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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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第二十湯 近江の水、遠く濁る

いつも『佐和山若旦那録』をお読みいただき、ありがとうございます。

前話「白那、叱る」で、湊一は白那から厳しく叱られ、「帰る場所を守る」という覚悟を新たにしました。

しかし、本当に恐ろしい敵は、刀を抜く者だけではありません。

静かに広がる噂と疑いは、人の心を濁し、やがて国さえ揺るがします。

第二十湯は、佐和山の外で始まる"見えない戦"の幕開けです。

どうぞ最後までお楽しみください。

第二十湯 近江の水、遠く濁る


佐和山の朝は、久しぶりに穏やかだった。


濁っていた水路には澄んだ流れが戻り、城下の共同井戸にも、朝早くから桶の音が響いている。


崩された木枠は組み直され、泥に埋もれていた溝もさらわれた。


昨日まで眉を寄せていた者たちも、水面を確かめながら、ようやく安堵の息を漏らしていた。


「父上」


井戸端で、小さき湯番が湊一を呼んだ。


両手には、小さな湯飲みが一つ。


白い湯気が、ふわりと立っている。


「母上が、少しお休みくださいと」


「ありがとう」


湊一は湯飲みを受け取り、ひと口飲んだ。


ただの白湯だった。


けれど、その温かさが喉を通り、夜通し働いた身体の奥へ、ゆっくりと染み込んでいく。


「水が普通に飲めるって、ありがたいな」


湊一が呟くと、井戸の縁に腰掛けていた白那が鼻を鳴らした。


「今さら何を申しておる」


幼い姿の白那は、団子の包みを膝に抱えていた。


昨日、水路へ力を使った反動が残っているのか、白い頬にはまだ眠たげな色がある。


それでも、口だけは普段どおりだった。


「水がなければ、飯は炊けぬ。湯も沸かせぬ。人も生きられぬ。そなたは湯宿の者であろう。その程度、骨身に染みておけ」


「染みてるよ。だから寝てないんだ」


「寝ておらぬことを誇るでない。愚か者の働き方じゃ」


「厳しいな」


「妾は優しいぞ」


白那は団子を一つ、口へ運んだ。


「そなたが倒れれば、妾に面倒が増える。ゆえに、先に叱ってやっておる」


小さき湯番が、嬉しそうに笑った。


「白那さまは、父上を心配しておられるのですね」


「違う」


白那は即座に答えた。


「妾は、供物が絶えることを案じておるだけじゃ」


「昨日、三本お召し上がりでした」


「数えるでない」


穏やかな朝だった。


少なくとも、佐和山では。



佐和山から半日の距離にある、小さな村。


田へ水を引く細い溝のそばで、二人の百姓が鍬を休めていた。


「聞いたか」


年嵩の男が声を潜める。


「何をじゃ」


「佐和山の話よ」


「水が濁ったという話か」


「それだけではない」


男は周囲を見回してから、さらに声を落とした。


「石田様は、城下の湯を沸かすため、村々の水を集めておられるらしい」


もう一人の男が眉をひそめる。


「そんな馬鹿なことがあるか。水は川から引けばよい」


「だが、実際に佐和山の水路は濁ったそうじゃ」


「それと村の水に、何の関わりがある」


「知らぬ」


年嵩の男は肩をすくめた。


「昨日、峠を越えてきた行商人が申しておったのじゃ」


「誰から聞いた」


「城下から来た者に聞いた、と」


「その城下の者は?」


「そこまでは知らぬ」


根も葉もない話だ。


そう笑って済ませることもできた。


だが、二人の視線は、自然と足元の水へ向いた。


流れは澄んでいる。


それでも、昨日までと同じ水には見えなかった。


「今朝、少し臭わなかったか」


「気のせいじゃろう」


「そうかのう」


二人はしばらく、水面を見つめていた。


その日の夕刻。


村では、佐和山が水を集めているという話が、五つに増えていた。


湯殿を増やすため。


兵を集めるため。


城へ水を囲い込むため。


村々を従わせるため。


そして――。


従わぬ村には、濁った水を流すため。


誰も、その話を最初にした者の名を知らなかった。



さらに西の宿場。


旅籠の土間では、旅人たちが囲炉裏を囲んでいた。


その中に、一人の僧がいた。


擦り切れた墨染めの衣。


深くかぶった笠。


旅慣れた足袋。


僧は宿の主人から白湯を受け取り、静かに頭を下げた。


「ありがたい」


「白湯しかございませんで」


「水があるだけで十分にございます」


その言葉を聞き、隣に座っていた商人が口を挟んだ。


「水といえば、佐和山で妙なことが起きたそうですな」


主人が顔を上げる。


「妙なこと?」


「井戸が濁ったとか」


「それなら聞きました。すぐに直したそうですが」


「直した、ということになっているのでしょう」


商人は意味ありげに声を落とした。


「城が水を止め、民が騒いだゆえ、慌てて戻したとも聞きましたぞ」


「どなたから、その話を?」


「大津へ向かう途中で会った者から」


「名は?」


「名までは」


僧は黙ったまま、湯飲みへ視線を落としている。


湯気が細く揺れた。


主人が困ったように笑った。


「石田様は、城下に湯場を作り、民にも使わせておられるとか。水を奪うお方とは思えませぬが」


「人は変わるものです」


商人が言う。


「善い顔を見せているときほど、裏では何をしているか分からぬ」


囲炉裏端が静かになった。


誰かが咳をする。


薪が、ぱちりと爆ぜた。


僧は白湯を飲み終えると、静かに立ち上がった。


「お休みになられぬので?」


主人が尋ねる。


「先を急ぎます」


「もう日が暮れますぞ」


「闇の方が、歩きやすい道もございますゆえ」


僧は銭を置き、宿を出た。


その後に、黒い羽根が一本、土間へ落ちた。


だが、誰も気づかなかった。



別の村には、一通の文が届いた。


宛名は、村を預かる庄屋の名。


差出人には、近隣の村役人の名が記されている。


文には、こうあった。


――佐和山より、水改めの者が参るやもしれぬ。


――井戸、川、湧き水の数を、隠さず申し出るべし。


――逆らう村には、相応の沙汰があると聞く。


庄屋は何度も文を読み返した。


「水改めとは、何じゃ」


隣にいた息子が訊く。


「分からぬ」


「水の数を調べて、どうするのでしょう」


「分からぬと申しておる」


庄屋の声が荒くなる。


文そのものに、井戸を奪うとは書かれていない。


水を止めるとも、兵を送るとも書かれていない。


それでも、最後の一文が胸へ引っかかった。


相応の沙汰。


それが何を意味するのか、どこにも書かれてはいない。


書かれていないからこそ、人は最も恐ろしいものを勝手に思い浮かべる。


「隣村にも確かめて参ります」


息子が立ち上がった。


「待て」


「なぜです」


「この文が、もし本当ならば……」


庄屋は声をさらに落とした。


「こちらから動いたと知られるのは、まずい」


「では、どうするのです」


庄屋は、しばらく黙った。


そして、井戸のある裏庭へ目を向けた。


「一つ、隠す」


その判断は、誰かに命じられたものではない。


誰かに脅されたものでもない。


ただ一通の曖昧な文が、庄屋自身に選ばせたものだった。



夜更け。


名もない寺の一室に、燭台の火が揺れていた。


机の上には、何枚もの文が広げられている。


筆跡は、それぞれ違う。


村役人のもの。


商人のもの。


寺僧のもの。


足軽のもの。


そこに並ぶ言葉も、少しずつ違っていた。


水。


佐和山。


徴収。


改め。


濁り。


沙汰。


細い指が、そのうちの一枚を手に取った。


白い指だった。


爪は短く整えられ、墨一滴さえ付いていない。


女は、筆先で一文字を削った。


次に、別の一文を上へ移す。


新たな嘘は書かない。


実際に水路は濁った。


実際に佐和山では、湯場が作られている。


実際に石田三成は、水路や井戸を調べさせている。


それらを並べ替えるだけでよい。


「これで、よろしいので」


向かいに座る男が尋ねた。


男は顔を上げなかった。


いや、上げられなかった。


女の声を聞くだけで、喉の奥がひどく乾いた。


「一つ、違うわ」


女の声は、低くも高くもなかった。


穏やかですらあった。


それなのに、聞いた者の背骨を、冷たい指でなぞるような声だった。


「何が、でしょう」


「よろしいかと尋ねたこと」


女は文を折り畳んだ。


「おまえは、言われたことを運べばよい」


「……は」


男の額を汗が伝った。


部屋は寒くない。


燭台の火も燃えている。


それでも、男の指先は震えていた。


女が笑った。


美しい笑みだった。


だからこそ、恐ろしかった。


毒蛇が獲物を見つめるときも、きっとこのように静かなのだろう。


「嘘は書かぬ」


女は、机の端に置かれた水差しへ目を向けた。


中の水は澄んでいる。


「人は、自分が恐れている順に、言葉を読み直すもの」


「では、佐和山が水を奪うと――」


「そこまで書けば、下手な嘘になるわ」


男の言葉を、女は柔らかく遮った。


「疑わせればよいの」


「疑わせるだけで?」


「人は疑えば、己で証を探す」


女は水差しへ指を添えた。


「澄んだ水を見て、濁っていると思い始めれば、もはや水を汚す必要はない」


男が黙る。


「石田三成は、民に湯を与えた」


女の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「ならば、その湯気の向こうに、何が隠れているのかと考えさせればよい」


「何も隠れていなくとも?」


女の目が、ゆっくりと男へ向いた。


その瞬間、男の呼吸が止まった。


灯の下に浮かんだ顔は、美しかった。


だが、人を安心させる美しさではない。


夜の水面に映る月のように、触れれば底へ引き込まれそうな冷たさがあった。


「何もない場所ほど、人は好きな影を見るわ」


女は文の束を男へ渡した。


「北へ二通。西へ三通。街道沿いには、異なる噂を流しなさい」


「内容は、揃えなくてよいので?」


「揃えては駄目」


返事は静かだった。


けれど、逆らう余地は一片もなかった。


「同じ話ばかりでは、誰かが流していると気づかれるでしょう」


それぞれ違う噂。


それぞれ違う差出人。


それぞれ違う恐れ。


しかし、行き着く先だけは同じ。


佐和山を疑え。


石田三成を疑え。


湯気の向こうを疑え。


男は文を懐へ収め、深く頭を下げた。


立ち上がる際、膝がわずかに崩れた。


女はそれを見ても、何も言わなかった。


障子が閉まり、足音が遠ざかる。


女は一人、机の上の水差しを眺めた。


やがて袖口から、黒い羽根を一本取り出した。


細い指が、それを澄んだ水の中へ落とす。


水面に、小さな波紋が広がった。


女は、その波紋を見ながら、楽しげに微笑んだ。



佐和山では、夜の湯殿に静かな湯気が立っていた。


湊一は縁へ腰掛け、今日直した水路の図を眺めている。


隣では、小さき湯番が母の膝で眠っていた。


白那は少し離れたところで、最後の団子を惜しそうに見つめている。


「食べないのか」


「愚か者。最後の一つは、最も慎重に食すものじゃ」


「同じ団子だろ」


「同じではない。最後という重みがある」


白那はそう言いながら、団子を半分だけ齧った。


いつもの夜。


いつもの湯気。


いつものやり取り。


だが、不意に白那の動きが止まった。


「どうした?」


白那は答えない。


耳を澄ますように、顔を上げている。


どこか遠く。


佐和山の水路ではない。


井戸でも、湧き水でもない。


遥か彼方で、無数の小さな波が重なっていくような気配。


白那は、幼い眉をわずかに寄せた。


「……妙じゃの」


「何が?」


「水の声が遠い」


湊一は湯殿の外へ目を向けた。


夜の佐和山は静かだった。


水音も穏やかだ。


「ここは何ともないぞ」


「ここは、な」


白那は残った団子を包みへ戻した。


それだけで、湊一は少し驚いた。


白那が団子を残すのは、珍しい。


「水が濁ってるのか?」


「分からぬ」


白那は夜の向こうを見た。


「ただ――」


鈴が、ちりんと鳴った。


「濁っておるのは、水ではないのかもしれぬ」


佐和山の湯気は、白く穏やかに立ち上っている。


その外で。


湊一たちの知らぬところで。


近江の水は、少しずつ、遠く濁り始めていた。


関ヶ原まで、あと五十八日。

第二十湯「近江の水、遠く濁る」をお読みいただき、ありがとうございました。


佐和山では穏やかな日常が戻ったように見えます。

ですが、その外では人の心を蝕む「見えない戦」が静かに始まりました。

刀ではなく、噂。

血ではなく、疑い。

それもまた、戦国の戦い方です。

そして物語の最後には、謎の女性が姿を現しました。

彼女が落とした一枚の黒い羽根は、これから近江全土へどのような波紋を広げていくのか――。

次回、第二十一湯「大谷吉継、湯気を見る」。

旧友・大谷吉継が佐和山を訪れ、湯気の向こうにいる"三成"の変化を見抜きます。

ぜひ、引き続きお付き合いください。


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