に、言葉を読み直すもの」
「では、佐和山が水を奪うと――」
「そこまで書けば、下手な嘘になるわ」
男の言葉を、女は柔らかく遮った。
「疑わせればよいの」
「疑わせるだけで?」
「人は疑えば、己で証を探す」
女は水差しへ指を添えた。
「澄んだ水を見て、濁っていると思い始めれば、もはや水を汚す必要はない」
男が黙る。
「石田三成は、民に湯を与えた」
女の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「ならば、その湯気の向こうに、何が隠れているのかと考えさせればよい」
「何も隠れていなくとも?」
女の目が、ゆっくりと男へ向いた。
その瞬間、男の呼吸が止まった。
灯の下に浮かんだ顔は、美しかった。
だが、人を安心させる美しさではない。
夜の水面に映る月のように、触れれば底へ引き込まれそうな冷たさがあった。
「何もない場所ほど、人は好きな影を見るわ」
女は文の束を男へ渡した。
「北へ二通。西へ三通。街道沿いには、異なる噂を流しなさい」
「内容は、揃えなくてよいので?」
「揃えては駄目」
返事は静かだった。
けれど、逆らう余地は一片もなかった。
「同じ話ばかりでは、誰かが流していると気づかれるでしょう」
それぞれ違う噂。
それぞれ違う差出人。
それぞれ違う恐れ。
しかし、行き着く先だけは同じ。
佐和山を疑え。
石田三成を疑え。
湯気の向こうを疑え。
男は文を懐へ収め、深く頭を下げた。
立ち上がる際、膝がわずかに崩れた。
女はそれを見ても、何も言わなかった。
障子が閉まり、足音が遠ざかる。
女は一人、机の上の水差しを眺めた。
やがて袖口から、黒い羽根を一本取り出した。
細い指が、それを澄んだ水の中へ落とす。
水面に、小さな波紋が広がった。
女は、その波紋を見ながら、楽しげに微笑んだ。
◇
佐和山では、夜の湯殿に静かな湯気が立っていた。
湊一は縁へ腰掛け、今日直した水路の図を眺めている。
隣では、小さき湯番が母の膝で眠っていた。
白那は少し離れたところで、最後の団子を惜しそうに見つめている。
「食べないのか」
「愚か者。最後の一つは、最も慎重に食すものじゃ」
「同じ団子だろ」
「同じではない。最後という重みがある」
白那はそう言いながら、団子を半分だけ齧った。
いつもの夜。
いつもの湯気。
いつものやり取り。
だが、不意に白那の動きが止まった。
「どうした?」
白那は答えない。
耳を澄ますように、顔を上げている。
どこか遠く。
佐和山の水路ではない。
井戸でも、湧き水でもない。
遥か彼方で、無数の小さな波が重なっていくような気配。
白那は、幼い眉をわずかに寄せた。
「……妙じゃの」
「何が?」
「水の声が遠い」
湊一は湯殿の外へ目を向けた。
夜の佐和山は静かだった。
水音も穏やかだ。
「ここは何ともないぞ」
「ここは、な」
白那は残った団子を包みへ戻した。
それだけで、湊一は少し驚いた。
白那が団子を残すのは、珍しい。
「水が濁ってるのか?」
「分からぬ」
白那は夜の向こうを見た。
「ただ――」
鈴が、ちりんと鳴った。
「濁っておるのは、水ではないのかもしれぬ」
佐和山の湯気は、白く穏やかに立ち上っている。
その外で。
湊一たちの知らぬところで。
近江の水は、少しずつ、遠く濁り始めていた。
関ヶ原まで、あと五十八日。
第二十湯「近江の水、遠く濁る」をお読みいただき、ありがとうございました。
佐和山では穏やかな日常が戻ったように見えます。
ですが、その外では人の心を蝕む「見えない戦」が静かに始まりました。
刀ではなく、噂。
血ではなく、疑い。
それもまた、戦国の戦い方です。
そして物語の最後には、謎の女性が姿を現しました。
彼女が落とした一枚の黒い羽根は、これから近江全土へどのような波紋を広げていくのか――。
次回、第二十一湯「大谷吉継、湯気を見る」。
旧友・大谷吉継が佐和山を訪れ、湯気の向こうにいる"三成"の変化を見抜きます。
ぜひ、引き続きお付き合いください。
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