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『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

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第十湯 清正、湯気を疑う

第十湯です。


佐和山で湯を沸かし、飯を出し、水を整える三成。

しかし、その噂は思わぬ形で外へ広がっていきます。

湯気の向こうに善政を見る者もいれば、謀を見る者もいる。

今回は、佐和山の湯気を疑う男――加藤清正が訪れます。

前回「小さき湯番」と呼ばれた娘も、今回は小さな失敗と勇気を見せます。

そして白那は相変わらず、口は悪いけれど見捨てない水守です。

どうぞ、湯気の立つ佐和山へお付き合いください。

第十湯 清正、湯気を疑う


 噂というものは、湯気よりも早く広がる。


 佐和山で石田治部が、湯を沸かしている。


 兵に飯を食わせ、民に白湯を振る舞い、井戸を整え、湯殿まで用意している。


 それだけなら、善政と呼べたかもしれない。


 だが、疑う者の耳に入れば、話は変わる。


 兵を集めている。


 人心を集めている。


 水と飯を握り、何かを始めようとしている。


 まして、それをしているのが石田三成であればなおさらだった。


 湯気の向こうに、謀の影を見る者はいる。


 その噂は、思ったより早く外へ流れた。


 どこから流れたのか。


 誰が尾ひれをつけたのか。


 湊一――石田三成には、まだわからない。


 ただ、昨夜届いた文の端には、墨で描かれたような黒い羽の跡があった。


 白那はそれを見て、ひどく嫌そうに鼻を鳴らした。


「また羽虫が飛んでおるな」


「羽虫?」


「黒いものは、だいたい面倒を運ぶ」


「ざっくりした分類だな」


「細かく分けるほど、わらわは暇ではない」


 そう言いながら、白那は団子を食べていた。


 暇ではないと言いつつ、団子は食べる。


 水守の理は、今日もだいぶ都合がいい。


 翌朝。


 佐和山の一角には、いつものように湯気が立っていた。


 飯を炊く釜。


 湯を沸かす竈。


 拭き清められた板間。


 木桶に張られた水。


 白湯を入れる椀。


 どれも派手ではない。


 だが、乱れた世にあっては、これだけでも人の心を少し整える。


 湊一は、そう信じ始めていた。


「湯は熱すぎぬように。旅の者には、まず白湯を出す。腹が空いている者には、いきなり重いものを食わせるな。汁からだ」


「承知」


 家臣がうなずく。


 その横で左近が、やけに真剣な顔をしていた。


「殿。白湯の毒味は拙者が」


「毒を入れる前提で話すな」


「しかし、このご時世です」


「わかるけど、朝一番から物騒なんだよ」


「では、湯加減の毒味を」


「それはただの入浴だ」


 湊一はこめかみを押さえた。


 戦国時代の忠義は、便利なようで時々とても重い。


 その少し離れたところで、妻が娘を見守っていた。


 娘は小さな桶を抱えている。


 昨日、白那に「小さき湯番」と呼ばれてから、娘はすっかりその役目を大事にしていた。


 布を畳む。


 椀を並べる。


 桶を下げる。


 大人から見れば、ほんの小さな手伝いだ。


 けれど娘の顔は真剣だった。


 自分にもできることがある。


 その小さな誇りが、背筋を少しだけ伸ばしている。


 白那はその様子を、団子をかじりながら横目で見ていた。


「手が遅い」


 いきなり厳しい。


 娘の肩がぴくりと揺れた。


「申し訳ございませぬ、白那さま」


「謝る前に畳め。布は泣いても乾かぬ」


「はい」


「それと、桶を抱える時は腹で持つな。落とすぞ」


「はい」


 口は悪い。


 ものすごく悪い。


 だが白那は、娘から桶を取り上げたりはしなかった。


 ただ見ている。


 失敗しそうなところだけ、毒を吐いて刺す。


 湊一は苦笑した。


 甘やかさない。


 けれど、見捨てない。


 白那らしい距離だった。


 その時、門の方が騒がしくなった。


 足音。


 鎧のきしみ。


 馬の鼻息。


 場の空気が、すっと冷える。


「石田治部はおるか」


 太い声が響いた。


 左近の表情が変わる。


 湊一もすぐに姿勢を正した。


 門をくぐって現れた男は、ひと目で武の人とわかる体つきをしていた。


 背が高く、肩が広い。


 眼光は鋭く、笑みはない。


 歩くたびに、周囲の者が自然と道を空ける。


 加藤清正。


 湊一の胃が、きゅっと縮んだ。


 来た。


 しかも、友好的な顔ではない。


 湯に入りに来た客の顔ではない。


 明らかに、疑っている男の顔だった。


「これは清正殿。佐和山へようこそ」


「もてなしの言葉は要らぬ」


 清正は湯気の立つ竈を見た。


 並んだ椀を見た。


 濡れ布を見た。


 そして、湊一を見た。


「石田治部。湯で兵を集めておるという噂、まことか」


 場が静まった。


 家臣たちの顔が強張る。


 湊一は息を整えた。


 ここで言い訳を重ねれば、かえって怪しまれる。


 現代の湯宿でもそうだった。


 クレーム対応で一番まずいのは、相手の疑いを否定することだけに必死になることだ。


 まず、相手が何を見ているかを受け止める。


「湯は沸かしております。飯も出しております。民や兵に白湯も振る舞っております」


「認めるか」


「はい」


 清正の目が細くなる。


「ならば何のためだ。戦支度か」


「戦支度でもあります」


 左近がぎょっとした顔をした。


 だが湊一は続けた。


「兵が冷え、腹を空かせ、汚れたままでは戦えませぬ。民が疲れ、井戸が濁り、飯も湯もなければ、土地は荒れます。湯を沸かすのも、飯を出すのも、佐和山を保つためです」


「きれいな言葉だな」


「疑われるのも、当然かと」


 清正の眉がわずかに動いた。


 湊一は頭を下げる。


「だからこそ、見ていただきたい。隠すものはございませぬ」


「ふん」


 清正は鼻を鳴らした。


「石田治部が、湯と飯で人を集める。なるほど、怪しいことこの上ない」


 その瞬間、横から幼い声がした。


「湯と飯を怪しむとは、腹の冷えた虎じゃな」


 白那だった。


 片手に団子を持ち、偉そうに立っている。


 場の空気が凍る。


 湊一は心の中で頭を抱えた。


 白那。


 頼む。


 虎に石を投げないでくれ。


 清正の視線が白那へ落ちた。


「……童か」


「童ではない。水守じゃ。目も耳も鈍いのう」


 左近が一歩出かける。


 湊一は小声で止めた。


「左近、抜くな。絶対に抜くな」


「しかし殿、水守様が加藤殿を挑発しております」


「実況しなくていい」


 清正は白那を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「佐和山には、妙なものがいる」


「よく言われます」


 湊一は苦笑した。


 白那はふんと鼻を鳴らし、団子をかじる。


 頬が小さく膨らむ。


 神々しさと幼さと毒舌が、非常に面倒な形で同居していた。


「まずは白湯を」


 湊一が椀を取ろうとすると、清正はすぐに言った。


「いらぬ。毒でも入っておったら困る」


 空気がまた重くなる。


 左近の眉間にしわが寄った。


 家臣たちの手も、わずかに動く。


 まずい。


 これは湯気どころか火花が散る。


 湊一は椀を手に取った。


「では、私が先に飲みます」


 その時だった。


 小さな足音がした。


 娘が、両手で椀を持って清正の前へ進み出ていた。


 妻が息を呑む。


 湊一も思わず止めようとした。


 だが、娘の顔は真剣だった。


 怖くないはずがない。


 目の前にいるのは、加藤清正である。


 大人でも身がすくむ男だ。


 それでも娘は、昨日覚えた礼を崩さず、ゆっくり膝を折った。


「お疲れに、ございます」


 小さな声。


 けれど、逃げてはいない。


 清正は黙って見下ろした。


 鋭い目に射られ、娘の手がかすかに震える。


 次の瞬間、椀の縁が指から滑った。


「あっ」


 白湯がこぼれた。


 熱湯ではない。


 湯冷ましにした白湯だ。


 だが、畳の端と清正の足元を濡らし、椀がころんと音を立てて転がった。


 誰も動かなかった。


 娘の顔から血の気が引く。


 妻が踏み出しかける。


 湊一も動きかけた。


 その前に、白那の声が落ちた。


「動くな」


 幼い声なのに、水底から響くような重さがあった。


「それは小さき湯番の粗相じゃ。粗相を取り上げるな」


 湊一は足を止めた。


 娘は泣きそうな顔で、こぼれた白湯を見ている。


 清正の供の一人が、口の端を歪めた。


「治部殿のもてなしとは、ずいぶん賑やかなものよ」


 左近の目が据わった。


 湊一は左近の袖をつかむ。


「左近。今、動くな」


「……承知」


 低い声だった。


 空気は張り詰めたままだ。


 その中で、娘が小さく息を吸った。


「も、申し訳ございませぬ」


 声は震えていた。


 それでも、逃げなかった。


 娘は転がった椀を拾い、布を取り、濡れたところに膝をついた。


 小さな手で、畳の端を拭き始める。


 一度、布がうまく絞れず、水がまた指先から落ちた。


 娘の目に涙が溜まる。


 だが、もう一度布を畳み直した。


「もう一度……させてくださりませ」


 清正は黙った。


 湊一の胸の奥が、じんと熱くなる。


 たったそれだけの言葉だ。


 だが、幼い体には大きすぎる勇気だった。


 白那が娘の隣にしゃがんだ。


 白い髪がふわりと揺れる。


「下手じゃのう」


 ひどい第一声だった。


 娘の目がさらに潤む。


 だが白那は、団子を持っていない方の手で布の端を押さえた。


「水はこぼれる。湯も冷める。人もしくじる」


 白那は淡々と言った。


「こぼしたなら拭け。冷めたなら温めよ。しくじったなら、次の手を出せ。それが水の理じゃ」


 娘が白那を見る。


 白那は顔をそむけた。


「泣く暇があるなら、手を動かせ。小さき湯番」


「……はい」


 娘は涙をこらえ、布を動かした。


 白那も隣で、ほんの少しだけ手を添える。


 助けるというより、逃げ道をふさぐような手だった。


 優しくはない。


 けれど、見捨ててもいない。


 湊一は思った。


 白那らしい。


 口は悪い。


 でも、立ち上がる場所だけは残す。


 娘は畳を拭き終えると、深く頭を下げた。


「失礼いたしました。新しい白湯を、お持ちいたします」


 清正はしばらく無言だった。


 そして、低く言った。


「……持ってこい」


 娘の顔が上がる。


「はい」


 今度は、妻がそっと新しい椀を渡した。


 娘は両手で受け取り、ゆっくり歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 さっきより慎重に。


 けれど、さっきより逃げずに。


 清正の前に膝をつき、椀を差し出した。


 清正はそれを受け取った。


 すぐには飲まなかった。


 まず、湊一を見る。


「毒味は」


「私が」


「よい」


 清正は椀に口をつけた。


 白湯をひと口。


 ただの湯である。


 だが、その場の者たちは、まるで大きな賭けを見届けたように黙っていた。


 清正は椀を置く。


「……ぬるい」


 娘の肩が跳ねた。


 湊一も固まる。


 しかし清正は続けた。


「だが、道中の腹にはちょうどよい」


 娘の表情が、少しだけ明るくなった。


 白那が小さく笑う。


「虎にも舌はあったか」


「水守。おぬし、口が過ぎるぞ」


「耳が痛いなら、まだ生きておる証じゃ」


 清正の供たちがぎょっとした。


 だが清正は怒らなかった。


 むしろ、わずかに口の端を上げた。


「なるほど。噂より妙だ」


 湯殿へ案内する前、清正は足を進めかけた。


 その時、娘がまた小さく声を上げた。


「あの……」


 清正の足が止まる。


「何だ」


 鋭い声に、娘の肩が小さく跳ねた。


 それでも、娘は逃げなかった。


 今度は小さな桶を抱えている。


「お足が、冷えておられます」


 清正の眉が動いた。


「足だと?」


「はい」


 娘は清正の足元を見た。


「草鞋の緒に泥が固まっております。歩かれる時、右のお足を少しだけ早く置かれました」


 場が静まった。


 湊一も、思わず娘を見る。


 清正は黙って自分の足元へ目を落とした。


 たしかに、草鞋の緒には乾いた泥が絡み、足袋の先も冷えた土で濡れている。


 馬を降り、長く歩いてきた者の足だった。


「……それがどうした」


「湯へ入られる前に、まず足だけ温めた方がよろしいかと存じます」


 娘は桶を差し出した。


 中には、熱すぎぬ湯が張られている。


「いきなり湯へ入ると、体が驚くと……父上が申しておりました。旅の方は、腹より先に足が疲れることがある、と」


 清正の目が、湊一へ向いた。


「石田。おぬし、子にそのようなことを教えておるのか」


「教えたというより……見て覚えたのでしょう」


 湊一は静かに答えた。


 娘は桶を抱えたまま、真剣な顔で清正を見上げている。


 怖いはずだ。


 けれど、目は逃げていない。


 清正はしばらく黙っていた。


 やがて、低く息を吐く。


「……兵の足を見るか」


 その声には、先ほどまでの刺々しさとは違う響きがあった。


「小さき湯番が、な」


 娘は少しだけ首をかしげた。


「湯番は、お湯だけを見るのではないと、教わりました」


「誰にだ」


 娘は少し迷ってから、白那を見た。


 白那は団子を持ったまま、偉そうに胸を張る。


「水は器だけにあるのではない。人の顔にも、足にも、腹にもある。見えぬなら湯番失格じゃ」


「……ずいぶん口の悪い師だな」


「口が悪いのではない。耳が弱いだけじゃ、虎」


 清正の供たちが息を呑む。


 しかし清正は怒らなかった。


 むしろ、かすかに喉の奥で笑った。


「なるほど」


 清正は娘の前に腰を下ろした。


 そして、自ら草鞋の緒をほどく。


 それだけで、周囲の者たちが驚いた。


 清正は桶に足を入れる。


 湯気が、ふわりと上がった。


「……ぬるい」


 娘の顔が強張る。


 だが清正は、すぐに続けた。


「だが、足にはちょうどよい」


 娘の表情が、ぱっと明るくなった。


 清正は湯気の向こうで、低く唸るように言った。


「石田治部。おぬしの城は妙だ。湯で人を集めるなど、怪しいことこの上ない」


 湊一は黙って受け止めた。


「だが」


 清正は娘を見た。


「この小さき湯番は、兵の足を見た。そこは悪くない」


 娘は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼はよい。次はこぼすな」


「はい」


 白那が横から口を挟む。


「こぼしたから見えたものもある。虎よ、そこを忘れるな」


「おぬしは本当に一言多いな」


「一言で済ませてやっておるのじゃ。感謝せい」


 清正は呆れたように鼻を鳴らした。


 だがその顔からは、ほんの少しだけ険が抜けていた。


 その後、清正は湯殿を見た。


 湯殿といっても、豪奢なものではない。


 木の香りが残る簡素な場所。


 磨かれた桶。


 乾いた布。


 足を冷やさぬように敷かれた板。


 湯は熱すぎず、ぬるすぎず。


 湯上がりには白湯と、軽い飯を用意してある。


 清正は眉間にしわを寄せたまま、それらを見た。


「戦支度ではないな」


「戦支度でもあります」


「どちらだ」


「帰る場所を作ることも、戦支度です」


 湊一は静かに言った。


「腹が減れば、人は荒みます。体が冷えれば、心も縮みます。汚れたままでは、誇りも曇る。だから湯を沸かし、飯を出し、水を整える」


「それで勝てると思うか」


「わかりません」


 湊一は正直に答えた。


「ですが、負けるためにやっているわけでもありません」


 清正の目が、湊一を射抜く。


 湊一は逃げなかった。


「私は、天下を湯で取れるとは思っておりません。ただ――誰かが帰って来た時、冷えた体を温められる場所を残したい」


 言ってから、湊一は自分の言葉に少し驚いた。


 現代の湯宿で、何度も思っていたことだった。


 客はただ泊まりに来るのではない。


 疲れて来る。


 迷って来る。


 何かを抱えて来る。


 だから宿は、派手でなくてもいい。


 帰ってこられる場所であればいい。


 それは戦国でも、変わらないのかもしれない。


 清正はしばらく黙っていた。


 やがて、低く笑った。


「石田治部が、妙なことを言うようになった」


「よく言われます」


「そればかりだな」


「最近、自覚があります」


 湯殿の外で、左近が真顔でうなずいていた。


「殿は以前より、湯気にまみれてから強くなられました」


「その評価はどうなんだ」


 清正が声を上げて笑った。


 大きくはない。


 だが、確かに笑いだった。


 湯気が少しだけ、角を丸くしたように見えた。


 昼前、清正は湯を使った。


 最初は疑うように湯を見ていたが、湯から上がる頃には、肩の力がほんの少し抜けていた。


 湯上がりには、麦飯と汁、焼いた川魚、香の物を出した。


 派手な膳ではない。


 だが温かかった。


 清正は黙って食べた。


 味の感想は言わなかった。


 けれど、汁を残さなかった。


 湊一には、それだけで十分だった。


 食後、娘が恐る恐る団子の皿を運んできた。


 今度は落とさなかった。


 皿を置く手はまだ緊張していたが、さっきよりも少しだけ背筋が伸びている。


 白那が横から皿を覗き込んだ。


「これは供物じゃな」


「白那さまの分も、ございます」


 娘が小さく言った。


 白那は一瞬だけ黙った。


 それから、ぷいと横を向く。


「当然じゃ。水守を飢えさせるとは、土地への反逆ぞ」


「はい」


 娘は真面目にうなずいた。


 湊一は笑いをこらえた。


 白那は団子を一つ取り、少し迷ってから、半分に割った。


 そして、片方を娘の皿に戻す。


「……分配じゃ」


「ありがとうございます」


「礼などいらぬ。供物の扱いを教えただけじゃ」


 そう言いながら、白那の耳が少し赤い。


 妻がそれを見て、静かに微笑んでいた。


 娘は半分の団子を両手で持ち、大事そうに食べた。


 白那も隣で団子を食べる。


 二人の背丈はよく似ている。


 けれど片方は人の子で、片方は古い水の守り神だ。


 それでも、団子を半分にする姿だけは、ただの幼い友のようにも見えた。


 清正はその光景を見ていた。


「……石田」


「はい」


「おぬし、本当に何を始めるつもりだ」


 湊一は少し考えた。


 天下取りではない。


 戦をなくすなどと、軽々しく言えるほど甘くもない。


 関ヶ原は近づいている。


 黒い羽の気配も、世の不穏も、すべて水底でつながっている。


 それでも。


「湯を沸かします」


「答えになっておらぬ」


「飯を出します」


「なお悪い」


「人が帰れる場所を作ります」


 清正が黙った。


 湊一は続けた。


「それがどれほど力になるか、まだわかりません。ですが、誰かが疲れた時に、座れる場所がある。腹が減った時に、温かい汁がある。失敗しても、もう一度やり直せる場所がある」


 湊一は、娘と白那を見た。


「そういう場所は、戦の世にも必要だと思うのです」


 清正は答えなかった。


 ただ、立ち上がると、湯殿の方を一度振り返った。


「……湯気は、目を曇らせる」


「はい」


「だが、冷えた目には少し効く」


 それだけ言って、清正は歩き出した。


 門へ向かう背中は、まだ遠い。


 湯ひとつで埋まる溝ではない。


 言葉ひとつで変わる歴史でもない。


 それでも、湊一は感じていた。


 今日、ほんの少しだけ、何かが流れた。


 こぼれた白湯のように。


 拭かれた畳の端のように。


 小さな手が、もう一度差し出した椀のように。


 そして、冷えた足を見つけた小さき湯番の目のように。


「三成」


 白那が隣に来ていた。


 団子の串を持ったまま、清正の去った門を見ている。


「あれは虎じゃ。撫でたつもりでも、噛む時は噛む」


「わかってる」


「わかっておらぬ顔じゃ」


「厳しいな」


「甘い顔をするな。おぬしの甘さは、湯に溶ければ温もりになる。だが戦場にこぼせば、血を呼ぶ」


 湊一は黙った。


 白那の言葉は痛い。


 けれど、必要な痛みだった。


「では、どうすればいい」


「こぼすな、とは言わぬ」


 白那は娘の方を見た。


 娘は妻に褒められ、照れながら布を畳んでいる。


「こぼした後に、誰の手で拭くかを間違えるな」


 湊一の胸に、その言葉が沈んだ。


 水守は、ただ可愛いだけではない。


 団子を供物と言い張る幼い姿でも、彼女は土地の古い理を見ている。


 人の弱さも。


 失敗の重さも。


 それでも立ち上がる手の尊さも。


「……肝に銘じる」


「ならば団子を寄越せ」


「流れが急すぎる」


「水とはそういうものじゃ」


 白那は当然のように手を出した。


 湊一は苦笑し、残っていた団子を一本渡す。


 白那は満足げに受け取り、ふと思い出したように娘を呼んだ。


「小さき湯番」


「はい、白那さま」


「今日の粗相、忘れるな」


 娘の顔が少し曇る。


 白那は団子をかじりながら言った。


「忘れねば、次は手が早くなる。次の次は、誰かの粗相を拭けるようになる」


 娘は目を丸くした。


 それから、小さくうなずいた。


「はい」


「よい返事じゃ」


 白那はそう言うと、半分残った団子を娘に差し出した。


「これは褒美ではない」


「では、何でございますか」


「供物の余りじゃ」


 娘は少し笑った。


「はい。供物の余り、いただきます」


 白那は満足げにうなずく。


 妻は袖で口元を隠し、静かに笑っていた。


 左近はなぜか感極まった顔をしている。


「殿」


「何だ、左近」


「小さき湯番殿の働き、見事にございました。拙者も次に粗相をした際は、自ら拭きます」


「いや、できれば粗相はしない方向で頼む」


「承知。粗相せぬ覚悟で拭きます」


「拭く前提から離れて」


 佐和山の空に、湯気が上がる。


 飯の匂いが混じる。


 水の音がする。


 小さな失敗があり、小さな勇気があり、少しだけ笑いが残った。


 戦は近い。


 人の溝は深い。


 黒い羽は、まだどこかで飛んでいる。


 だが今日、佐和山では一杯の白湯が差し出された。


 一度こぼれて、もう一度。


 それだけのことが、確かに誰かの目を変えた。


 関ヶ原まで、あと七十四日。

お読みいただきありがとうございます。


今回は、清正が佐和山の噂を聞きつけ、疑いの目で訪れる回でした。

三成と清正の溝は、湯ひとつで簡単に埋まるものではありません。

けれど、一杯の白湯、小さき湯番の失敗と勇気、そして白那の毒舌が、ほんの少しだけ空気を変えました。

娘と白那の距離も、急に仲良しになるのではなく、団子を半分こできるくらいの半歩です。

この少しずつ近づいていく感じを大切にしていきたいです。

次回も、佐和山の湯気と水音、そして団子を求める水守にお付き合いいただけましたら幸いです。

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