第十六湯 左近、若旦那を試す
今回は、左近が若旦那の覚悟を試します。
優しいだけでは、人も城も守れない。
けれど、優しさを捨ててしまえば、湊一が目指す「帰る場所」ではなくなってしまいます。
若旦那なりの答えを、見届けていただければ幸いです。
第十六湯 左近、若旦那を試す
朝餉を終えた佐和山の庭に、乾いた音が響いた。
ぱしん。
湊一の手から、木刀が弾き飛ばされる。
「……痛っ」
思わず右手を押さえると、正面に立つ島左近が、呆れたように息を吐いた。
「戦場であれば、今ので腕が落ちておりますな」
「朝飯の直後に呼び出されて、いきなり木刀を持たされた俺の身にもなってくれ」
「敵が、腹ごなしを待ってくれるとでも?」
「待たないだろうけどさ……」
現代の湯宿なら、朝食後の客に木刀を持たせることなど絶対にない。
苦情どころか、事件である。
だが、ここは戦国の佐和山だ。
宿泊約款もなければ、口コミ欄もない。
あるのは、容赦のない家臣だけだった。
縁側では、小さき湯番が膝の上に団子の皿を載せている。
その隣には、白那がいた。
白い頬をふくらませ、串を両手で握りしめている。
「白那さま。父上が、また倒されました」
「見れば分かる」
「助けなくてよいのですか?」
「なぜ、わたしが助ける」
白那は団子をひと口かじり、冷ややかに言った。
「自分で立てぬ男が、人の帰る場所など守れるものか」
「聞こえてるぞ」
「聞かせている」
相変わらず、口だけは幼くならない。
左近が、木刀の切っ先を湊一へ向けた。
「もう一度」
「まだやるのか?」
「殿は近頃、湯を整え、飯を整え、人の顔を見て歩いておられる」
「悪いことじゃないだろ」
「悪いとは申しておりませぬ」
左近の声から、わずかな笑みが消えた。
「されど――それだけで、この城が守れるとお考えか」
庭の空気が変わった。
湊一は地面から木刀を拾い上げる。
「守れるようにするために、やっている」
「ならば、お示しくだされ」
「何を?」
「若旦那の情けとやらが、戦の世でも人を救えることを」
左近が木刀を下ろした。
「本日の役目は、兵糧を積んだ荷車を、麓の蔵まで届けることにございます」
「護衛か」
「殿お一人で」
「一人?」
「荷車を引く者は三人。いずれも戦を知らぬ者たちです」
「待て。それを俺一人で守れって?」
「嫌なら、おやめになりますか」
露骨な挑発だった。
だが、左近の目は笑っていない。
湊一は木刀を腰へ差した。
「やる」
「よろしい」
左近は振り返りながら告げた。
「ただし、ひとつだけ」
「まだあるのか」
「道中で何を失うかは、殿がお決めくだされ」
◇
荷車には、米俵が六つ積まれていた。
城下の者たちが何日も口にする、大切な兵糧だ。
車を引くのは、年老いた男と若い百姓、それに十代半ばほどの少年だった。
「治部様に荷車を守っていただくとは……」
老人は恐縮していたが、湊一の方こそ不安だった。
道は狭く、片側は林。
もう片側は、雨でぬかるんだ斜面である。
旅館の送迎車なら、間違いなく通行を見合わせる道だ。
「ゆっくり行こう。米俵より、まず足元を見ろ」
「されど、日が高くなる前に届けねば」
「急いで転んだら、もっと遅くなる」
そう言った直後だった。
林の奥で、枝が折れた。
次いで、黒い布で顔を隠した男たちが三人、飛び出してきた。
「米を置いていけ!」
少年が悲鳴を上げる。
若い百姓は荷車から手を離し、後ずさった。
湊一は木刀を抜いた。
――本当に来た。
左近の試しなら、相手も家臣かもしれない。
だが、木刀を握る男たちの構えに、手加減する気配はない。
「米は渡せない」
「ならば、腕ごともらう!」
一人が斬りかかってくる。
湊一は木刀で受けた。
腕が痺れ、足が下がる。
二人目が荷車へ回った。
「そっちは駄目だ!」
追おうとした瞬間、背後で声がした。
「治部様!」
少年が斜面へ足を滑らせていた。
荷車の重みで綱が引かれ、細い身体が泥の上をずるずると引きずられていく。
米を奪おうとする男。
転げ落ちかける少年。
一瞬で、選ばなければならない。
――何を失うかは、殿がお決めくだされ。
左近の言葉が脳裏によみがえった。
湊一は木刀を捨てた。
少年へ駆け寄り、その腕をつかむ。
「綱を放せ!」
「ですが、米が!」
「いいから放せ!」
少年が手を離した。
湊一はその身体を抱え、泥の上へ転がる。
その横を、荷車がゆっくりと傾いていった。
米俵がひとつ、ふたつと斜面へ落ちる。
「米が……!」
「命より重い米俵なんて、あるか!」
湊一が叫んだ、そのとき。
黒布の男たちが動きを止めた。
林の中から、左近が姿を現す。
「そこまで」
男たちは顔の布を外し、揃って頭を下げた。
やはり、佐和山の兵たちだった。
少年は何が起きたのか分からず、泥まみれのまま目を丸くしている。
湊一は左近を睨んだ。
「やり過ぎだ」
「戦場では、この程度では済みませぬ」
「だからって、子どもを斜面へ落とすのか」
「綱には細工がしてあります。落ちる前に止まるようになっておりました」
「そういう問題じゃない」
「では、どういう問題で?」
左近は斜面へ転がった米俵を見下ろした。
「殿は兵糧を失われた。あの米が届かねば、腹を空かせる者が出ます」
「分かっている」
「米を守れば、少年を失ったやもしれぬ」
「それも分かっている」
「では、なぜ少年を選ばれた」
湊一は、泥のついた手を握った。
「米は、また集められる」
「集まらぬとしたら?」
「俺が頭を下げる」
「誰も差し出さぬとしたら?」
「俺の分を減らす」
「それでも足りぬとしたら?」
左近の問いは止まらない。
湊一は唇を噛んだ。
湯宿では、困った客がいれば別の部屋を用意できた。
食事が足りなければ、追加で作ることもできた。
誰かが倒れれば、救急車を呼べた。
だが、この時代には何もない。
米を失えば、本当に誰かが飢える。
一人を救ったことで、別の誰かが苦しむこともある。
優しくすれば、すべて丸く収まるわけではない。
「……それでも」
湊一は少年の肩を支え、立ち上がらせた。
「ここでこの子を見捨てたら、俺は二度と『帰ってこい』なんて言えない」
左近の眉が、わずかに動いた。
「帰る場所を作ると言いながら、その途中で人を切り捨てるのは違う」
「甘いですな」
「ああ。たぶん、甘い」
湊一は素直に認めた。
「でも、甘いままで守れる方法を探す」
「その方法が見つからなければ?」
「見つけるまで考える」
「敵は待ちませぬぞ」
「だから、左近がいるんだろ」
左近が黙った。
「俺一人じゃ、米と人を同時に守れない。だけど、一人で守る必要もない」
湊一は黒布を外した兵たちを見る。
「荷車の前後に一人ずつ。林へ斥候を出す。坂道では俵を半分に分けて運ぶ。急ぐなら、人を増やす」
「兵が足りなければ?」
「普段から役目を決めておく。誰が水を守るか、誰が飯を運ぶか、誰が道を見るか」
井戸番を置いたときと同じだ。
誰か一人の力に頼れば、その一人が倒れたとき、すべてが崩れる。
「俺が強くなるだけじゃ駄目だ」
湊一は、泥の中に落ちた木刀を拾い上げた。
「人を守れる仕組みを作る。それが、俺の戦い方だ」
長い沈黙のあと、左近が笑った。
大声ではない。
喉の奥で、ほんのわずかに。
「ようやく、殿らしい答えが出ましたな」
「最初から、それを聞きたかったのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「殿が、どれほど使い物にならぬか確かめたかった」
「そっちはどうだった」
「木刀の腕は、まるで使い物になりませぬ」
「即答するなよ」
「されど――」
左近は斜面へ降り、泥まみれの米俵を肩へ担いだ。
「兵を見捨てぬ殿ならば、兵もまた、殿を見捨てますまい」
他の兵たちも続いて俵を拾う。
少年も手伝おうとしたが、湊一が止めた。
「お前は荷車を押してくれ。足を痛めてる」
「ですが……」
「役目を分けるんだろ」
少年は少し迷ったあと、力強くうなずいた。
◇
夕刻。
泥だらけで城へ戻ると、小さき湯番が湊一を見て駆け寄ってきた。
「父上、お怪我をされたのですか?」
「擦りむいただけだよ」
「左近殿に、また負けたのですか?」
「……まあ、だいたい合ってる」
縁側では、白那が最後の団子を持ったままこちらを見ていた。
「無様だな」
「今日は否定できない」
「米も落とした」
「見てたのか?」
「水の近くで起きたことは、だいたい分かる」
便利なのか、怖いのか、判断に困る力である。
白那は団子をじっと見つめた。
それから、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……これをやる」
差し出された串には、団子がひとつだけ残っていた。
「いいのか?」
「勘違いするな。供物の余りだ」
「さっき最後の一本って言ってなかったか?」
「黙って食べろ」
湊一が受け取ろうとすると、その前に、小さき湯番が白那の袖を引いた。
「白那さま。半分こでは?」
「これは小さい。半分にはできぬ」
「できます」
「できぬ」
「できます」
二人はしばらく団子を挟んで見つめ合った。
結局、そのひとつは三つに切られた。
ひどく小さくなった団子を口に入れながら、湊一は庭を見る。
兵たちが、泥のついた米俵を干していた。
荷車を引いていた少年も、その輪の中で笑っている。
湯を沸かすだけでは、帰る場所は守れない。
飯を作るだけでも足りない。
そこへ続く道を守り、人を守り、失わずに帰す力がいる。
優しさだけでは届かない。
けれど、優しさを捨ててまで強くなりたいとは思わなかった。
ならば――優しさを守れるだけの強さを、皆で作ればいい。
遠くで、澄んだ鈴の音が鳴った。
ちりん。
白那は聞こえなかったふりをして、小さな団子を大事そうに噛んでいた。
関ヶ原まで 六十二日
左近の問いに対し、湊一は「強い者になる」だけではなく、「皆で守れる仕組みを作る」と答えました。
戦国の世では、何かを守るために、別の何かを切り捨てなければならない場面も増えていきます
それでも、湊一には若旦那としての甘さを、簡単には捨ててほしくありません。
そして白那は、最後の団子を分けるくらいには、ちゃんと見ていました。
次湯も、よろしくお願いいたします。




