第十七湯 妻の膳、冷めぬうちに
今回は、佐和山の立て直しから少し離れ、家族の膳のお話です。
誰かのために温められた食事は、待つ人の気持ちそのもの。
湊一は、その湯気が消える前に帰れるでしょうか。
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天手古まい|佐和山若旦那録
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第十七湯 妻の膳、冷めぬうちに
その夜、湊一が自室へ戻った時には、膳の汁はすっかり冷めていた。
「……また、やってしまったな」
思わず漏れた声に、返事はない。
膳の上には、麦を混ぜた飯。
青菜の煮物。
味噌を溶いた汁。
決して豪華なものではない。
それでも、忙しい城の台所で、妻が自分のために用意させたものだと分かった。
椀へ指を添える。
冷たい。
「殿」
控えていた女房が、遠慮がちに声をかけた。
「温め直させましょうか」
「いや……待て」
今日も、朝から城下を歩き回っていた。
壊れた水路の修繕。
飯場へ運ぶ薪の手配。
兵糧蔵の湿り具合。
左近からは、また戦支度について耳の痛い話を聞かされた。
どれも必要なことだった。
どれも後回しにはできない。
けれど――。
「妻は、もう休んだのか」
「先ほどまで、こちらでお待ちでございました」
「ここで?」
「はい」
女房は、冷えた膳へ視線を落とした。
「殿がお戻りになれば、共に召し上がると」
「……」
「ですが、姫様がお眠くなられましたので、お部屋へ戻られました」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
湯宿の若旦那だった頃。
客に出す料理のことなら、いくらでも気が回った。
汁は冷めていないか。
飯は乾いていないか。
料理を出す間が空きすぎていないか。
けれど、自分の食事となれば、帳場の隅で冷えたものをかき込んで終わり。
それで構わないと思っていた。
だが、これは自分一人の膳ではない。
誰かが待っていた膳だ。
「妻の部屋へ行く」
「今からでございますか」
「今だからだ」
冷めた膳を残し、湊一は立ち上がった。
◇
妻の部屋へ近づくと、中から小さな話し声が聞こえてきた。
「白那さま。まだ、お休みにならないのですか」
「妾は水守ぞ。夜更かしをしておるのではない。夜の水を見張っておるのじゃ」
「でも、先ほど欠伸をなさいました」
「あれは欠伸ではない」
「お口が、とても大きく開いていました」
「息を深く吸うておっただけよ。余計なところばかり見ておるな、小さき湯番」
娘と白那らしい。
湊一が戸を開けると、二人が揃ってこちらを振り返った。
布団に入った娘の隣で、幼い姿の白那が団子を握っている。
白い髪は少し乱れ、頬には団子の粉がついていた。
「……夜の水を見張る者が、なぜ寝床で団子を食べているんだ」
「供物を粗末にせぬためじゃ」
「夜中に供物が必要なのか」
「水守の務めに昼夜はない」
「それ、食べたいだけだろ」
「愚か者。妾ほどの者が、団子ごときに心を乱されるものか」
そう言いながら、白那は残りの団子を素早く口へ入れた。
「隠したな」
「証拠は消えた」
「認めてるようなものだぞ」
娘が口元へ指を立てた。
「父上。母上がお休みです」
「あ……すまない」
声を落として奥を見る。
妻は娘の枕元に座ったまま、柱にもたれて目を閉じていた。
眠っているというより、疲れてうとうとしていたのだろう。
湊一が近づくと、気配に気づいて目を開けた。
「殿……」
「起こしたか」
「いいえ」
妻は慌てて姿勢を正そうとしたが、湊一は手で制した。
「そのままでいい」
「お戻りでございましたか」
「ああ。遅くなった」
短いやり取り。
それだけなのに、どこか距離がある。
妻は、夫としての石田三成を知っている。
だが湊一は、二人がこれまでどんな時を重ねてきたのかを知らない。
夫婦でありながら、彼女はまだ、近くて遠い人だった。
「膳を用意してくれたんだな」
「粗末なもので、申し訳ございません」
「粗末じゃない」
「ですが、冷めてしまったでしょう」
「遅くなったのは俺だ」
妻は目を伏せた。
「政務がおありなのです。お気になさらず」
「気にする」
思ったより、強い声が出た。
妻が驚いたように顔を上げる。
「客の膳が冷めたら、俺は台所へ飛んでいく」
「客……でございますか」
「ああ、いや」
また、若旦那だった頃の言葉が出てしまった。
湊一は頭を掻いた。
「飯を出す相手のことだ。せっかく用意したものが冷めれば、作った者も、待っていた者も寂しい」
「殿が、お寂しかったのですか」
「俺というより……」
言いかけて、口を閉じる。
ここで誤魔化してどうする。
「そうだな。寂しかった」
妻の瞳が、わずかに揺れた。
「部屋へ戻ったら、冷えた膳だけがあった」
「……」
「だが、本当に寂しい思いをしたのは、待っていたお前たちの方だろう」
布団の中から、娘がそっと顔を出した。
「父上は、いつもお忙しいです」
「うん」
「母上は、何度も父上のお膳を見ておられました」
「これ」
妻が娘を窘める。
それでも娘は、布団を鼻の下まで引き上げながら続けた。
「湯気がなくなるたびに、もう一度温めましょうかと」
「姫」
「三度目に、もうよいと仰いました」
湊一は何も言えなくなった。
一度ではない。
妻は何度も膳を温め直しながら、自分を待っていたのだ。
白那が空になった串を眺めながら、鼻を鳴らした。
「帰る場所をつくると、偉そうに申しておったな」
「……」
「その張本人が帰らぬのでは、話にならぬ」
「分かってるよ」
「分かっておる者の膳が、なぜ三度も冷める」
「容赦ないな、お前」
「汁と違い、妾の言葉は冷めぬのでな」
妻が、思わず小さく吹き出した。
すぐに口元を袖で隠したが、湊一は見逃さなかった。
「今、笑ったな」
「いいえ」
「笑った」
「白那様のお言葉が、あまりにも……」
「俺には刺さりすぎて笑えないけどな」
「刺さるところがあるうちは、まだ見込みがある。真の愚か者には言葉すら届かぬ」
娘も布団の中で、くすくすと笑う。
張り詰めていた部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
「腹は減っているか」
湊一が妻へ尋ねると、妻は戸惑ったように瞬きをした。
「私は、もう」
「本当に食べたのか」
「……少しだけ」
「なら、一緒に食べよう」
「今からでございますか」
「今からだ」
冷めた膳を運ばせ、新しく作り直すのではなく、温め直してもらう。
汁を鍋へ戻し、火へかける。
飯には少し湯を加え、ふっくらと蒸らす。
青菜も、小鍋で温めれば十分食べられる。
「殿のお食事を、私がいただくわけには」
「俺一人では多い」
「いつも召し上がっておられます」
「今日は急に少食になった」
「嘘をおつきくださいませ」
「妻に嘘が通じなかったな」
妻は困ったような顔をしたあと、諦めたように座り直した。
温め直された膳から、白い湯気が立つ。
湊一は飯を二つの椀へ分けた。
汁も半分ずつ。
青菜も、互いの膳へ分ける。
「少のうございます」
「夜も遅い。これくらいでいい」
「殿は、明日もお働きになるのでしょう」
「なら、朝に食べる」
「朝も早くお出になるではありませんか」
「……よく知っているな」
「妻でございますから」
何でもない言葉だった。
だが、湊一の手が止まった。
妻でございますから。
夫婦なのだから当然だと、彼女は思っている。
自分の知らない三成との年月を、彼女は背負ってここにいる。
「苦労をかけているな」
「今さらでございます」
妻は静かに答えた。
責めるような声ではなかった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「以前の殿も、政務に入られれば周りが見えなくなられました」
「……そうか」
「お食事をお忘れになることも、眠らぬこともございました」
「そこは、あまり変わっていないかもしれないな」
「ですが」
妻は、湯気の向こうから湊一を見た。
「以前の殿は、膳が冷めたことを気になどなさいませんでした」
「今の俺は、気にしすぎか」
「いいえ」
妻の表情が、ほんの少し和らいだ。
「今の殿も、悪くはございません」
その一言だけで、十分だった。
すべてを受け入れてもらえたわけではない。
夫婦の距離が、一晩で埋まるはずもない。
それでも、閉じていた戸が、指一本分だけ開いたような気がした。
「父上」
「何だ」
「わたしも、お腹が空きました」
「さっき食べただろう」
「白那さまのお団子を見ていたら、また空きました」
「妾の団子を見るだけで腹を減らすとは、食い意地の張った小さき湯番よ」
「白那さまには言われたくありません」
「何じゃと」
湊一は笑いながら、自分の飯を少し取り、小さな握り飯を二つ作った。
塩をほんの少し。
一つを娘へ渡すと、顔を輝かせた。
「白那も食べるか」
「要らぬ。妾には団子がある」
「そうか」
湊一が握り飯を引っ込めようとすると、白那の小さな手が素早くその袖を掴んだ。
「待て」
「いらないんだろ?」
「要らぬとは申したが、下げてよいとは申しておらぬ」
「どういう理屈だ」
「供物を粗末にするな、ということじゃ」
「結局、食べたいだけだろ」
「愚か者。これは毒見ぞ」
「俺たち、もう食べてるぞ」
「遅効性かもしれぬ」
「握り飯にどれだけ警戒してるんだよ」
白那は澄ました顔で握り飯を受け取ると、すぐに頬張った。
幼い頬が、もぐもぐと丸く動く。
「……悪くない」
「そりゃどうも」
「もう一つあれば、さらに詳しく調べてやる」
「毒見じゃなくて、おかわりだろ」
「水守の務めに口を挟むでない」
娘は自分の握り飯を半分に割ると、その片方を白那の前へ差し出した。
「では、こちらも毒見してください」
「妾を何だと思うておる」
「水守さまです」
「分かっておるではないか」
白那はしばらく娘と握り飯を見比べたあと、尊大に顎を上げた。
「そこまで申すなら、受け取ってやろう」
「半分こです」
「妾は半分など求めておらぬ」
「でも、受け取るのですね」
「供物を拒むのは、水守の名折れじゃ」
白那は文句を言いながら、娘から差し出された半分も口へ入れた。
「白那、お前が一番食べてないか?」
「力ある者には、それに見合う供物が必要なのじゃ」
「さっきまで団子を食べてたよな」
「それは夜の分」
「今の握り飯は?」
「深夜の分じゃ」
「刻みすぎだろ」
妻が、また笑った。
今度は袖で隠さなかった。
家族で囲むには、あまりにも小さな膳だった。
豪華な料理もない。
温め直した汁と、麦飯と、わずかな青菜だけ。
それでも、一人で食べる冷えた膳より、ずっと温かかった。
「明日から、毎日は難しいかもしれない」
湊一は妻へ言った。
「だが、戻れない日は先に知らせる。戻れる日は、膳が冷める前に帰る」
「お約束できますか」
「ああ」
「白那様にも聞いていただきました」
「妾を証人にするとは、よい度胸じゃ。破れば井戸へ沈めるぞ」
「約束を破っただけで刑が重すぎないか?」
「では、三日ほど湯を抜く」
「城中から恨まれるだろ、それ」
「ならば、膳が冷める前に帰れ。話は簡単じゃ」
妻は笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。
「では、明日はお待ちしております」
「ああ」
「冷めぬうちに」
「必ず帰る」
口にしてから、湊一は思った。
帰る場所とは、城や屋敷のことではない。
そこにいる誰かが、自分のために膳を温めてくれる場所。
そして、その膳が冷める前に帰ろうと思える場所だ。
佐和山を、誰かが帰れる場所にする。
そのためには、まず自分自身が、ここへ帰らなければならない。
小さな部屋に、白い湯気が立つ。
妻と娘と、握り飯を頬張る水守がいる。
「白那、頬に飯粒がついてるぞ」
「ついておらぬ」
「ついてます、白那さま」
「見るでない」
「取ってあげます」
「触るでない、小さき湯番。妾を子供扱いするな」
「今は、わたしより小さいです」
「……明日、覚えておれ」
幼い水守の頬を、娘が楽しそうに拭う。
妻の笑い声が、また静かに響いた。
今夜の膳は、もう冷めてはいなかった。
関ヶ原まで――あと六十一日。
第十七湯をお読みいただき、ありがとうございました。
「帰る場所」をつくろうとしている湊一ですが、まず向き合わなければならないのは、最も近くで自分を待ってくれている家族でした。
豪華な料理ではなくても、誰かと囲む膳は温かい。
そして白那は今回も、毒見という名目でしっかり食べています。
次回も、佐和山に立つ小さな湯気を見守っていただけましたら幸いです。




