第十四湯 小さき湯番と井戸の祠
いつもお読みいただきありがとうございます。
予定より早くなりましたが、
第十四湯は、佐和山の井戸と小さな祠、そして「小さき湯番」のお話です。
戦や政から少し離れた静かな一日。
けれど、鈴と水音の中には、やがて訪れる別れと、その先にある「帰る場所」へつながるものが、ひっそりと置かれています。
どうぞごゆるりと、第十四湯へ。
第十四湯 小さき湯番と井戸の祠
朝の佐和山は、湯気より先に鳥の声で目を覚ます。
夜露を含んだ土の匂い。
井戸から汲み上げたばかりの水の冷たさ。
台所では薪がぱちりと爆ぜ、城のあちらこちらから、人の働く音が聞こえ始めていた。
白瀬湊一――石田三成は、湯殿へ運ぶ水桶を確かめながら声を上げた。
「そちらは台所へ。湯殿の分は、日が高くなる前に汲み替えてくれ」
「はっ、殿」
小者たちが桶を担いで走っていく。
もう誰も、城主が井戸水の扱いにまで口を出すことを不思議がらなくなっていた。
慣れたのか。
諦めたのか。
たぶん、その両方だろう。
けれど、湯も飯も、人が生きるためには欠かせない。
戦の話だけをして城が回るなら、現代の湯宿で若旦那などという仕事は、最初から必要なかったはずだ。
「父上!」
明るい声に、湊一は振り返った。
三女――城の者たちから、いつしか「小さき湯番」と呼ばれるようになった娘が、盆を胸の前に抱えて駆けてくる。
盆の上には、白湯の入った椀が二つ。
「走るな。転ぶぞ」
「転びません!」
そう言った直後、石の継ぎ目につま先を取られた。
「あっ」
盆が傾く。
湊一が手を伸ばすより早く、白い袖がひらりと割り込んだ。
小さな手が盆の端を支える。
椀がかすかに鳴ったものの、白湯は一滴もこぼれなかった。
「鈍いのう、主」
白那が、いかにも呆れた顔で立っていた。
朝日に照らされた白い髪。
少し偉そうに上がった顎。
娘を支えている指だけが、妙にやさしい。
「お前が速すぎるんだ」
「己の遅さを、わしのせいにするでない」
白那は娘の顔をのぞき込んだ。
「小さき湯番。湯を運ぶ者が湯をこぼして、どうする」
「こぼしておりません」
「わしがおらねば、今ごろ石が白湯を飲んでおった」
娘はむっと唇を尖らせた。
「石も喉が渇くことはあります」
「ほう。では次からは、父上の分ではなく石へ飲ませるか」
「それはなりません」
「ならば、歩け」
「……はい」
娘は素直に足を緩めた。
白那も、その隣を歩き始める。
口では厳しいことを言いながら、娘の歩幅にきちんと合わせているあたりが白那らしい。
「父上」
娘が振り返る。
「今日は、井戸の奥へ行ってもよろしいでしょうか」
「井戸の奥?」
「白那さまが、見せたいものがあると」
湊一は白那へ目を向けた。
白那は、いつの間に取り出したのか、団子の串を手にしていた。
「おい」
「何じゃ」
「その団子、どこから出した」
「供物じゃ」
「誰が供えた」
「水が運んできた」
「水に団子を運ぶ機能はない」
「主の知らぬ水もある」
白那は悪びれもせず団子を頬張り、空いた手で娘の肩を軽く押した。
「行くぞ、小さき湯番」
「はい!」
「待て待て」
湊一が呼び止めると、白那が面倒そうに振り返った。
「何じゃ。主も来たいのか」
「何を見せるつもりか聞いてるんだ」
「祠じゃ」
「祠?」
「井戸のそばにある小祠じゃ。主は水桶の数ばかり見ておるから、気づいてもおらぬであろう」
図星だった。
井戸には毎日足を運ぶ。
だが、水を汲むことばかり考え、その脇に何があるのかまで、じっくり確かめたことはない。
「危ない場所ではないんだな」
「心配性よの」
「親なんだから当たり前だ」
白那は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そういうものか」
「そういうものだ」
娘はすでに白那の袖をつまみ、出発を待っている。
止めたところで、あとでこっそり行きかねない。
それならば、白那がついているうちに見せたほうがいい。
「一人で井戸をのぞき込むな。足元の悪い場所へは行かないこと。日が高くなる前に戻ること」
「はい!」
「注文が多いのう」
「娘を預ける相手が相手だからな」
「わしほど頼れる者もおるまい」
白那は胸を張る。
その手には団子の串がある。
説得力は、半分ほどだった。
二人の小さな背中が並び、井戸のある裏手へ消えていく。
湊一はしばらく見送っていたが、台所から慌ただしい声が飛んできた。
「殿、味噌が足りませぬ!」
「今行く!」
佐和山の朝は、父親の心配など待ってはくれなかった。
◇
井戸は、城の裏手にある土塁の陰にひっそりと口を開けていた。
表の台所や湯殿ほど、人は近づかない。
丸く積まれた石には苔が生え、その傍らには、大人の膝ほどの小さな石祠が建っている。
祠の屋根は一部が欠け、周囲には伸びた草が絡んでいた。
それでも、そこだけ空気が澄んでいる。
冷たいというより、静かだった。
耳を澄ませれば、地の底を流れる水の気配さえ感じられそうな場所だった。
「ここが、祠ですか」
娘が小声で尋ねる。
「うむ」
白那も、いつものからかうような口調を収めていた。
「この井戸は、ただ水を汲むためだけにあるのではない」
「では、何のためにあるのですか」
「水を忘れぬためじゃ」
娘は首をかしげる。
白那は石祠の前へしゃがみ込み、屋根に積もった枯れ葉を払った。
その陰から、小さな鈴が現れた。
銀とも錫ともつかぬ、古びた鈴だった。
華やかな飾りはない。
けれど、長い時を誰かの手に守られてきたような、鈍くやさしい光を宿していた。
「きれい……」
娘が呟く。
「鳴らしてみるか」
「よいのですか?」
「祠が驚くほど乱暴にせねばな」
娘はおそるおそる鈴の紐に触れた。
そっと揺らす。
ちりん。
澄んだ音が鳴った。
その瞬間。
井戸の底から、かすかな水音が返ってきた。
ぽたり。
雫が落ちた音とは、少し違う。
もっと深いところから、誰かが答えたような音だった。
娘は目を丸くする。
「白那さま。今、お水が……」
「聞こえたか」
「はい。お返事したように聞こえました」
「ならば、そうなのじゃろう」
白那は否定しなかった。
娘は井戸の縁へ近づきすぎぬよう気をつけながら、暗い底へ耳を傾けた。
目には見えない。
けれど、確かに水はそこにいる。
山の中を流れ、井戸へ集まり、桶に汲まれ、湯殿で人を温める水。
「この鈴は、何のためにあるのですか」
娘が尋ねた。
白那は、すぐには答えなかった。
木々の間を風が抜ける。
葉擦れの音が、祠を撫でていく。
やがて白那は、娘をまっすぐに見た。
「この鈴は、遠くへ行っても水音を忘れぬためのもの」
「遠くへ……?」
「人は遠くへ行くと、今いる場所の音を忘れる」
白那の声は静かだった。
「井戸の音。湯の湧く音。飯をよそう音。誰かが歩く音。帰れば、いつでも聞けると思っていたものほど、離れると少しずつ思い出せなくなる」
娘の顔が曇る。
「みんな、忘れてしまうのですか」
「忘れぬ者もおる。忘れまいと、必死に抱える者もおる」
白那は、鈴へ指を触れた。
ちりん。
再び、井戸の底から水音が返る。
「それでも、心細くなる夜はある。ここがどこであったか。誰が待っていたか。自分が何を守りたかったか、分からなくなる夜もある」
娘は黙って聞いていた。
言葉のすべては分からないだろう。
けれど、白那が大切なことを話しているのだと感じている顔だった。
「そのとき、音が道になる」
「音が、道に?」
「目には見えぬ。じゃが、人を帰すことはできる」
娘は鈴を見つめた。
そして、もう一度だけ静かに鳴らす。
ちりん。
水が応える。
ぽたり。
「忘れたくありません」
娘が呟いた。
「何をじゃ」
「父上も、母上も、兄上たちも、佐和山も」
少し迷ってから、娘は付け加えた。
「白那さまのことも」
白那の目が、わずかに見開かれた。
「最後のは、別に忘れてもよい」
「嫌です」
「わしの許しもなく、勝手な娘じゃ」
「忘れたくないのです」
「……主に似て、しつこいのう」
言葉とは裏腹に、白那の声は少しやわらかかった。
娘も、それに気づいたのか、嬉しそうに笑う。
白那は祠から鈴を外した。
掌の上でしばらく転がし、やがて娘へ差し出す。
「持て」
「わたしが?」
「今は預けるだけじゃ」
娘は両手で鈴を受け取った。
小さな掌に収まるほどの鈴だったが、思ったよりも重い。
冷たいはずの金属が、なぜかほんのりと温かかった。
「よいか、小さき湯番」
白那が、娘の手ごと鈴を包む。
「これを鳴らすのは、ほんとうに心細いときだけでよい」
「心細いとき……」
「誰もおらぬように思えても、水はつながっておる。井戸も、川も、湯も、雨も。どれほど遠くへ行こうと、すべてが途切れるわけではない」
娘は真剣にうなずいた。
「はい」
「もし、帰る道が分からなくなったなら――」
白那は井戸の底へ目を向けた。
「水音のするほうへ行け」
娘は鈴を強く握りしめる。
「覚えました」
「ならばよい」
白那が立ち上がった。
そのとき、背後で枝の折れる音がした。
「――何を覚えたって?」
娘が、びくりと振り返る。
腕を組んだ湊一が立っていた。
「父上!」
「……主」
白那がわずかに目をそらす。
どうやら、多少は後ろめたいらしい。
「台所から戻ったら二人ともいないし、井戸のほうから鈴の音はするし。嫌な予感しかなかったんだけど」
「嫌とは何じゃ」
「お前と娘が二人で、人気のない井戸の祠にいるんだぞ。普通じゃないだろ」
「普通でないから、わざわざ見に来たのであろうが」
正論なので反論しづらい。
湊一は娘を見る。
頬が少し赤い。
だが、怖がっている様子はなかった。
むしろ、何か大切な宝物を抱えたような顔をしている。
「何をしていたんだ?」
「祠を見せていただきました」
「うん」
「鈴も鳴らしました」
「うん」
「お水がお返事しました」
「……うん?」
急に話が分からなくなった。
湊一が困った顔をすると、娘は少し得意げに笑う。
父が知らないことを、自分は知っている。
それが嬉しいらしい。
白那が鼻で笑った。
「主は、いまだ水の声も聞けぬか」
「聞けるわけないだろ」
「未熟者め」
「何の修行が必要なんだよ」
「まずは団子を供えるところからじゃ」
「結局そこへ戻るのか」
娘が、くすくすと笑った。
その手は、いつの間にか袖の中へ隠されている。
湊一は、鈴を持っていることには気づかなかった。
白那も、あえて言うつもりはないらしい。
「父上」
娘が湊一の袖を引く。
「この祠を、これからも大切にしてよいでしょうか」
湊一は、井戸脇の小祠を見た。
屋根は欠け、石段には草が伸びている。
このまま放っておけば、いずれ誰にも気づかれぬまま、苔や土に埋もれてしまうかもしれない。
けれど、ここには何かがある。
神秘や霊験という言葉だけでは片づけられないものが。
井戸から水を汲み、湯を沸かし、人を温める。
佐和山の暮らしを一番深いところから支えているものだ。
「ああ」
湊一はうなずいた。
「大切にしよう。井戸も、祠も――そこにある音も」
娘の顔が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
「ただし、ここへ来るときは一人で来ないこと」
「はい」
「白那、お前もちゃんとついていろ」
「何ゆえ、わしまで叱られるのじゃ」
「お前が一番信用ならないからだ」
「心外じゃ。わしほど頼れる水守もおらぬというのに」
「団子を見つける能力だけはな」
「それも立派な神通力じゃ」
三人は井戸を離れ、城へ戻り始めた。
娘は何度も祠を振り返る。
そのたびに、袖の中で鈴を確かめるように手を握った。
ちり。
かすかな音がした気がした。
風に揺れた葉の音か。
娘の袖の中で鳴った鈴か。
あるいは、井戸の水が小さく笑ったのかもしれない。
湊一には分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
佐和山は、石垣や兵だけでできているのではない。
湯を沸かす水がある。
その水を守る井戸がある。
井戸のそばには小さな祠があり、誰にも気づかれぬ音を鳴らしている。
帰る場所とは、きっとそういうものなのだ。
名もない石も、古びた鈴も、忘れられかけた水音も。
すべてが重なって、ようやく人は「ここへ帰りたい」と思える。
そのときの湊一は、まだ知らなかった。
いつか本当に、妻と子らが佐和山を離れねばならぬ夜が来ることを。
振り返ることさえ許されず、遠い土地へ逃れる日が来ることを。
その暗い道の中で、何を頼りに歩くのかを。
だが、白那だけは知っていたのかもしれない。
城へ戻る途中、白那が娘の背を見つめたまま言った。
「主」
「なんだ」
「井戸のまわりを整えておけ」
「急だな」
「急ではない。遅いくらいじゃ」
「理由は?」
「小さき湯番が、また来られるようにじゃ」
「それだけか?」
「半分はな」
残りの半分を、白那が語ることはなかった。
湊一は小さく息を吐く。
「分かった。草を払って、石段を直す。祠の屋根も見ておこう」
「ついでが多い男じゃ」
「元若旦那の性分だ」
「城主であろうに」
「中身まで急に変わるわけじゃない」
「それでよい」
白那の答えに、湊一は目を瞬いた。
だが白那は、それ以上何も言わず先へ歩く。
前を行く娘が振り返り、大きく手を振った。
「父上、白那さま。早く!」
「今行く」
湊一は歩みを速めた。
井戸の祠は、すでに木々の向こうへ隠れて見えない。
それでも耳の奥には、まだかすかな水音が残っていた。
忘れるな。
いつか遠くへ行く者へ、ここに帰る道があると知らせるように。
佐和山の朝は、今日も湯気の向こうで静かに息づいている。
そのぬくもりが、いつか誰かを帰すことを願いながら。
――関ヶ原まで、あと六十四日。
第十四湯までお付き合いいただき、ありがとうございました。
今回は、小さき湯番と白那が、井戸の祠で古い鈴に触れるお話でした。
白那の言う、
「この鈴は、遠くへ行っても水音を忘れぬためのもの」
という言葉は、この先の物語へつながる大切なものになります。
今はまだ、娘にとっては少し不思議な宝物。
けれどいつか佐和山を離れなければならない日、その鈴と水音が、彼女たちの心を支えることになります。
白那は相変わらず素直ではありませんが、小さき湯番に向ける言葉や手つきには、少しずつ特別なものが混じり始めました。
次の第十五湯では、そんな二人の距離が、団子を挟んでもう一歩近づきます。
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また次の湯でお会いしましょう。




