第十八湯 帰る場所は、城だけじゃない
雨の佐和山で、湊一が向き合うのは、城の外にある「帰る場所」です。
守るべきものは、石垣や湯殿だけではありません。
第十八湯、どうぞごゆるりとお楽しみください。
第十八湯 帰る場所は、城だけじゃない
雨は、夜半から降り続いていた。
佐和山の屋根を叩き、石垣を濡らし、山裾の道を細い川へ変えている。
朝になっても空は暗い。
湯殿から立ちのぼる白い湯気だけが、やけに明るく見えた。
「父上!」
廊下の向こうから、小さな足音が駆けてくる。
湊一の娘――小さき湯番が、息を切らして立ち止まった。
「麓のお婆さまのお家が、壊れたそうです」
「家が?」
「屋根が落ちて、雨がいっぱい入ってきたと」
湊一は手にしていた帳面を閉じた。
「怪我人は?」
「いないそうです。でも、帰るところがなくなったと……」
その言葉に、湊一の手が止まった。
帰るところがない。
それは現代の湯宿「白峰」で、何度も胸の奥に浮かべた言葉だった。
客が帰ってこなくなった宿。
働く者が、先の見えない不安を抱えた宿。
守りたかったのに、守りきれる自信がなかった場所。
「案内してくれ」
「はい!」
娘がうなずいた、その時だった。
「待て」
廊下の柱にもたれ、白那が腕を組んでいた。
白い髪を肩へ流し、いかにも不機嫌そうに眉を寄せている。
「この雨の中を下りるつもりか、愚か者」
「困ってる人がいるんだろ」
「そなたが濡れて寝込めば、困る者がさらに増える」
「雨くらいで寝込まないよ」
「先日、湯殿で足を滑らせて腰を打った男が、よく申す」
「それは言わない約束だろ」
「妾は約束した覚えなどない」
娘が小さく笑いながら、白那へ蓑を差し出した。
「白那さまの分もございます」
「要らぬ。妾は行くとは申しておらぬ」
「では、ここに置いておきますね」
娘は蓑を畳へ置き、湊一とともに歩き出した。
三歩進んだところで、背後から布の擦れる音がする。
「……要らぬとは申したが、置いてゆけとは申しておらぬ」
振り返ると、白那はしっかりと蓑を羽織っていた。
◇
麓の家は、半ば潰れていた。
雨を吸った茅葺き屋根が片側から崩れ、土壁も大きく剥がれている。
軒先では、腰の曲がった老婆が、濡れた鍋や木椀を拾い集めていた。
「治部さま……」
湊一の姿を認めると、老婆は慌てて地面へ手をつこうとした。
「そのままでいい。怪我はないか」
「はい。おかげさまで、命だけは」
老婆は笑おうとした。
けれど、その唇は震えている。
「昨夜はどこで休んだ?」
「隣の家の納屋を借りましてございます」
「家族は?」
「息子は、城のお役目に出ております。嫁は早くに亡くなり、孫も奉公へ出ました。ここには、わし一人で」
家の奥から、雨が落ちる音がした。
ぽつり。
ぽつり。
囲炉裏の灰は水を吸い、黒く固まっている。
「修理はできそうか」
湊一が尋ねると、同行した役人が渋い顔をした。
「柱も傷んでおります。屋根だけ直しても、長くは持ちませぬ」
「城の材木を少し回せないか」
「なりませぬ」
役人は即座に答えた。
「今は櫓と柵の修繕を優先しております。戦支度を前に、城の材を民家へ回す余裕はございませぬ」
「でも、このままじゃ住めない」
「城内の空き小屋へ移っていただけばよろしいかと」
その言葉に、老婆がびくりと肩を震わせた。
「城へ来れば、雨はしのげる。飯も――」
「殿様」
老婆は、湊一の言葉を恐る恐る遮った。
「ありがたいお話にございます。されど……わしは、ここにいたいのでございます」
「ここに?」
「息子が帰ってきますゆえ」
老婆は、傾いた柱へ手を添えた。
柱には、幼子の背丈を記した傷がいくつも刻まれている。
「一番下が、あの子が五つの頃。その上が七つ。こちらが十の時でございます」
老婆の指が、古い傷をなぞる。
「城のお役目を終えれば、息子はこの家へ帰ってまいります。家がなくなれば、あの子はどこへ帰ればよいのでしょう」
雨の音だけが続いた。
湊一は、すぐには何も答えられなかった。
これまで自分は、佐和山城を「帰る場所」にしたいと考えてきた。
湯がある。
飯がある。
傷ついた者を休ませる場所がある。
けれど――。
「帰る場所は、城だけじゃないんだな」
湊一がつぶやくと、白那が鼻を鳴らした。
「今頃気づいたか」
「気づいていたつもりだった」
「つもりで屋根は直らぬ」
白那は、崩れた軒先から落ちる水を眺めた。
「城は、人を入れる器にすぎぬ。村も家も井戸も畑も失うて、石垣だけ残して何になる」
「戦になれば、城が最後の守りになる」
「最後の守りしか考えぬから、愚かだと申しておる」
白那は小さな手を上げ、山裾を流れる水を指した。
「水は城壁の内だけを巡るか?」
「いや」
「道は城門で終わるか?」
「終わらない」
「ならば、人の暮らしも同じじゃ。帰る場所を作るというなら、城の外まで見よ」
湊一は、雨に煙る村を見渡した。
傷んだ屋根。
細くなった井戸。
ぬかるんだ道。
男手を城へ取られ、残された老人や女、子供たち。
城を守るために人を集めた結果、その者たちが帰る家を弱らせていた。
これでは本末転倒だ。
「役人」
「はっ」
「城の修繕で出た端材は、どうしてる?」
「薪にするか、使えぬものは捨てております」
「使える物は選り分けろ。短い柱、割れた板、古い縄もだ」
「しかし、それだけでは家一軒を直すには足りませぬ」
「足りない分は村で出し合う。大工仕事のできる者を探してくれ。城からは飯を出す」
「飯を、でございますか」
「働いて腹が減ったら、手は止まる。手が止まったら、屋根は直らない」
役人は困惑していた。
湊一は構わず続ける。
「それから、男手が足りない家を調べる。屋根、井戸、土壁、道。壊れかけている場所を全部だ」
「全部となれば、相当な数になりますぞ」
「一度に全部直すとは言ってない。先に、どこが傷んでいるか知っておくんだ」
現代の旅館でも同じだった。
雨漏り。
配管の傷み。
床の軋み。
壊れてから慌てるより、傷んでいる場所を先に把握した方がいい。
「城下の見取り図を作る。井戸の場所、雨宿りできる家、老人や子供だけの家も記す」
役人が目を見開いた。
「何のためでございますか」
「火事や戦になった時、逃げる道が一つしかなかったら人が詰まる。城へ向かう道だけじゃない。隣村へ抜ける道、山の小祠、水のある場所も調べておきたい」
白那の目が、わずかに細くなった。
「ほう」
「何だよ」
「ようやく水守の話を、耳ではなく頭で聞くようになったかと思うてな」
「褒めてる?」
「妾がそなたを褒めると思うか、愚か者」
「思わないけど、一応確認した」
白那は、ふん、と顔を背けた。
けれど、その口元には、ほんの少しだけ笑みがあった。
◇
昼過ぎには、城から端材が運び込まれた。
左近の声かけで、大工仕事に覚えのある足軽たちも数人集まった。
「殿」
左近は崩れた屋根を見上げた。
「戦支度の最中に、民家の屋根直しとは。相変わらず、妙なことをなさる」
「反対か?」
「まさか」
左近は袖をまくった。
「兵が命を懸ける理由は、城壁そのものではござらぬ。その向こうにあるものにございます」
「だったら最初から、そう言ってくれよ」
「殿が自ら気づかねば、意味がございませぬ」
「試すのが好きだな、この人は」
足軽たちと村人が力を合わせ、傾いた柱を起こす。
使える茅を集め、傷んだ箇所へ新しい束を重ねる。
女たちは握り飯を作り、子供たちは細い縄や木片を運んだ。
小さき湯番も、泥だらけになりながら走り回っている。
「父上、こちらの縄は使えますか?」
「使える。滑るから気をつけろよ」
「はい!」
娘が縄を抱えて戻っていく。
その後ろを、白那が団子を持って歩いていた。
「白那、何してるんだ」
「見れば分かろう。働く者どもを見張っておる」
「団子を食べながら?」
「これは見張り役への供物じゃ」
「誰が供えたんだ」
「小さき湯番じゃ」
娘が遠くから振り返った。
「白那さまが、毒見をしてやるとおっしゃいました!」
「全部食べたら毒見にならないだろ」
「毒が最後の一口に入っておるやもしれぬ」
「便利だな、その理屈」
「妾の務めを疑うでない」
白那は最後の団子を頬張り、満足そうに目を細めた。
その頬には、茅の切れ端が一つ貼りついている。
娘が近寄り、背伸びをして取ってやった。
「白那さま、ついておりました」
「……分かっておった」
「はい」
「妾が取らせてやったのじゃ」
「はい、白那さま」
娘が嬉しそうに笑う。
白那は気まずそうに顔を背け、空になった串を湊一へ押しつけた。
「若旦那。これを捨てておけ」
「俺はゴミ箱じゃないんだけど」
◇
夕暮れ前。
傾いていた家の屋根は、どうにか雨をしのげる形へ戻った。
新しくした柱と古い柱では色が違う。
壁も完全には直っていない。
それでも囲炉裏には火が入り、湿った部屋に白い煙がゆっくりと昇った。
「これで今夜は眠れる」
湊一が言うと、老婆は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
「まだ応急処置だ。雨が上がったら、壁も直そう」
その時、村の入り口から一人の男が走ってきた。
「母者!」
泥にまみれた足軽だった。
城の役目を終え、家へ戻ってきたのだろう。
男は修繕された屋根を見上げ、それから老婆の姿を確かめた。
「家が潰れたと聞いて……」
「この通りじゃ。殿様方が直してくださった」
男はその場に膝をついた。
湊一へではない。
母親の前へ、崩れるように座り込んだ。
「ただいま戻りました」
老婆が、男の濡れた頭へ手を置く。
「おかえり」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、湊一の胸に深く残った。
立派な城門もない。
広い湯殿もない。
豪華な膳もない。
あるのは、継ぎはぎの屋根と、煙の上がる囲炉裏だけ。
それでも、ここは確かに帰る場所だった。
帰る者を待つ人がいる。
帰った時に「おかえり」と言ってくれる人がいる。
帰る場所とは、建物だけではない。
そこに残された人の想いまで含めて、帰る場所なのだ。
「父上」
娘が湊一の袖を引いた。
「城へ帰りましょう」
「ああ」
「母上も、お待ちです」
湊一は佐和山を見上げた。
夕暮れの山上に、城の影が浮かんでいる。
その麓では、いくつもの家から細い煙が昇っていた。
「白那」
「何じゃ」
「城も、村も、家も、全部守るなんて言ったら――やっぱり欲張りかな」
「欲張りではない」
白那は珍しく、すぐに答えた。
「無謀じゃ」
「もっと悪くなってないか?」
「されど」
白那は、家の戸口で寄り添う親子を見た。
「無謀を承知で手を伸ばさねば、守れぬものもある」
山裾の小祠から、鈴の音が聞こえた。
ちりん。
その音は城へ向かう道だけでなく、村へ続く細い道にも静かに流れていった。
湊一は、役人が作り始めた見取り図へ目を落とす。
城へ続く道。
山へ逃れる道。
井戸。
小祠。
人が身を隠せる場所。
今は、ただの村の見取り図にすぎない。
けれどいつか、この道が誰かの命をつなぐことになるかもしれない。
帰る場所は、城だけではない。
だからこそ湊一は、城壁の外にある暮らしまで、決して見失わぬと心に決めた。
関ヶ原まで 六十日
お読みいただき、ありがとうございました。
城が残っていても、帰る家や待ってくれる人を失えば、それは本当の意味での「帰る場所」にはならない。
今回作られ始めた城下の見取り図と逃げ道は、やがて佐和山に迫る大きな災いの中で、誰かの命をつなぐ道となっていきます。
そして次話からは、新章――
「水は濁り、影は動く」
へ入ります。
第十九湯以降、佐和山の水と人の心に、少しずつ不穏な濁りが広がっていきます。
水路に生じる異変。
夜の城下を動く影。
湊一の善意だけでは救えない者たちと、善意につけ込もうとする者たち。
左近は城内に忍び寄る気配へ目を光らせ、湊一は「人を信じること」と「疑うこと」の間で揺れることになります。
小さき湯番と白那の絆。
妻子を守るための道と小祠。
清正との消えない隔たり。
そして、佐和山へ少しずつ伸びてくる黒い影。
湯と飯と笑い声のあった城に、これまでとは違う緊張が入り始めます。
次回――
第十九湯 白那、叱る
白那が叱るのは、愚かな若旦那か。
それとも、人の心を濁らせる何者か。
次湯も、どうぞよろしくお願いいたします。




