挿話 三湯 清正、草鞋を干す
今回は、挿話三湯です。
清正が佐和山に泊まった翌朝のお話になります。
まだ素直に礼を言えるほど丸くはない。
けれど、何も感じていないわけでもない。
そんな不器用な男が、濡れた草鞋を干すだけの回です。
湯気と草鞋と、少しだけ面倒くさい友情未満をお楽しみください。
挿話三湯 清正、草鞋を干す
夜明け前の佐和山は、湯気の白さと霧の白さがよく似ていた。
城の石垣は朝露に濡れ、庭先の土は昨日の雨をまだ含んでいる。踏めば、じわりと湿り気が返ってくるような朝だった。
そんな庭先の片隅で、ひとりの大男がしゃがみ込んでいた。
加藤清正である。
清正は、濡れた草鞋を手に取り、火鉢のそばへ並べていた。
それも、ただ放っているのではない。鼻緒の向きを整え、泥を落とし、火に近すぎぬよう、遠すぎぬよう、妙に真面目な顔で置いている。
「……何をしている」
通りかかった三成は、思わず足を止めた。
清正は振り向きもせずに答えた。
「見れば分かろう。干しておる」
「いや、それは分かる。なぜお前が自分で干している」
「草鞋は己の足で履くものだ。己で始末するのが筋であろう」
「……そこだけ律儀だな」
「そこだけ、とは何だ」
清正がようやくこちらを向いた。
朝の薄明かりの中でも、その眉間の皺だけははっきり見える。
三成は軽く息を吐いた。
昨夜、清正は結局、佐和山に一晩泊まった。
泊まった、と言っても、素直に客として湯殿へ入り、飯を食い、布団で眠ったわけではない。
湯は「汗を流すだけだ」と言い、飯は「腹を満たすだけだ」と言い、布団は「横になるだけだ」と言った。
いちいち面倒くさい。
だが、湯を出たあとの顔は少し緩んでいたし、飯の椀はきれいに空になっていたし、布団にはしっかり人の形の跡が残っていた。
つまり、かなり満喫していた。
本人だけが認めていない。
三成は、現代の湯宿で何度もそういう客を見てきた。
素直に「良かった」と言えない客ほど、帰り際に妙なことをする。
玄関の履物をやたら丁寧に揃えたり。
売店の饅頭を、何でもない顔で多めに買ったり。
番頭に「悪くなかった」とだけ言い残して、翌年も同じ日に予約を入れたり。
清正は今、その戦国版をやっている。
濡れた草鞋を、無言で干している。
「替えの草鞋なら用意させる」
三成が言うと、清正は短く鼻を鳴らした。
「いらん」
「濡れた草鞋では足を痛める」
「承知しておる」
「承知していて履くのか」
「乾けばよい」
「だから替えを出すと言っている」
「借りは作らん」
「草鞋一足で借りと言うな」
「言う」
面倒くさい。
大変に面倒くさい。
三成は額に手を当てた。
すると、背後から鈴の音がした。
ちりん、と水を弾くような音。
「まこと、面倒な熊じゃのう」
白那だった。
いつの間に来たのか、井戸端の石に腰掛け、小さな足をぷらぷらさせている。
手には団子。
朝から団子。
しかも二本。
「誰が熊だ」
清正が低い声で言う。
「熊に失礼であったか?」
「そちらではない」
「では虎か。肥後の虎とは、よく言うたものよ。濡れた草鞋を抱えて唸る虎など、見たこともないがの」
白那は団子をひと口かじり、頬をふくらませた。
「これは供物じゃ」
「まだ何も言っていない」
三成が言うと、白那は当然のように胸を張った。
「言われる前に言うておくのが、水守の知恵じゃ」
「ただの言い訳だろう」
「黙れ、湯番。朝の供物は格別なのじゃ」
清正は白那をしばらく見ていた。
昨夜、力を使った反動で幼くなった白那を見た時も、清正は何とも言えない顔をしていた。
口の悪い小さな水守。
だが、その力は人の身の理を少し越えている。
信じるには妙で、疑うには目の前にありすぎる。
清正のような男にとって、それはさぞ扱いにくい存在だろう。
「お前は、いつもそれを食っているのか」
清正が言った。
「それ、とは何じゃ」
「団子だ」
「供物じゃと言うておろう」
「誰からの供物だ」
白那は団子の串をぴたりと止めた。
そして、堂々と言った。
「主に、わしからわしへの供物じゃ」
「……己に供えるな」
「水守は尊いゆえな」
「己で言うな」
三成は思わず口元を押さえた。
清正と白那の会話は、剣呑なようでいて、妙に噛み合っている。
いや、噛み合っているというより、互いに譲らない者同士、真正面からぶつかっているだけかもしれない。
清正は再び草鞋へ視線を戻した。
火鉢の熱が、濡れた藁の匂いを少しずつ立ち上らせる。
湯気とは違う。
飯の香りとも違う。
旅の匂いだった。
土を踏み、水を越え、雨に打たれ、人の家に泊まり、また出ていく者の匂い。
「……佐和山は、妙な所だ」
清正がぽつりと言った。
「今さらか」
三成が返す。
「城に湯があり、飯があり、幼子のような神もおる」
「幼子のような、は余計じゃ」
白那が団子を掲げる。
「しかも城主が、客の草鞋にまで口を出す」
「足を痛められては困るだけだ」
「敵か味方かも定まらぬ者にか」
清正の声は、低かった。
朝霧の中に、昨夜までの温みが少しだけ冷える。
三成は清正を見た。
かつては同じ豊臣のもとにいた。
同じ戦場を見た。
同じものを守ろうとしたはずだった。
だが、今は同じ方角を見ているとは言い難い。
秀吉亡き後、豊臣の家中は静かに、しかし確実に軋み始めている。
清正もまた、その軋みの中にいる男だった。
まっすぐすぎて、曲がれない。
だからこそ、三成とはぶつかる。
「敵か味方かで、濡れた草鞋は乾かん」
三成は言った。
清正が目を細める。
「何?」
「敵でも味方でも、濡れたまま歩けば足を痛める。足を痛めれば、次の道で倒れる。倒れた者を見れば、周りの者が乱れる」
三成は火鉢のそばにしゃがんだ。
清正の草鞋を手に取る。
泥の落とし方が荒い。
雑ではないが、武人の手だ。
湯宿の若旦那としては、少しだけ気になる。
「帰る者には、無事に帰ってもらう。それが宿の務めだ」
「ここは宿ではない。城だ」
「分かっている」
「ならば、なぜ宿のような顔をする」
三成は草鞋の泥を指で落としながら、少し笑った。
「癖だ」
「癖で城を動かすな」
「耳が痛いな」
「本当に分かっておるのか」
「分かっている。だが、城だからといって、人が休んではならぬ道理もない」
清正は黙った。
白那も、その時だけ団子を食べる手を止めた。
庭先の向こうで、井戸の水音がした。
からん、と桶が揺れる音。
それに続いて、小さな足音が近づいてくる。
「父上」
娘だった。
まだ寝起きの名残を残しながらも、小さな手に乾いた布を持っている。
その後ろから、侍女が慌てて追ってきた。
「姫様、朝露で裾が濡れます」
「でも、草鞋が濡れていると聞きました」
娘は三成の隣にちょこんとしゃがみ、清正を見上げた。
「お客様の草鞋ですか?」
清正の眉が、さらに険しくなった。
「客ではない」
「では、父上のお知り合いですか?」
「……まあ、そんなところだ」
三成が答える。
娘は納得したようにうなずき、持っていた布を差し出した。
「これで拭くと、早く乾くそうです。白那さまが、前に教えてくださいました」
「わしは、そんな細かなことまで教えたかの」
白那が首を傾げる。
「教えてくださいました。濡れたままにすると、足が冷えて、心まで意地を張ると」
「うむ。なかなか良いことを言うておるな、わしは」
「自分で感心するな」
三成が言うと、白那は二本目の団子を守るように抱えた。
「湯番、嫉妬か?」
「何にだ」
娘は清正の前に布を置いた。
清正は、それを見て固まった。
大男が、小さな布一枚を前にして固まっている。
戦場で槍を振るう男が、幼い娘の厚意をどう扱えばいいのか分からず、完全に困っている。
三成は内心、少しだけ笑いそうになった。
もちろん、顔には出さない。
出したら面倒なことになる。
「……いらぬ」
清正が低く言った。
娘の肩が、ほんの少し下がる。
だが清正は、すぐに言葉を継いだ。
「いや」
その大きな手が、布を取った。
「借りる」
娘の顔がぱっと明るくなった。
「はい」
「だが、これは借りだ。返す」
「布ですから、お返しは大丈夫です」
「返す」
「では、乾いたら父上に渡してください」
「……承知した」
清正は布で草鞋を拭き始めた。
大きな手に、小さな布。
どうにも不釣り合いだった。
だが、その手つきは乱暴ではない。
泥を落とし、水を吸わせ、鼻緒を整える。
娘はその様子をじっと見ていた。
「草鞋も、お風呂に入ったみたいですね」
清正の手が止まった。
三成も止まった。
白那だけが、ぷっと吹き出した。
「草鞋の湯治か。よいではないか」
「草鞋は湯に入らん」
清正が言う。
「でも、きれいになりました」
娘は真面目な顔で言った。
「歩くものも、休ませてあげないといけないのですね」
清正は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
その横顔を見て、三成は不意に胸の奥が静かになるのを感じた。
歩くものも、休ませてあげないといけない。
子どもの言葉は、時に真っ直ぐすぎる。
清正もまた、ずっと歩いてきた男だった。
豊臣のため。
武功のため。
己の信じる筋のため。
立ち止まることを知らぬまま、前だけを見てきた。
だから濡れた草鞋ひとつにも、意地を張る。
借りを作りたくない。
弱みを見せたくない。
礼を言えば、何かを認めてしまう気がする。
三成にも、少しだけ分かる。
分かってしまうのが、また面倒だった。
「清正」
三成は言った。
「何だ」
「乾くまで、朝餉を食え」
「いらん」
「味噌汁がある」
「いらん」
「握り飯もある」
「いらん」
「焼き魚も少しある」
「……少しとは、どれほどだ」
白那が目を細めた。
「虎が釣れたぞ」
「釣られておらん」
清正が即座に返す。
三成は肩をすくめた。
「食わぬなら下げさせる」
「待て」
「食うのか」
「残すのは、作った者に失礼だ」
「まだ出していない」
「ならば出せ」
「結局食うのではないか」
「残さぬためだ」
「便利な理屈だな」
娘がくすくす笑った。
清正は気まずそうに咳払いをする。
その時、白那が石から飛び降りた。
小さな足が、濡れた土を踏む。
「ならば、わしも朝餉を所望する」
「お前は団子を二本食っただろう」
「団子は供物。朝餉とは別腹じゃ」
「その別腹、いくつある」
「水守に数を問うとは無粋な」
白那は当然のように娘の隣へ立った。
娘は嬉しそうに白那の袖をつまむ。
「白那さまも一緒に食べましょう」
「うむ。小さき湯番は分かっておる」
「私は湯番なのですか?」
「見習いじゃ。まだ桶が少し重かろう」
「はい。昨日、少しこぼしました」
「こぼした水も、戻れば水じゃ。泣くほどのことではない」
「はい」
三成は、そのやり取りに少し目を細めた。
白那は口が悪い。
態度も大きい。
団子への執着はもはや神域である。
だが、娘に向ける言葉は、不思議とやわらかい。
清正もそれを見ていた。
見て、何か言いかけて、やめた。
その沈黙が、朝霧の中で少しだけ溶けた。
やがて一同は、簡素な朝餉の席についた。
湯気の立つ味噌汁。
握り飯。
焼き魚。
漬物。
派手な膳ではない。
だが、冷えた朝には十分だった。
清正は最初、いかにも仕方なく箸を取った。
そして一口。
味噌汁を飲む。
眉間の皺が、ほんのわずかにゆるむ。
三成は見逃さなかった。
「どうだ」
「普通だ」
「そうか」
「……悪くはない」
「そうか」
「何を笑っておる」
「笑っていない」
「笑っておる顔だ」
「元からこういう顔だ」
「嘘をつけ」
白那が横から口を挟む。
「清正よ、諦めよ。湯番は、客が飯を食う顔を見るとにやける病じゃ」
「病なのか」
「治らぬ」
「厄介だな」
「わしもそう思う」
「お前たち、本人の前で好きに言うな」
娘がまた笑った。
その笑い声に、清正は箸を止めた。
怒ったのではない。
ただ、どこか遠いものを聞いたような顔をした。
戦場にはない音。
評定の場にもない音。
勝った負けたの先では、すぐに消えてしまう音。
佐和山には、それがあった。
湯気。
飯。
水音。
子どもの笑い声。
そして、口の悪い小さな水守。
清正は味噌汁の椀を置いた。
「三成」
「何だ」
「お前は、何をするつもりだ」
場の空気が、少しだけ変わった。
白那も、娘も、黙った。
清正の問いは、朝餉の席に置くには重い。
だが、いつかは避けられぬ問いでもあった。
「この佐和山を、湯宿にでもするつもりか」
「それも悪くない」
「ふざけるな」
「半分は本気だ」
「なお悪い」
三成は箸を置いた。
「俺は、天下を湯で取るつもりはない」
「当たり前だ」
「だが、湯で戻せるものはある」
「何を」
「冷えた体。固まった心。行き場を失った者の足」
清正は黙って聞いている。
三成は続けた。
「戦は避けられぬかもしれん。誰かが勝ち、誰かが敗れる。それでも、敗れた者が帰る場所まで焼き尽くす必要はない」
「甘い」
「分かっている」
「その甘さで人が死ぬ」
「分かっている」
「分かっておって、なお言うか」
「言う」
三成は清正を見た。
「俺は、勝つためだけに佐和山を残すのではない。負けた後にも、誰かが帰れるように残す」
清正の目が鋭くなる。
だが、その奥にあったのは、怒りだけではなかった。
苛立ち。
戸惑い。
そして、ほんの少しの痛み。
「……相変わらず、分からぬ男だ」
「よく言われる」
「自覚があるなら直せ」
「努力はする」
「する気のない返事だ」
「ばれたか」
白那が小さく笑った。
「清正よ。分からぬなら、また来ればよい」
清正は白那を見た。
「なぜ、そうなる」
「一度で分かるものなど、たかが知れておる。水も湯も、何度も触れて、ようやく温みが分かる」
「俺に佐和山へ通えと言うのか」
「草鞋を干しに来ればよい」
「来るか」
「では団子を供えに来い」
「なお来ぬ」
「けちじゃのう」
「けちではない」
「では今度は三本じゃ」
「話を聞け」
三成はこらえきれず、少し笑った。
清正は不機嫌そうに握り飯を取る。
だが、その握り飯を食べる手は止まらなかった。
朝餉が終わる頃には、庭先の霧も薄くなっていた。
火鉢のそばに置いた草鞋は、すっかり乾いたわけではないが、履けぬほどではない。
清正は立ち上がり、布を丁寧に畳んだ。
それを三成に差し出す。
「返す」
「洗って返させる」
「いらん」
「娘の布だ。泥がついたままでは叱られる」
「……ならば頼む」
清正が渋々そう言うと、娘が笑った。
「叱りません。でも、きれいになると嬉しいです」
清正は一瞬、言葉に詰まった。
それから、ほんの少しだけ頭を下げた。
「世話になった」
小さな声だった。
だが、確かに聞こえた。
三成は何も言わなかった。
言えば、清正はきっと意地を張る。
だから黙っていた。
白那も、団子の串を口にくわえたまま、にやにやするだけに留めている。
案外、分かっている。
いや、こういう時だけは分かっている。
清正は乾きかけの草鞋を履いた。
鼻緒を確かめ、庭先の土を踏む。
一歩。
もう一歩。
足取りは悪くない。
「清正」
三成が呼ぶと、清正は振り向いた。
「次に来る時は、替えの草鞋を用意しておく」
「いらん」
「では、乾かす場所だけ空けておく」
「……勝手にしろ」
清正はそう言い、背を向けた。
その背中は大きく、頑固で、まだ遠い。
けれど、完全に遠ざかったわけではない。
庭先には、濡れた草鞋の跡が残っていた。
佐和山の土の上に、確かに。
白那が三成の隣に立った。
「湯番」
「何だ」
「面倒な虎じゃな」
「ああ」
「だが、足跡は残した」
三成は庭先を見た。
草鞋の跡。
乾ききらぬ土。
朝の湯気。
それらはすぐに消える。
風が吹けば薄れ、日が昇れば乾く。
けれど、確かにそこにあった。
「……また来ると思うか」
三成が問うと、白那は団子の最後のひとかけを飲み込んだ。
「来るじゃろ」
「なぜ分かる」
「草鞋を干す者は、帰る道を考えておる」
白那は得意げに笑った。
「それに」
「それに?」
「まだ礼が足りぬ」
三成は苦笑した。
「団子の催促か」
「違う。供物の催促じゃ」
「同じだ」
「違う」
ちりん、と鈴が鳴った。
井戸の水面が、朝日を受けて淡く光る。
佐和山の一日は、いつものように始まっていく。
敵か味方か。
正しいか間違いか。
そんなものは、まだ何ひとつ定まっていない。
けれど、濡れた草鞋を干す場所くらいは、この城にあってもいい。
三成はそう思った。
湯気の向こうで、清正の背中が小さくなっていく。
その足元の草鞋は、まだ少し湿っている。
だが、歩ける。
歩いていける。
それだけで、今朝は十分だった。
お読みいただきありがとうございます。
挿話三湯は、清正の「礼を言えない不器用さ」を中心にしたお話でした。
三成に対して真正面から歩み寄るにはまだ遠い。
けれど、佐和山の湯、飯、人の気配に触れて、少しだけ足元が変わり始めています。
草鞋を干す、という何気ない動作が、清正なりの“受け取ったものへの始末”になっていれば嬉しいです。
次回も、佐和山の湯気とともにお付き合いいただけましたら幸いです。




