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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第三章 濁る水、届かぬ声

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【新章の始まり】第十九湯 白那、叱る

ここから新章「水は濁り、影は動く」が始まります。


水路に起きた、不自然な濁り。

疑われる水番と、一人で足跡を追った小さき湯番。

今回の白那は、湊一にも娘にも容赦なく叱ります。

けれど、その厳しい言葉の奥には――。

第十九湯 白那、叱る


翌朝。


「殿! 水が……水路の水が濁っております!」


戸を叩く激しい音で、俺は目を覚ました。


夜明けには、まだ少し早い。


佐和山の空は薄暗く、城下には白い朝靄が沈んでいた。


廊下へ出ると、水番の男が青ざめた顔で膝をついている。


「どこの水路だ」


「炊事場と湯殿へ引いております、下の水路にございます。泥が混じり、匂いも普段とは違うようで……」


「湯殿へ水は入れたのか」


「いえ。異変に気づき、すぐに止めました」


「井戸は?」


「今のところ、濁りはございませぬ」


眠気は完全に消えていた。


水が使えなければ、飯を炊けない。


湯も沸かせない。


人も馬も、水なしでは一日たりとも動けない。


現代の湯宿なら、水道管の故障を疑い、業者へ連絡するところだ。


だが、ここは戦国の佐和山。


水道局もなければ、非常用の貯水槽が勝手に補ってくれるわけでもない。


「炊事には井戸水を使え。ただし、色と匂いを確かめてからだ。湯殿は原因が分かるまで止める」


「はっ!」


「濁った水は、誰にも飲ませるな。家畜にもだ」


「承知いたしました!」


羽織を引っかけ、俺は水路へ向かった。


城下へ続く水路の脇には、すでに何人もの者が集まっていた。


桶に汲まれた水は、薄い茶色に濁っている。


「上の流れは澄んでおります」


水番の一人が、水路の先を指さした。


「濁り始めたのは、この分かれ道からにございます」


炊事場と湯殿へ水を分ける、小さな水門。


その脇の土が崩れ、水路へ流れ込んでいた。


ただの土崩れにしては、不自然だった。


木枠には、硬い物で打ちつけたような傷が残っている。


泥の上には、いくつもの足跡があった。


俺はしゃがみ込み、濁った流れへ手を伸ばした。


その時。


――ふん。


水の底から、誰かが鼻を鳴らしたような音がした。


俺は反射的に振り返った。


「どうなされました」


隣にいた水番が、不思議そうに尋ねる。


「今、何か聞こえなかったか」


「何か……でございますか?」


「鼻を鳴らすような音だ。子どもが腹を立てたような……」


周囲を見回したが、近くに子どもの姿はない。


あるのは、濁った水と、崩れた土だけだった。


「……いや。気のせいか」


俺は立ち上がった。


「昨夜の番は誰だ」


尋ねると、人々の視線が一人の若者へ集まった。


まだ二十歳にもなっていないだろう。


泥だらけの姿で、俯いている。


「お前か」


「……はい」


「何があった」


「分かりませぬ」


「分からない?」


「夜半までは、何もございませんでした。水門も、いつもと変わりなく……」


周囲から低い声が上がった。


「番をしていながら、分からぬとは何事だ」


「眠っておったのではないか」


「こやつが壊したのではあるまいな」


若者は唇を噛み、何も答えない。


俺は傷ついた水門へ目を向けた。


壊されたのなら、昨夜ここにいた若者から事情を聞く必要がある。


「まず、この者を別の場所へ――」


みしり。


嫌な音がした。


若者の顔から血の気が引く。


「殿、離れられよ!」


左近の声が飛んだ。


次の瞬間、水門の木枠が大きく傾いた。


支えを失った土が崩れ、溜まっていた泥水が一気に水路へ流れ込む。


「うわっ!」


水番の若者が足を滑らせた。


泥に膝を取られ、その身体が濁った流れへ倒れ込む。


俺は、とっさに若者の腕をつかんだ。


「手を離すな!」


「殿……!」


だが、流れは思った以上に強かった。


若者の身体が引かれ、俺の足まで泥の中を滑っていく。


「殿!」


「近づくな! 足場が崩れる!」


誰かを助けようとして、全員が水へ落ちたのでは意味がない。


分かっている。


分かっているのに、若者の腕を離すことなどできなかった。


「父上!」


水路の向こうから、娘の声がした。


ちりん――。


澄んだ鈴の音が、濁った水面を走る。


その瞬間。


俺の足元で、何かが動いた。


石ではない。


魚でもない。


流れとは逆の方向から、足の裏をぐいと押し返された。


「今だ、引け!」


左近が俺の襟をつかんだ。


水番たちも若者の肩へ手を伸ばす。


「せえのっ!」


俺と若者は、泥の上へ転がった。


水を吐きながら顔を上げる。


濁流の中で、子どもほどの小さな影が一度だけ身を翻した。


――ふん。


また、あの音がした。


次の瞬間。


「愚か者!」


鋭い声が、水路へ響き渡った。


振り返ると、白那が立っていた。


白い髪を朝風になびかせ、青い瞳を吊り上げている。


「白那……」


「妾の名を呼べば、叱られずに済むと思うたか」


「いや、そういうわけじゃ……」


「そなたは主であろう!」


白那は草履を鳴らし、俺の前まで歩いてきた。


「自ら濁流へ引きずり込まれて、何が人を守るじゃ」


「目の前で流されかけていたんだ。放っておけないだろ」


「誰が放っておけと申した」


白那の指が、俺の胸を突いた。


「人を呼べ。縄を使え。己まで流される以外の手を考えよ」


「考える暇がなかった」


「考える暇がない時ほど、主が真っ先に死に急いでどうする!」


言葉が胸へ突き刺さる。


「そなたが倒れれば、誰が皆を帰すのじゃ」


「……悪かった」


「妾に謝るでない。己が背負う者たちへ詫びよ」


白那は鼻を鳴らすと、水番の若者へ目を向けた。


「そなたもじゃ。袖を上げよ」


「え……」


「妾に二度も命じさせるでない」


若者がおそるおそる袖をまくる。


腕には、今できたものとは思えない赤黒い痣が広がっていた。


手のひらも裂け、血が滲んでいる。


「その傷は、先ほどのものではないな」


俺が尋ねると、若者は小さく答えた。


「夜半に、水門が倒れかけましたゆえ……支えました」


「一人でか?」


「はい。戻そうとしましたが動かず、せめて水が一度に流れ込まぬよう、石を積みました」


「なぜ、すぐ知らせなかった」


「番を任されておきながら、水門を壊されたと知られれば……お役目を外されると思い……」


周囲が静まり返った。


白那が俺を見る。


「聞いたか、湯宿の若旦那」


「……聞いた」


「そなたは、人を信じておるのではない」


白那の声は冷たかった。


「疑うことから逃げておるだけじゃ」


「どういう意味だ」


「皆を信じたい。争わせたくない。ゆえに、何も起きておらぬことにしたがる」


胸の奥を突かれた。


「そして異変が起これば慌て、目の前におる者を疑う。それで主のつもりか」


「俺は、そんなつもりじゃ……」


「ならば、なぜこの者の顔を見なんだ」


何も言い返せなかった。


現代の湯宿では、客の顔を見ていた。


寒そうにしていないか。


料理が口に合わなかったのではないか。


何かを言いたそうにしていないか。


けれど今の俺は、この若者の震える手も、傷ついた腕も見ていなかった。


「水が濁れば、水路を見る」


白那が言った。


「人が黙れば、その顔を見よ」


「……ああ」


「水も人も、表だけ見て分かった気になるでない。愚か者」


その時だった。


「白那さま……」


娘がおずおずと声をかけた。


よく見ると、娘の裾にも泥がついている。


草履も濡れ、袖には小枝まで引っかかっていた。


白那の眉が、ぴくりと動く。


「小さき湯番」


「はい」


「こちらへ参れ」


先ほどよりも低い声だった。


娘が、ゆっくりと近づく。


「その泥は何じゃ」


「水路の先を、少し見てまいりました」


「誰とじゃ」


「……一人でございます」


水路の空気が、再び凍った。


「一人で?」


「泥の上に足跡が続いておりましたので、誰かが逃げたのかもしれぬと思い……」


「それで追うたと申すか」


「白那さまの水を汚した者かもしれませぬ」


娘は唇を引き結んだ。


「わたしも、小さき湯番でございます。水を守らねばと……」


白那の指が、娘の額をこつんと小突いた。


「痛っ」


「大愚か者」


「白那さま……」


「鈴を鳴らしたことだけは褒めてやる。じゃが、水守の務めとは、一人で危うき場所へ踏み込むことではない」


「ですが――」


「ですが、ではない!」


娘の肩が跳ねた。


「そなたが水へ落ちれば、誰が助けを呼ぶ。賊に見つかれば、誰が妾へ知らせる」


「……申し訳ございません」


「鈴を持たせたであろう」


「はい」


「危うき時は、事が起きてからではなく、起きる前に鳴らせ」


「はい……」


「水を守る者とは、一人で何もかも背負う者ではない」


「はい」


「そなたが戻らねば、妾は……」


白那の言葉が止まる。


娘が顔を上げた。


「白那さま?」


「妾は、その……困る」


「何にお困りになりますか」


「供物を運ぶ者がおらぬではないか」


娘の表情が、わずかに緩んだ。


「団子のことでございますか?」


「他に何がある。余計なことを申すでない」


白那は顔を背けた。


耳が、ほんのり赤くなっている。


「殿」


水路の先を調べていた左近が戻ってきた。


その手には、濡れた布切れが握られている。


「娘御の申したとおり、足跡が続いておりました」


「どこまでだ」


「城内へ通じる脇道までにございます」


「外から入り込んだ者か」


「それが、妙なのでございます」


左近の声が低くなった。


「足跡は、城外から入ったものではありませぬ」


「何?」


「爪先の向きから見れば――」


左近は、水路の向こうを指した。


その先には、佐和山の城がある。


「城の内から、水路へ下りてきた跡にございます」


辺りにいた者たちが息を呑んだ。


外から敵が忍び込んだのではない。


何者かが、すでに城の内側にいる。


左近は、握っていた布を開いた。


中には、黒い羽根が一本入っていた。


鴉の羽根にも見える。


だが、その根元には細い黒糸が結ばれている。


自然に抜け落ちた物ではない。


白那の目が細くなった。


「趣味の悪い印じゃ」


「知っているのか?」


「知らぬ」


白那は即座に答えた。


だが、その視線は羽根ではなく、濁った水面へ向けられている。


水底で、何かが動いた。


ほんの一瞬だった。


魚よりも大きく、人よりは小さい。


子どもほどの影が、濁りの中を素早く横切ったように見えた。


先ほど、俺の足を押し返した何か。


「今のは――」


「見るでない」


白那が低く言った。


「何かいたぞ」


「水が濁れば、見えぬ物まで見えた気になる。愚か者」


「でも、さっき俺の足を――」


「今は黒い羽根の方が先じゃ」


そう言いながらも、白那は水面から目を離さなかった。


「……まだ、おったか」


白那が小さく呟いた。


「何がだ?」


「そなたには関わりのないことじゃ」


「命を助けられたかもしれないのに?」


「恩を感じるのは勝手じゃ。姿も分からぬ者へ団子を渡すのは許さぬ」


「まだ団子の話はしてないだろ」


「先に釘を刺しておるのじゃ」


白那は嫌そうに鼻を鳴らした。


「昔より、水辺には余計な者がおる」


「敵なのか?」


「敵とも味方とも申しておらぬ」


白那は水面を睨んだまま答えた。


「人の世が乱れるほど、水辺で騒ぎたがる者がおるのじゃ」


「じゃあ、さっき助けたのは……」


「気まぐれであろう」


水路の底から、小さな泡が一つ浮かんだ。


ぷくり。


白那の眉が、わずかに吊り上がる。


「……聞いておるな」


「誰に言ってるんだ?」


「そなたではない」


白那は、それ以上何も言わなかった。


濁った水が、黒い羽根の下を流れていく。


城の内側から水路へ来た、何者か。


その者が、水門を壊したのか。


城の様子を探るためか。


それとも、人々の間に疑いを生むためか。


まだ、何も分からない。


「左近」


「はっ」


「水門を壊した者を探してくれ。ただし、城内の者を片端から疑うな」


「承知」


「今後、水番を一人にはしない。必ず二人一組にする」


「はっ」


「交代した時刻と、水の色、匂い、流れも書き残す」


「そこまでいたしまするか」


「ああ。異変が起きた時、誰か一人の責任にしないためだ」


俺は水番の若者を見た。


「傷の手当てをしろ。その後、昨夜見たものを最初から聞かせてくれ」


「私を……罰せられぬのでございますか」


「水門を守ろうとした者を罰する理由はない」


若者の目に涙が浮かんだ。


「ただし、次は黙るな」


「はい」


「失敗することより、黙って被害を広げる方が怖い」


「……はい!」


俺は周囲の者たちへ向き直った。


「井戸、水路、湯殿をすべて調べる。異変を見つけても、一人で動くな。必ず誰かを呼べ」


「はっ!」


人々が散っていく。


俺も水路の先へ向かおうとしたところで、白那に袖を引かれた。


「まだじゃ」


「まだ叱るのか?」


「当然じゃ」


白那は俺を見上げた。


「そなたも同じぞ」


「俺も?」


「一人で背負うなと、今しがた申したばかりであろう」


「皆に指示を出しただろ」


「指示を出せば、何もかも己で抱え込んでよいわけではない」


白那は水路の先を睨んだ。


「主とは、先頭で一人死ぬ者ではない」


「物騒なことを言うな」


「黙って聞け」


ぴしゃりと言われた。


「主とは、最後まで皆を帰す者じゃ」


その言葉が、胸の奥へ沈んだ。


帰る場所は、城だけじゃない。


だが、帰る場所を守るために、俺一人が倒れてしまえば意味がない。


守る者もまた、帰らなければならない。


「分かった」


「本当に分かったのであろうな」


「ああ」


「ならばよい」


白那は満足げに頷いた。


そこへ娘が、小さな包みを差し出した。


「白那さま」


「何じゃ」


「朝餉の前ですが、団子を一つ持ってまいりました」


「要らぬ。妾には団子がある」


「では、戻してまいります」


「要らぬとは申したが、下げてよいとは申しておらぬ」


白那は素早く包みを取り上げた。


娘が、くすりと笑う。


「これは供物じゃ。水路を見回る妾への、正当な供物である」


「はい、白那さま」


「笑うでない、小さき湯番」


白那は団子を頬張りながら、水路の先を睨んだ。


その足元で、小さな波紋が広がる。


一つ。


二つ。


まるで、水の底に潜む何者かが、白那の団子を見上げているようだった。


白那は団子を背後へ隠す。


「これは妾の供物じゃ。そなたにはやらぬぞ」


返事の代わりに、水の底から小さな泡が浮かんだ。


ぷくり。


白那は、ますます不機嫌そうに目を細めた。


城の内には、黒い羽根を残した何者かが潜んでいる。


そして、水底にも別の何かがいる。


水は濁った。


その水底で――


二つの影が、動き始めていた。


関ヶ原まで、あと五十九日。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


水番を早合点しかけた湊一と、危険を顧みず足跡を追った小さき湯番。

二人を叱った白那の言葉は、同じところへつながっています。

「一人で背負うな」

そして、水路に残された黒い羽根。

濁った水の底には、敵とは異なる何かも潜んでいるようです。

更新情報や告知画像は、Xでもお知らせしています。

のぞいていただけるとうれしいです。

天手古まい|佐和山若旦那録

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