第十二湯 湯気の先に、残る意地
第十二湯です。
今回は、肥後の虎・加藤清正との続きの一幕です。
敵か味方か、許すか許さぬか。そんな言葉だけでは割り切れない男たちの意地と、佐和山に立ちのぼる湯気を書きました。
湯と飯と、少しばかりの意地。
どうぞ、湯気の向こうまでお付き合いください。
第十二湯 湯気の先に、残る意地
朝の佐和山は、山肌に白い霧をまとっていた。
石垣の隙間に残った夜露が、朝日に細く光る。井戸端では、湯番たちが早くも桶を並べ、湯殿へ運ぶ水の支度をしていた。
湯気は、まだ細い。
だが、消えてはいない。
白瀬湊一――いまは石田三成である男は、井戸のそばに立ち、その湯気を見ていた。
昨夜、加藤清正が佐和山に来た。
それだけでも十分に事件である。
しかも、怒鳴り込んできたわけではない。刀を抜いたわけでもない。湯殿の前で白湯を手に取り、黙った。
黙っただけだ。
だが、その沈黙が、湊一には妙に重かった。
「……旅館でも、こういうお客さんが一番難しかったな」
思わず口から漏れた。
怒鳴る客は、まだいい。怒っている理由が見える。
黙る客は怖い。
何を飲み込んでいるのか分からない。納得しているのか、諦めたのか、二度と来ないと決めたのか、こちらには見えない。
まして相手は、口コミで星一をつける客ではない。
肥後の虎である。
星一どころか、下手をすれば首が飛ぶ。
「何を朝から、死にかけた蛙のような顔をしておる」
鈴の音がした。
振り向くと、井戸の縁に白那が腰掛けていた。白い髪を朝霧に溶かし、足をぷらぷら揺らしている。
手には団子。
朝からである。
「白那。お前、その団子どこから出した」
「供物じゃ」
「誰が供えた」
「わしが受け取ると決めた時点で供物になる」
「便利な神様だな」
「便利でなければ、人の世など見ておれぬわ」
白那は団子をひと口かじり、井戸の奥を覗き込んだ。
「水は濁っておらぬ。湯も逃げておらぬ。問題は、虎の腹の内じゃな」
「清正殿のことか」
「他に虎がおるか。……いや、左近も寝起きは獣じみておるが」
「本人には言うなよ」
「言ったら斬られるかの」
「たぶん、笑いながら斬る」
「それはそれで面白い」
面白くない。
湊一は額を押さえた。
清正は、昨夜のうちに佐和山を出なかった。
湊一が無理に引き止めたわけではない。清正も泊まるとは言わなかった。ただ、馬の支度を急がせず、空いた客間に腰を下ろし、供された白湯を飲み、黙って一夜を明かした。
それがどういう意味なのか。
湊一には、まだ分からなかった。
「白那。あの男は、俺を許すと思うか」
白那は、団子を噛むのをやめた。
いつものようにすぐ茶化すかと思ったが、そうしなかった。
「許す、許さぬで考えるから、そなたは顔が湿った薪のようになる」
「湿った薪……」
「火はつかぬ。煙ばかり出る。目にしみる」
「地味に傷つくな」
「清正は、そなたを嫌っておる」
あっさり言った。
湊一は苦笑するしかなかった。
「知っている」
「されど、嫌っておる相手の湯を飲んだ。飯も残さなんだ。夜明けまで城におった」
「それは……」
「許したからではない」
白那は井戸の水面を見つめた。
「まだ腹の底で、意地が立っておるからじゃ」
意地。
その言葉は、朝霧の中で妙にはっきり響いた。
「意地がある者は、簡単には去らぬ。怒りだけなら背を向ける。憎しみだけなら斬り捨てる。だが、意地が残っておる者は、見届けようとする」
「見届ける……」
「そなたが本当に変わったのか。それとも、湯気で人を誑かしておるだけなのか」
「誑かしてはない」
「どうかのう。飯で釣り、湯でほぐし、子で油断させる。なかなか悪辣じゃ」
「人聞きが悪すぎる」
湊一はため息をついた。
その時、井戸端の向こうから小さな足音が聞こえた。
娘だった。
両手に小さな布を抱え、慎重な足取りでこちらへ来る。まだ眠たげな目をこすりながらも、表情は妙に真剣だ。
「父上」
「どうした。まだ早いぞ」
「湯番の者が、これを干し忘れておりました」
娘は、抱えていた布を差し出した。
湯殿で使う手拭いだった。小さな手で一生懸命畳んだらしく、端が少しずれている。
「お前が畳んでくれたのか」
「はい。……少し、曲がりました」
「いや、助かった」
湊一が受け取ると、娘はほっとしたように笑った。
白那が、じっとその手拭いを見た。
「ふむ。端が乱れておる」
娘の肩がびくりと揺れた。
「白那さま……」
「だが、手は抜いておらぬ。ならばよい」
娘の顔がぱっと明るくなる。
湊一は内心で頷いた。
白那の褒め方は、砂糖に塩を混ぜたような味がする。だが、娘にはそれで十分らしい。
「白那さま。団子は朝餉ですか」
「違う。供物じゃ」
「朝餉ではないのですね」
「供物じゃ」
「では、朝餉は別に召し上がるのですか」
「……そなた、なかなか鋭くなったな」
白那が目を細める。
娘は少し誇らしげに胸を張った。
その時、湯殿の方から低い声が響いた。
「朝から賑やかなことだな」
加藤清正だった。
昨夜と同じように眉間に皺を寄せている。大柄な体に羽織を引っ掛け、まるで山そのものが歩いてくるような圧があった。
娘は一瞬、湊一の袖の後ろに隠れた。
だが、すぐに顔だけ出した。
清正はその様子を見て、わずかに眉を動かした。
「……その子は」
「私の娘だ」
湊一は静かに答えた。
「湯番の真似事をしたがる。邪魔にならぬ範囲で、手伝わせている」
「城の子に、湯殿の布を持たせるのか」
「城の子だからこそ、湯がどう届くか知っておいた方がいい」
清正の目が細くなる。
「それが、今のお前の政か」
「政などと大層なものではない。……ただ、湯が沸くまでに、誰かの手が要る。それを知らぬ者が、人を動かしてはいけないと思っている」
清正は黙った。
湊一も黙った。
井戸から汲み上げられた水が、桶に落ちる音だけがした。
やがて清正は、娘の抱えていた手拭いに目を向けた。
「曲がっておるな」
娘の顔が赤くなる。
「……はい」
「だが、乾けば使える」
それだけ言って、清正は湯殿の方へ歩き出した。
娘はぽかんとした顔でその背中を見送った。
「父上」
「うん?」
「あの方は、怒っておられるのですか」
「たぶん、怒っている」
「でも、手拭いは使えるとおっしゃいました」
「そうだな」
「では、少しだけ、よい方ですか」
湊一は返事に迷った。
清正がよい方かどうか。
そんな簡単な言葉で片づけられる相手ではない。
だが、娘の目は真剣だった。
敵か味方かではなく、怖いか怖くないかでもなく。
その人の中に、ほんの少しでも温かいものがあるかを探している目だった。
「……少しだけ、な」
湊一がそう答えると、白那が鼻で笑った。
「甘いのう」
「子どもにまで戦の物差しを渡したくないだけだ」
「それは甘さか、祈りか」
「どっちでもいい」
「ならば、せいぜい湯を沸かせ。祈りは冷めると、ただの未練になる」
白那の声は軽かった。
だが、その言葉は冷たくなかった。
湯殿では、清正が湯を前にしていた。
湯船に肩まで浸かるわけではない。ただ、足を湯に入れ、膝に腕を置いて座っている。
湊一は少し離れた場所に立った。
「熱いか」
「ぬるい」
「では、少し足そう」
「いらん」
清正は短く返した。
湯気が二人の間を漂う。
しばらくして、清正が口を開いた。
「昨夜の白湯」
「うん」
「あれは、何を入れた」
「何も入れていない。ただの湯だ」
「嘘をつけ」
「本当だ。井戸の水を沸かしただけだ」
「ただの湯で、人の腹が静まるものか」
湊一は少し笑った。
「腹が静まったのか」
「黙れ」
「すまない」
清正は湯面を睨んだ。
「俺は、お前を好かぬ」
「知っている」
「お前の言葉は、薄い。正しさを着ている。筋を通しているようで、人の腹を見ぬ時がある」
湊一は反論しなかった。
反論できなかった。
三成としての記憶の中にも、白瀬湊一としての経験の中にも、その言葉が刺さる場所はあった。
正しさだけでは、人は動かない。
理屈だけでは、帰ってこない。
旅館でもそうだった。
どれほど正しい案内をしても、客が不安なら、それは足りない。
どれほど筋の通った判断でも、相手が置いていかれたと感じれば、それは冷たさになる。
「……そうだな」
湊一は言った。
「私は、人の腹を見るのが下手だったのだと思う」
清正が顔を上げた。
「思う、では済まぬ」
「済まない」
「済まぬと言うだけでも済まぬ」
「それも分かっている」
「分かっている顔が腹立たしい」
「それは……すまん」
「謝るな。余計に腹が立つ」
どうしろというのだ。
現代人・白瀬湊一の中の接客担当が、静かに頭を抱えた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
清正は怒っている。
責めている。
しかし、昨夜より言葉がある。
黙って去る相手ではない。
まだ、こちらを見ている。
「清正殿」
「何だ」
「私は、お前に許されたいわけではない」
清正の目が鋭くなった。
「ほう」
「許されるほど、簡単なことではないと思っている。だが、佐和山には湯を沸かす。飯を出す。水を守る。来た者を、まず座らせる」
「敵でもか」
「敵でもだ」
「愚かだな」
「かもしれない」
「その甘さで、いずれ負けるぞ」
清正の声は低かった。
湯殿の外で、桶を置く音がした。誰かが息を呑み、すぐに立ち去る。
湊一は、逃げなかった。
「負けるかもしれない」
清正の表情が変わった。
湊一は続けた。
「だが、負けるとしても、何も残さず負けるのは嫌だ」
「何を残す」
「帰る場所だ」
湯気が立つ。
清正の顔が、白く霞む。
「戦に勝つことだけを考えれば、余計なものかもしれない。湯も、飯も、子の笑い声も、井戸の水も。だが、それが残らなければ、勝った先に誰が帰る」
清正は黙った。
「私は、天下を取る器ではないのかもしれない。だが、誰かが泥まみれで戻ってきた時に、温かい湯と飯を出せる場所は残したい」
「……それが、お前の意地か」
「そうだ」
湊一は頷いた。
「私の意地だ」
清正は湯面を見下ろした。
その手が、湯をすくう。
大きな手の中で、湯はすぐにこぼれた。
「湯は残らぬ」
「残らない」
「飯も食えば消える」
「消えるな」
「人も死ぬ」
「……ああ」
「ならば、何が残る」
湊一は、少し考えた。
そして、湯殿の外を見た。
井戸端には娘がいる。白那に何か言われて、困った顔をしながらも笑っている。妻が少し離れた場所でそれを見守り、湯番たちは朝の支度を続けている。
いつもの、ありふれた景色。
だが、今の湊一には、それがひどく尊かった。
「覚えている者が残る」
清正が湊一を見る。
「湯が温かかったこと。飯を分けたこと。誰かが手拭いを畳んだこと。井戸の水を守ろうとしたこと。……そういうものを覚えた者が、次に誰かを迎える」
「きれいごとだ」
「そうだ」
湊一は認めた。
「でも、きれいごとを現実にするには、毎日湯を沸かすしかない」
清正は、長く黙った。
やがて、低く笑った。
「昔のお前なら、そんなことは言わなかった」
「だろうな」
「気味が悪い」
「よく言われる」
「誰にだ」
「主に白那に」
湯殿の外から、白那の声が飛んできた。
「聞こえておるぞ、湿った薪」
「ほらな」
清正が、ほんのわずかに口元を歪めた。
笑った、というには小さい。
だが、湯気の向こうで、確かに何かが緩んだ。
その時だった。
小さな足音が近づいてきた。
「父上。清正さま」
娘が、湯殿の入り口で立ち止まっていた。
両手に盆を持っている。
盆の上には、白湯が二つ。
少し震えているが、こぼしてはいない。
「これを……」
清正の目が丸くなった。
「お前が持ってきたのか」
「はい。湯番の者が忙しそうでしたので」
「危ない」
清正の声が少し強くなる。
娘の肩が跳ねた。
湊一が口を開こうとした時、清正が先に立ち上がった。
湯から足を抜き、娘の前まで歩く。
そして、盆ごと白湯を受け取った。
「熱い物を持つ時は、下を見るな」
娘が瞬きをする。
「下を見れば、手が揺れる。進む先を見ろ」
「……はい」
「それと、無理に大人の真似をするな。背伸びは、足を挫く」
清正は片方の白湯を湊一に渡し、もう片方を自分で持った。
「だが」
清正は、少しだけ声を落とした。
「よく運んだ」
娘の顔が、朝日を受けた水面のように明るくなった。
「はい!」
清正はすぐに顔を背けた。
「声が大きい」
「申し訳ありません」
「謝らずともよい」
湊一は、そのやり取りを見ていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
仲直りではない。
和解でもない。
清正の中にある怒りは、きっと消えていない。
けれど、娘の手から白湯を受け取った。
その事実だけで、今日の湯は沸かした意味があった。
湯殿の外では、白那が団子をもう一本取り出していた。
「白那」
「何じゃ」
「それも供物か」
「無論」
「いくつ供えられてるんだ」
「信心深い者が多くて困る」
娘が白那の横にちょこんと座った。
「白那さま」
「何じゃ、小さき湯番」
「清正さまは、また来られますか」
白那は団子をかじり、湯殿の方をちらりと見た。
「来るじゃろ」
「本当ですか」
「虎は一度、湯の匂いを覚えると、忘れぬ」
「虎も湯に入るのですか」
「入る。文句を言いながらな」
娘はくすりと笑った。
白那は団子を半分に割り、その小さい方を娘に渡した。
「ほれ」
「よろしいのですか」
「供物の分け前じゃ。ありがたく受け取れ」
「ありがとうございます」
娘は両手で団子を受け取った。
その姿を見て、白那は小さく鼻を鳴らす。
「……そなたも、少しずつ湯番らしくなってきたの」
「本当ですか」
「調子に乗るでない。まだ半人前の半分の半分じゃ」
「では、四分の一人前です」
「妙なところで賢いのう」
湊一は、白湯を飲んだ。
ただの湯だ。
味などない。
それなのに、喉を通ると、腹の奥が静かになる。
隣では清正が同じように白湯を口にしていた。
飲み終えると、清正は湊一に椀を返した。
「三成」
「何だ」
「俺は、まだお前を許したわけではない」
「ああ」
「お前の甘さも、危うさも、気に食わぬ」
「分かっている」
「だが」
清正は湯殿の外を見た。
井戸端の娘と、団子を頬張る白那と、忙しく働く湯番たち。
そして、細く立ち上る佐和山の湯気。
「この湯が、ただの飾りかどうかは見てやる」
湊一は、静かに頭を下げた。
「それで十分だ」
「十分ではない。勘違いするな」
「しない」
「それと」
「うん?」
「福島には言うな」
「何を」
「俺が湯に足を浸けたことだ」
湊一は一瞬、黙った。
そして、耐えきれずに少し笑った。
「分かった」
「笑うな」
「すまない」
「謝るなと言った」
清正は立ち上がり、羽織を肩にかけた。
湯殿を出る直前、娘の方を見た。
「小さき湯番」
「はい」
「次に白湯を運ぶなら、盆の縁を持て。真ん中を持つと傾く」
「はい。覚えます」
「覚えるだけでは足りぬ。やれ」
「はい!」
清正は何も言わず、歩き出した。
その背は、昨夜より少しだけ軽く見えた。
気のせいかもしれない。
湯気のせいかもしれない。
だが、湊一はそう見えたことを、忘れないでおこうと思った。
清正が去った後、白那がぽつりと言った。
「残ったの」
「何が」
「意地じゃ」
白那は、井戸の水面を覗いた。
「怒りも憎しみも、湯では消えぬ。消せると思えば、それは驕りじゃ。だがな、湯気は隙間に入る。固く閉じた戸の、ほんの少しの隙間にな」
湊一は、清正が去った方を見た。
「その隙間から、何か変わるか」
「変わるかもしれぬ。変わらぬかもしれぬ」
「おい」
「人の心など、井戸より深く、団子より面倒じゃ」
「団子と並べるな」
「団子は大事じゃ」
白那は最後の団子を口に放り込んだ。
娘が名残惜しそうにその手元を見る。
白那は見ないふりをした。
そして、ほんの少しだけ、自分の団子の串に残った欠片を娘へ渡した。
「これで最後じゃ」
「ありがとうございます、白那さま」
「礼はよい。次はもっと上等な供物を用意せよ」
「はい。父上にお願いしてみます」
「勝手に俺を巻き込むな」
娘が笑い、白那がふんと鼻を鳴らす。
井戸の水は澄んでいた。
湯気は、まだ細い。
けれど、朝の空へ確かに伸びている。
佐和山は今日も、湯を沸かす。
誰かの怒りをすぐに消すためではない。
誰かの傷を、なかったことにするためでもない。
ただ、戻ってきた者が、少し黙って座れるように。
まだ許せぬ者が、それでも白湯を受け取れるように。
湊一は空の椀を手に、湯殿へ向かった。
その背に、鈴の音がひとつ鳴った。
清正の残した意地は、まだ消えない。
だが、その意地の向こうに、湯気は立っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、清正が完全に心を開く話ではありません。
ただ、湯を拒まず、白湯を受け取り、小さき湯番に言葉をかける。そんな「ほんの少しの変化」を書きました。
三成と清正の間にあるものは、簡単にはほどけません。
それでも佐和山の湯気は、怒りや意地の隙間にも入り込んでいきます。
次回は、また別の厄介な男が佐和山の膳を睨みます。
が、急遽思いついたので挿話を思い立ったので、明日朝には公開出来るといいな。
引き続き、湯気立つ佐和山を見守っていただけると嬉しいです。




