表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『佐和山若旦那録 〜湯宿の若旦那、石田三成として帰る場所を守る〜』  作者: 天手古まい
第一章 佐和山の水

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/47

挿話 二湯 小さき湯番、団子を半分こ

本編の少し横道、佐和山の湯場での小さなお話です。


戦も政も、まだ遠くに見えているようで、実は少しずつ近づいている頃。

けれど湯気のそばには、団子を分け合う者たちがいて、

誰かのために一歩だけ前へ出ようとする、小さな湯番がいます。

白那と娘の距離が、ほんの少しだけ近づく挿話です。

湯気と団子と、少しだけ口の悪い水守をお楽しみください。

挿話 二湯 小さき湯番、団子を半分こ


佐和山の朝は、湯気の白さから始まる。


井戸から汲み上げた水が桶に移され、火にかけられ、やがて湯となる。

ただそれだけのことが、ここでは毎朝の小さな戦であった。


湊一――今は石田三成と呼ばれる身である男は、湯場の片隅で腕を組んでいた。


「……うん。やっぱり、朝風呂は正義だな」


「また訳の分からぬことを申しておる」


井戸端の石の上に腰かけ、白那が団子をかじりながら言った。


白い髪を揺らし、巫女とも童女ともつかぬ姿で偉そうに座っている。

足はぷらぷら。

口元には、きな粉がついていた。


「白那。お前、朝から団子か」


「供物じゃ」


「自分で取りに行っただろ」


「供物とは、受け取る者の気持ちが大事なのじゃ」


「便利な信仰だな」


湊一が呆れていると、湯場の入口から小さな足音が聞こえた。


そろり、そろり。


まるで猫の子のように慎重な歩みで、娘が桶を抱えて入ってくる。

まだ桶は空に近い。けれど本人にとっては大仕事らしく、唇をきゅっと結んでいた。


湊一は思わず声をやわらげる。


「おはよう」


娘はびくりと肩を揺らし、それから小さく頭を下げた。


「……おはよう、ございます」


まだぎこちない。


父と呼ぶべき相手が父でありながら、どこか以前と違う。

娘はそれを幼いなりに感じ取っているのだろう。


湊一もまた、その距離の取り方をまだ測りかねていた。


現代で旅館の若旦那として客の顔色を読むことには慣れていた。

けれど、目の前の幼い娘の心だけは、そう簡単には読めない。


営業スマイルでどうにかなる相手ではない。

いや、家族に営業スマイルを向けるなという話である。


「手伝いか?」


湊一が尋ねると、娘は桶を胸に抱え直して、こくりとうなずいた。


「湯番を……少し」


「湯番?」


その言葉に、白那が片眉を上げた。


「ほう。小さき者が湯を守るとな」


娘は白那を見ると、さらに背筋を伸ばした。


「白那さまの、お手伝いも……できます」


「ふむ」


白那は団子を持ったまま、たいそう偉そうにうなずいた。


「ならば、まずは水をこぼさず運べ。湯は甘く見れば牙をむく。熱きものを扱う者は、己の足元から見ねばならぬ」


珍しくまともなことを言った。


湊一が少し感心していると、白那は続けた。


「それと、団子は水守への正式な捧げ物である。覚えておけ」


「後半で台無しだよ」


娘は真剣な顔でうなずいた。


「団子……」


「覚えなくていい。いや、覚えるな」


湊一の制止は、少し遅かった。


その朝、娘は小さな湯番となった。


最初の仕事は、井戸のそばから湯場の入口まで水を運ぶことだった。

大人なら何でもない距離である。

しかし小さな腕には、桶の取っ手が重い。


娘は両手で桶を抱え、ゆっくりと歩いた。


一歩。

二歩。


白那は石の上から眺めている。


「腰が高い」


「はいっ」


「腕だけで持つな。身体ごと運べ」


「はいっ」


「あと顔が硬い。湯が逃げる」


「湯が、逃げる……?」


「今のは聞き流せ」


湊一は横から口を挟んだ。


娘は困ったように湊一を見て、それから白那を見た。

どちらを信じればよいのか迷っているらしい。


白那は鼻を鳴らした。


「湯も水も、人の気に触れる。雑に扱えば荒れる。大事にすれば応える。そういうものじゃ」


その言い方は、先ほどより少しだけ神さびていた。


娘は桶を見下ろした。


「大事に……」


「うむ」


「はい」


小さな返事とともに、娘はまた歩き出した。


湊一は何も言わず、その後ろを見守った。


娘の足取りは遅い。

桶の中の水は何度も揺れた。

少しだけこぼれ、足元の土を濡らした。


それでも娘は立ち止まらなかった。


湯場の入口までたどり着いた時、彼女はほっと息を吐いた。

桶の水は、最初より少し減っていた。

だが、確かに運びきった。


「できました」


その声は小さかったが、ほんの少し弾んでいた。


湊一はうなずいた。


「上出来だ」


娘の頬が、湯気に紛れて少し赤くなる。


白那はというと、団子をかじりながら偉そうに言った。


「まあ、初めてにしては悪くない。水に嫌われてはおらぬ」


「褒めてるのか、それ」


「最大級じゃ」


「分かりにくい最大級だな」


娘はその言葉を胸にしまうように、そっと桶を置いた。


けれど、次の仕事で事件は起きた。


湯場の床を拭くため、娘が小さな布を手に取った時である。

桶の縁に袖が引っかかった。


「あっ」


水の入った桶が、ぐらりと傾く。


湊一が手を伸ばすより早く、水が床へこぼれた。

ばしゃん、という音が湯場に響く。


娘の顔から血の気が引いた。


「ご、ごめんなさい……!」


小さな手が、慌てて布を動かす。

けれど焦れば焦るほど、布は水を吸って重くなり、うまく扱えない。


「大丈夫だ。怪我はないか?」


湊一が膝をつく。


娘は首を横に振ったが、目には涙が浮かんでいた。


「湯番、できませんでした……」


その言葉は、思ったよりも深く湊一の胸に刺さった。


失敗したことより、役に立てなかったと思っていること。

幼い背中に、そんな重さを背負わせてしまったのかと、湊一は息を詰めた。


「できないことはない。水をこぼしただけだ」


「でも……」


「旅館でもな」


言いかけて、湊一は口を閉じた。


旅館、と言っても伝わらない。


「……湯宿でも、桶を倒すことはある。茶をこぼすことも、膳を落とすこともある。大事なのは、その後だ」


娘が涙をこぼしそうな目で見上げる。


湊一は布を取り、床に広がった水を一緒に拭いた。


「失敗しても、すぐ拭けばいい。熱い湯なら人を遠ざける。水なら足元を滑らせないようにする。誰かのために動けたなら、それも湯番の仕事だ」


娘は黙って聞いていた。


白那も、珍しく茶々を入れなかった。


ただ、石の上からじっと娘を見ていた。


やがて白那が、ふいに立ち上がる。


「泣くな」


少し強い声だった。


娘の肩が跳ねる。


湊一が白那を見ると、彼女は団子の串を握ったまま、娘の前に歩いてきた。


「水をこぼしたくらいで、湯場は壊れぬ。佐和山も滅びぬ。じゃが、こぼした水を見ぬふりする者は、湯番ではない」


白那は娘の前にしゃがみ込んだ。


見た目の背丈は近い。

けれど、その瞳だけは古い井戸の底のように深かった。


「おぬしは見ぬふりをせなんだ。ならばよい」


娘の唇が震えた。


「……よい、のですか」


「よい」


白那は言い切った。


そして、少しだけ目を逸らす。


「それに、最初からうまくやる者など、つまらぬ」


「つまらない?」


「うむ。失敗して、覚えて、また来る。そういう者のほうが、水は顔を覚える」


娘は涙を袖で拭いた。


「水が、顔を……」


「覚える。たぶん」


「たぶんかよ」


湊一が思わず突っ込むと、白那はむっとした顔を向けた。


「細かい男じゃのう。だから眉間に皺が寄るのじゃ」


「誰のせいだと思ってる」


娘が、ほんの少し笑った。


本当に小さな笑いだった。

けれど湯気の中では、それで十分だった。


床を拭き終える頃には、湯場はまた静かになっていた。

桶は元の場所へ戻され、布は絞られ、朝の光が湯気を白く染めている。


娘は両手を膝に置いて、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「うむ。よく働いた」


白那は満足げにうなずいた。


「では、褒美じゃ」


「白那が出すのか?」


湊一が驚く。


白那は懐から紙包みを取り出した。

中には団子が二つ。


いや、正確には一つと半分だった。


すでに食べている。

褒美の段階で減っている。


「おい」


「何じゃ」


「褒美を先に食うな」


「毒見じゃ」


「団子に毒見はいらない」


「水守の厳正なる務めじゃ」


白那は堂々としていた。


娘はそのやり取りを見て、また少し笑った。


白那は紙包みから残った団子を一つ取り、娘に差し出した。


「小さき湯番。これは供物の分け前じゃ」


娘は目を丸くした。


「よろしいのですか?」


「うむ。特別じゃ。ありがたく受け取れ」


娘は両手で団子を受け取った。

宝物でも受け取るように、そっと。


だが、しばらく見つめたあと、娘は団子を半分に割った。


そして片方を、白那へ差し出す。


「白那さまも」


白那の動きが止まった。


湊一も少し驚いた。


「……わしに?」


「はい。半分こ、です」


娘は真剣だった。


「水守さまにも、湯番にも、半分こです」


白那は団子を見た。

娘を見た。

そしてまた団子を見た。


いつものように偉そうに受け取るかと思ったが、そうはしなかった。


白那は少しだけ困ったような顔をした。


「……変な子じゃ」


「だめ、ですか?」


「だめではない」


白那は小さな手を伸ばし、半分の団子を受け取った。


「ただ、供物を分けられる水守など、そうはおらぬ」


「では、白那さまが初めてです」


娘がそう言うと、白那は目を瞬かせた。


それから、ぷいと横を向く。


「ふん。口のうまい小娘じゃ」


耳が赤かった。


湊一は見逃さなかったが、言わないでおいた。

ここで突っ込めば、たぶん水をかけられる。


娘と白那は、湯場の縁に並んで腰かけた。


片方は城主の娘。

片方は水守の巫女。

けれど団子を持つ手の小ささは、よく似ていた。


二人は同時に団子をかじった。


「おいしいです」


娘が言った。


「当然じゃ。これは供物ゆえ」


白那が答える。


「供物は、おいしいのですか?」


「おいしくなくてはならぬ。神も水も、まずいものでは機嫌を損ねる」


「そうなのですか」


「そうじゃ」


「では、今度はもっとおいしいものを」


「ほう」


白那の目がきらりと光った。


「小さき湯番。見込みがある」


「そこに反応するな」


湊一は頭を抱えた。


だが、胸の奥は不思議と温かかった。


湯場の湯気。

井戸の水音。

団子を半分こする、小さな背中が二つ。


戦国の城であるはずの佐和山に、ほんの一瞬、現代の湯宿で見たような朝の気配が宿った。


誰かが働き、誰かが失敗し、誰かが笑う。

湯が沸き、飯の支度が始まり、今日も一日が動き出す。


城とは、石垣だけでできているのではない。


人がいて、水があり、湯気が立つ。

帰る場所とは、そういうものの積み重ねなのだろう。


湊一は娘と白那を見ながら、静かに思った。


この子たちが笑える場所を、残したい。


天下を取るためではない。

名を残すためでもない。


たとえ敗れる日が来たとしても。

誰かがここへ帰ってこられるように。


その時、井戸の奥で、ちりん、と鈴の音がした。


白那が団子をくわえたまま、ちらりと井戸を見た。


「……聞こえたか」


「ああ」


湊一はうなずく。


娘も顔を上げた。


「鈴の音、ですか?」


白那は少し考え、それから得意げに言った。


「小さき湯番を、水が覚えた音じゃ」


「本当ですか?」


娘の目が輝く。


白那は胸を張った。


「たぶん」


「たぶんかよ」


湊一の突っ込みに、娘が笑った。

白那も、口元を隠すように団子をかじった。


湯気は白く、やわらかく立ちのぼる。


佐和山の朝は、今日も湯から始まる。

そしてその片隅に、小さな湯番がひとり増えた。

お読みいただき、ありがとうございました。


今回は本編の大きな流れから少し離れて、娘と白那の小さな交流を描いた挿話でした。

白那は偉そうで、口も悪く、団子にはやたら弱い水守ですが、

こういう何気ない場面でこそ、少しずつ佐和山に馴染んでいくのかなと思います。

湊一にとっての佐和山は、戦の城である前に、

誰かが湯に入り、飯を食べ、帰ってこられる場所です。

その「帰る場所」を、娘や白那もまた少しずつ形にしていきます。


次回から本編へ戻ります。

佐和山の湯気は、まだまだ絶やさず参ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ