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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第二章 小さき湯番と、肥後の虎

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第十一湯 肥後の虎、白湯に黙る

佐和山に、肥後の虎がやって来ます。


かつての溝は、そう簡単には埋まりません。

けれど、湯気と白湯と小さな湯番が、少しだけ空気を変えていきます。

今回は、清正と三成。

そして佐和山らしい「もてなし」のお話です。

第十一湯 肥後の虎、白湯に黙る


 佐和山の朝は、湯気から始まる。


 釜の底で水が鳴り、薪がぱちりと爆ぜる。


 湯殿の戸板には薄い朝露が降り、庭先の石には夜の冷えがまだ残っていた。


 その冷えを追い払うように、三成――白瀬湊一は、袖をまくって釜の前に立っていた。


「火が強すぎる。粥は怒らせたら負けだ」


「粥が怒るのでございますか」


「怒る。焦げる。焦げたら厨房全体がしょんぼりする」


 足軽の若い者が、なんとも言えぬ顔で釜の中をのぞき込んだ。


 戦国の台所で、現代旅館の若旦那じみたことを言っている自覚はある。


 だが、湊一にとって飯はただの腹満たしではなかった。


 湯を沸かす。


 飯を炊く。


 濡れた足を拭かせる。


 冷えた手に白湯を渡す。


 それらは、戦の支度ではないようでいて、確かに戦の支度だった。


 人は腹が減れば怒る。


 体が冷えれば迷う。


 帰る場所がなければ、簡単に壊れる。


「……治部」


 背後から、低い声が落ちた。


 振り返ると、加藤清正が立っていた。


 肩幅の広い男だった。


 ただ立っているだけで、廊下の空気が一段重くなる。


 肥後の虎。


 そう呼ばれる男が、朝の湯気の向こうで眉間に皺を刻んでいた。


「おぬしは、戦支度をしておるのか。それとも、湯屋でも始めるつもりか」


「どちらも、でござる」


「どちらも?」


「戦う者にも、帰る場所は要ります」


 清正の目が細くなった。


「相変わらず、妙なことを言う」


「昔よりは、ましになったつもりですが」


「まし?」


 清正が鼻で笑った。


「おぬしは昔から、正しいことを言う顔だけは見事であった」


 その言葉には棘があった。


 軽い皮肉ではない。


 長く抜けずに肉の中に残った、古い棘だ。


 湊一は、釜の火を少し弱めた。


 ぱちり、と薪が鳴る。


「……清正殿」


「なんだ」


「それは、痛かったでしょうな」


 清正の眉が動いた。


「何がだ」


「正しい顔で、傷口を押されたら」


 湯気が二人の間を流れた。


 清正はすぐには答えなかった。


 厨房の者たちが、声を潜めて手を動かしている。


 白那は、井戸端の石に腰かけ、団子を一本持ったままこちらを見ていた。


 朝から団子である。


 もはや誰も突っ込まない。


「……おぬしがそれを言うか」


 清正の声は低かった。


「人の働きを紙の上で量り、兵の苦しみを数字で並べ、正しさを盾にして人を裁く。治部、おぬしはそういう男であった」


 否定はできなかった。


 湊一は石田三成のすべてを知っているわけではない。


 けれど、この体に残る記憶の底には、確かにあった。


 言うべきことを言った。


 正すべきものを正した。


 それで何が悪い。


 そう信じていた男の硬さが。


「……そうであったのでしょう」


「他人事のように言うな」


「他人事にはできませぬ。ただ、今の私は少しだけ、別のものも見ております」


「別のもの?」


「湯気です」


 清正の眉間が、さらに深くなった。


「ふざけておるのか」


「いえ、本気です」


 湊一は釜の蓋を少しずらした。


 白い湯気が、ふわりと上がる。


「湯は、水だけでも薪だけでも沸きませぬ。火を見て、釜を見て、飲む者の顔を見ねばならぬ。強すぎれば焦げ、弱すぎれば冷える。正しい火加減というものは、紙の上だけではわかりませぬ」


 清正は黙った。


 馬鹿馬鹿しい、と切り捨てるかと思った。


 だが、清正は切り捨てなかった。


 ただ、湯気の向こうから湊一を見ていた。


「……昨夜」


 清正がぽつりと言った。


「あの娘が、わしの家臣の足を見た」


 湊一の手が止まる。


「泥と冷えに気づいたのでしょう」


「あれは、誰が教えた」


「私は何も」


「では、妻か」


「おそらくは。ですが、気づいたのはあの子です」


 清正は目を伏せた。


 昨夜、娘は白湯をこぼした。


 怖かったはずだ。


 目の前には、父と仲が良いとは言いがたい大男がいた。


 それでも逃げずに布を取り、膝をついて拭き、もう一度白湯を差し出した。


 そのうえで、清正の家臣の足元を見て言ったのだ。


 ――足だけでも、温めた方がよいと思います。


 子どもの声だった。


 しかし、あの場の誰よりも、真っ先に冷えを見つけた。


「……小さき湯番、か」


 清正が呟いた。


 その言葉は、どこか苦かった。


「治部。おぬしの家は、妙な家だな」


「よく言われます」


「普通、わしのような男が訪ねれば、女房子どもは奥へ隠す」


「隠した方がよかったですか」


「そうではない」


 清正は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。


「隠さぬなら、守る覚悟が要る」


「あります」


「軽く言うな」


「軽くはありません」


 湊一は、清正から目を逸らさなかった。


「私は、戦が怖い。人が死ぬのも怖い。家が焼けるのも、子が泣くのも、妻が黙るのも怖い。だから、守ります」


「怖いから守る、か」


「勇ましいから守れるわけではありません。宿の者も同じでした。火事が怖いから火の元を見る。食中毒が怖いから水を疑う。客が倒れるのが怖いから、足元を見る」


「また宿か」


「私の中では、宿も城もあまり変わりませぬ」


 清正は呆れたように息を吐いた。


 だが、怒鳴りはしなかった。


 その沈黙に、庭の方から小さな足音が混じった。


 娘が、盆を抱えて立っていた。


 盆の上には、湯呑みが二つ。


 それから、小さく切った蒸し芋が少し。


 背後の廊下には、妻が控えている。


 娘は一度、清正を見上げた。


 怖いのだろう。


 喉が小さく動いた。


 それでも、逃げなかった。


「……白湯でございます」


 清正の家臣が受け取ろうとしたが、娘は首を横に振った。


「こちらは、加藤さまへ」


 清正の片眉が上がった。


「わしにか」


「はい。朝は、急に冷えますので」


「虎に白湯を飲ませる気か」


 娘は、ほんの少しだけ考えた。


 そして真面目な顔で言った。


「虎でも、お腹は冷えます」


 厨房の空気が固まった。


 足軽の若い者が、噴き出しかけて下を向く。


 湊一も危なかった。


 清正は、しばし娘を見下ろしていた。


 そして、低く笑った。


「……なるほど。虎の腹を案じる湯番とは、恐れ入った」


 清正は湯呑みを受け取った。


 一口、飲む。


 湯気が、清正の顔の前で薄くほどけた。


「熱すぎぬな」


「白那さまが、熱すぎる白湯は舌への謀反だと」


 井戸端で団子をかじっていた白那が、得意げに顎を上げた。


「当然じゃ。熱ければよいと思う者は、湯を知らぬ。あと団子も知らぬ」


「団子は関係あるのか」


 湊一が言うと、白那は即座に返した。


「ある。世の大抵のことは、団子を添えれば丸く収まる」


「収まらないこともあります」


「それは団子が足らぬのじゃ」


 清正が、白湯を飲みながら白那を見た。


「治部。あの童は何者だ」


「佐和山の水守にございます」


「水守」


 清正の目が鋭くなる。


 武人の目だった。


 見えぬものを、見えぬまま信じる男ではない。


 だが、完全に否定する男でもなかった。


 戦場には、人の理だけでは片づかぬことがある。


 そう知っている者の目だった。


「童にしては、口が悪い」


「聞こえておるぞ、肥後の虎」


 白那が団子の串を向けた。


「虎などと呼ばれて調子に乗るでない。水辺では猫も濡れれば細くなる」


 清正の家臣たちが凍った。


 湊一は頭を抱えた。


「白那」


「なんじゃ。事実じゃろう」


 清正は怒るかと思われた。


 だが、彼は白湯をもう一口飲み、喉の奥で短く笑った。


「……治部。おぬしの城は、ますます妙だ」


「否定はできませぬ」


「だが」


 清正は湯呑みを盆に戻した。


「冷えてはおらぬ」


 その一言に、湊一はわずかに息を止めた。


 清正は続けた。


「飯の匂いがする。湯がある。女房子どもが顔を出す。家臣が妙な顔で粥を見ておる。童が団子を食って偉そうにしておる」


「最後は余計では?」


「余計ではない。異様だ」


 白那がふふんと笑った。


「異様とは、凡人には見えぬ趣のことじゃ」


「黙って団子を食べていてください」


「供物じゃ」


「はいはい」


 清正の表情から、わずかに笑みが消えた。


「治部」


「はい」


「わしは、おぬしを好かぬ」


「存じております」


「信用もしておらぬ」


「それも、存じております」


「だが、豊臣を守りたい気持ちは、わしにもある」


 湯気の向こうで、その声だけが重く落ちた。


 豊臣。


 その名が出た瞬間、厨房の空気が変わった。


 家でも、宿でも、城でもない。


 もっと大きなものが、二人の間に置かれた。


 秀吉の残したもの。


 幼い秀頼。


 大坂の奥にいる淀殿。


 武断の者、文治の者。


 疑い、怒り、面子、傷。


 それらが絡まり合い、ほどけぬまま天下の中心に積もっている。


「わしらは、同じものを守ると言いながら、同じ場所を見ておらぬ」


 清正は言った。


「おぬしは理を見すぎる。わしは血を見すぎる。どちらも、目が曇る」


 湊一は、深く頷いた。


「では、せめて湯気越しに見ませんか」


「また湯か」


「湯気越しなら、少し輪郭がやわらぎます」


「詭弁だな」


「もてなしです」


「同じようなものだ」


 清正は呆れた顔をした。


 だが、その声には先ほどまでの刺々しさが少しだけ薄れていた。


 湊一は言った。


「清正殿。私は、あなたにすぐ信じてほしいとは申しませぬ」


「当然だ」


「ですが、見届けていただきたい」


「何を」


「佐和山が何を守ろうとしているのかを」


 清正は答えなかった。


 湯呑みの底を見つめている。


 その横顔には、怒りも疑いも残っていた。


 けれど、昨夜この城に入ってきた時のような、斬り捨てるための目ではなかった。


「……治部」


「はい」


「おぬしは変わったのか」


 湊一は、すぐには答えられなかった。


 変わった。


 そう言い切るのは簡単だ。


 だが、この体は石田三成のものだ。


 積み上げてきた過去も、人々の恨みも、清正の痛みも、消えたわけではない。


「変わろうとしております」


 だから、そう答えた。


「まだ途中です。湯も、城も、人も。沸ききるには時間がかかります」


「時間か」


 清正が低く呟いた。


「天下は、そんな悠長に待ってくれぬぞ」


「だからこそ、今日の白湯を出します」


「今日の白湯?」


「明日の大義より、今日冷えた手です」


 清正は、じっと湊一を見た。


 それから、ふっと息を吐いた。


「やはり、おぬしは妙だ」


「よく言われます」


「褒めてはおらぬ」


「承知しております」


 その時、娘が小さな木札を差し出した。


 清正はそれを見る。


 木札には、幼い字でこう書かれていた。


 ――足湯。


「これは何だ」


「湯札です」


 娘は真剣だった。


「足が冷えた方から、順に入っていただきます。けんかをしている方は、最後です」


「なぜだ」


「けんかをしていると、湯が荒れます」


 白那が満足げに頷いた。


「よい。水の機嫌を読むようになってきたのう、小さき湯番」


 娘の頬が、ぱっと赤くなった。


 清正は木札を受け取り、しばらく眺めた。


 その大きな手に、小さな札はひどく頼りなく見えた。


 だが、清正はそれを笑わなかった。


「……治部」


「はい」


「この札、借りるぞ」


「どうぞ」


「わしの家臣に見せる。足の冷えを隠すな、と」


 娘が、ほっとしたように笑った。


 湊一はその顔を見て、胸の奥が少し熱くなった。


 戦国の城で、娘が湯札を渡している。


 相手は肥後の虎。


 普通ならあり得ない光景だ。


 けれど、あり得ない光景をひとつずつ積み重ねなければ、この先は変わらない。


「清正殿」


「なんだ」


「足湯、入っていかれますか」


 清正は、即座に渋い顔をした。


「虎を足湯に入れる気か」


「虎でも足は冷えますので」


 娘の言葉をそのまま返すと、清正は一瞬だけ目を細めた。


 それから、低く笑った。


「……ならば、家臣からだ。わしは最後でよい」


「けんかをしている方は最後、ですからね」


 娘がぽつりと言った。


 清正が固まった。


 湊一も固まった。


 白那だけが、腹を抱えて笑った。


「はははは! 虎、最後じゃ! 湯番の裁きは厳しいのう!」


「白那、笑いすぎです」


「笑わずにおれるか。これはよい。実によい」


 清正は娘を見下ろした。


 娘は言ってから、しまった、という顔をしている。


 だが、清正は怒らなかった。


 むしろ、どこか楽しげに鼻を鳴らした。


「よかろう。最後でよい」


 その一言で、場の緊張がほどけた。


 足軽たちが動き出す。


 湯桶が運ばれ、縁側に腰掛けた清正の家臣たちが、恐る恐る足を湯に入れた。


 熱すぎぬ湯。


 冷えた足先から、じわりと赤みが戻っていく。


 誰かが小さく息を吐いた。


 それは、戦場の勝鬨よりもずっと弱い音だった。


 けれど湊一には、その音の方が大切に思えた。


 清正は縁側の端に立ち、その様子を黙って見ていた。


「治部」


「はい」


「この城は、強いのか弱いのか、わからぬ」


「私にも、まだわかりませぬ」


「城主がそれでよいのか」


「わからぬから、見ます。聞きます。湯加減を確かめます」


「……やはり、湯屋だな」


「湯屋でも、国は温まります」


「大きく出たな」


 清正の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


 その時、白那が井戸端から静かに言った。


「水は器に従う。椀に入れば椀の形、川に出れば川の形じゃ。されど、器を割れば、ただこぼれる」


 皆の視線が白那へ向いた。


 団子の串を持った童女の姿でありながら、その声は妙に古かった。


「豊臣も同じじゃ。器を守ると言いながら、器を割る者が多すぎる。虎も、治部も、手に力を入れすぎるでない」


 清正は目を細めた。


「童に説教されるとはな」


「童ではない。水守じゃ」


「ならば水守。おぬしは、治部を信じておるのか」


 白那は、団子の最後の一口を食べた。


 もぐもぐと噛み、飲み込む。


 そして、しれっと言った。


「信じてはおらぬ」


「おい」


 湊一が思わず声を上げる。


 白那は涼しい顔だった。


「信じるなどと軽々しく言うから、人は裏切られたと騒ぐ。わらわは見ておるだけじゃ。この男が、どこまで湯を冷まさずにおれるかをな」


 清正が低く笑った。


「よい答えだ」


「じゃろう」


「気に入った」


「団子を供えよ」


「調子に乗るな」


 清正と白那が、なぜか妙なところで噛み合っている。


 湊一は額を押さえた。


 胃が痛い。


 戦国に来てから、胃に優しい日が少ない。


 それでも、悪い痛みではなかった。


 やがて清正の家臣たちが足湯を終えた。


 最後に、清正が縁側へ腰を下ろす。


 大きな足を湯に入れた瞬間、その眉がわずかに動いた。


「……悪くない」


 それだけだった。


 だが、それで十分だった。


 娘が嬉しそうに妻の袖を握る。


 妻は静かに頭を下げた。


 清正はその様子を見て、しばらく黙っていた。


 そして湯から足を上げると、木札を懐にしまった。


「返さなくてよいのですか」


 湊一が問うと、清正は言った。


「これは預かる」


「預かる?」


「次に来る理由が要る」


 湊一は、思わず清正を見た。


 清正はすでに立ち上がっていた。


 表情は厳しい。


 完全に打ち解けたわけではない。


 疑いも残っている。


 過去の棘も抜けていない。


 だが、門をくぐって来た時とは違う。


 背中に、ほんのわずかだが余白があった。


「治部」


「はい」


「わしはまだ、おぬしを許したわけではない」


「はい」


「だが、斬る理由を探しに来た目では、帰らぬ」


 湊一は深く頭を下げた。


「それで十分にございます」


「十分と思うな。次に会う時、ぬるい湯を出せば怒る」


「心得ました」


「熱すぎても怒る」


「難しい客でございますな」


「客ではない」


「では?」


 清正は少し考え、低く言った。


「見届け人だ」


 そう言って、清正は歩き出した。


 門の方へ向かう背中は大きい。


 その背を見送りながら、湊一は息を吐いた。


 勝ったわけではない。


 味方になったわけでもない。


 ただ、一人の男が、少しだけ立ち止まってくれた。


 それだけだ。


 けれど、今の佐和山には、それが大きかった。


「湊一」


 白那が隣に来ていた。


 いつの間にか、団子の串だけを持っている。


「はい」


「虎はまだ噛むぞ」


「でしょうね」


「じゃが、噛む前に匂いを嗅いだ。獣にしては上出来じゃ」


「清正殿に聞こえたら怒られますよ」


「聞こえるように言うておる」


 門の向こうで、清正が一瞬だけ振り返った気がした。


 白那は、悪びれもせず手を振る。


 清正は何も言わず、また前を向いた。


 娘が湊一の袖を引いた。


「父上」


「どうした」


「足湯、怒られませんでした」


「うん」


「でも、少し怖かったです」


「怖くても、よく出したな」


 娘は照れたように俯いた。


 白那がふんと鼻を鳴らす。


「小さき湯番よ。怖いものに白湯を出せたなら、今日は勝ちじゃ」


「勝ち、ですか」


「うむ。団子半分ぶんくらいの勝ちじゃ」


「半分……」


「全部はやらぬ」


 娘がくすりと笑った。


 その笑い声が、朝の湯気に混じって上がっていく。


 湊一は佐和山の空を見上げた。


 天下はまだ遠い。


 関ヶ原は近い。


 清正との溝も、豊臣のひびも、黒い羽のような不穏も、何ひとつ消えてはいない。


 それでも、この朝。


 佐和山には湯が沸いていた。


 飯の匂いがしていた。


 小さな湯番が、怖い虎に白湯を出した。


 ならば、まだやれる。


 湊一は、釜の火を見た。


「粥、焦げてませんか」


 足軽の若い者が慌てて蓋を取る。


 ふわりと、米の甘い匂いが立った。


 白那が即座に言う。


「団子粥にせよ」


「しません」


「けち」


「供物でもだめです」


 白那は頬を膨らませた。


 娘が笑い、妻も小さく目元を緩めた。


 佐和山の朝は、今日も湯気から始まる。


 そしてその湯気の中で、割れかけた器を支える手が、ひとつ増えた。


 関ヶ原まで、あと七十三日。

お読みいただきありがとうございます。


第十一湯は、加藤清正との対話回でした。

仲が良いとは言いがたい二人ですが、真正面からぶつかるだけでなく、湯気越しに少しだけ見え方が変わる――そんな回になっています。

娘の「小さき湯番」ぶりも、少しずつ佐和山の空気を変え始めました。

白那は相変わらず団子優先ですが、ちゃんと水守らしいことも言っています。たぶん。

次回も、湯と飯と水音のする佐和山をよろしくお願いいたします。

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