第九湯 小さき湯番、鈴を鳴らす
いつもお読みいただきありがとうございます。
第九湯です。
今回は、佐和山の湯殿に「小さき湯番」が生まれるお話です。
戦国の城でありながら、湯札、順番、怪我防止、そして苦情対策。
若旦那気質が、また少しだけ漏れております。
白那と娘の距離も、団子と鈴を通してほんの半歩だけ近づきます。
湯気の向こうで少しずつ変わっていく佐和山を、「湯」るりとお楽しみください。
第九湯 小さき湯番、鈴を鳴らす
佐和山の朝は、鈴の音から始まるようになった。
ちりん、と一度。
湯殿の掃除が終わった合図。
ちりん、ちりん、と二度。
湯加減が整った合図。
そして、三度続けて鳴らされたなら――。
「何かあった合図だ。湯殿へ入ってはならない」
俺がそう説明すると、集まった者たちは一斉に鈴を見た。
湯殿の入口に吊るした、小さな真鍮の鈴だ。
紐の先を握っているのは、俺の娘だった。
両手で握り締めているせいで、紐が少し震えている。
「わ、わたしが鳴らすのですか?」
「ああ」
「間違えたら……皆さまが困りませぬか」
「間違えぬ者に任せる役目などない」
俺が答えると、娘はますます困った顔になった。
隣に立つ妻が、口元をわずかに緩める。
「殿。その言い方では、励ましているのか脅しているのか分かりませぬ」
「励ましているつもりだ」
「余計に心配になりました」
娘が鈴を胸元へ引き寄せた。
その背後に置かれた水桶から、くすくすと水音が鳴る。
桶の縁には、白那が腰掛けていた。
挿話のときよりも、娘との間は近い。
もっとも、本人は決して認めないだろう。
「愚か者め」
白那は短い脚を組み、ふん、と鼻を鳴らした。
「鈴ごときで怯えるでない。鳴らすべきときに鳴らさぬ者の方が、よほど人を困らせる」
「白那さまは、間違えたことがないのですか?」
「ない」
娘が素直に感心した顔をした。
白那は堂々と胸を張る。
「妾が間違えたのではない。周りの者どもが、妾の正しさに追いつけなかっただけじゃ」
「それを間違いというんじゃないか?」
「黙れ、湊一」
即座に睨まれた。
少し離れた場所で、左近が肩を揺らしている。
笑うなら隠せ。
「しかし殿」
左近は湯殿の前に並べた木札を手に取った。
「怪我をした者、年寄り、身体の弱った者を先に入れ、元気な武者どもは後に回す。これでよろしいのでございますな」
「ああ」
木札には、それぞれ簡単な印を刻んである。
丸は身体を休める者。
三角は傷を洗う者。
何も刻んでいない札は、急がぬ者だ。
字の読めない者でも分かるようにした。
「湯は褒美ではない。身体を戻すための場所だ。必要な者から入ってもらう」
「武功を立てた者からではなく?」
「戦へ出た者だけが、佐和山を支えているわけではない」
飯を炊く者がいる。
水を運ぶ者がいる。
薪を割る者も、傷を縫う者も、城下から野菜を届ける者もいる。
誰か一人が倒れれば、その仕事を別の誰かが背負う。
現代の旅館でも同じだった。
表に立つ者だけで宿は動かない。
湯殿は、働き続ける者をもう一度立たせる場所だ。
「承知いたしました」
左近は木札を娘へ差し出した。
「では、こちらをお預かりくださいませ」
「わたしが?」
「湯へ入る者に札を渡し、出た者から受け取るのでございます」
娘は木札の束を受け取った。
小さな手には、少し重い。
それでも落とさぬよう、胸元へしっかり抱えた。
「お役目でございますな」
「はい」
「立派な湯番にございます」
「湯番……」
娘が、その言葉を小さく繰り返す。
白那が桶の縁から見下ろした。
「まだ“小さき”を付けておけ。ひよこが鶴を名乗るには早い」
「白那さまも小さいです」
「妾は小さくない!」
白那が桶の上で立ち上がった。
「これは力を慎んでおる姿じゃ! そなたのような子どもと一緒にするでない!」
「見たところ、同じくらいでございます」
「愚か者! 目まで未熟か!」
娘は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、妻もほっと息をつく。
湯殿に、人が集まり始めた。
足を痛めた足軽。
腰を曲げた台所の女。
腕に包帯を巻いた若侍。
城下から水桶を運んできた老人もいる。
娘は一人ずつ様子を見ながら、木札を渡していった。
「こちらをお持ちください」
「おお、姫様からいただけるとは」
「姫ではありませぬ。今日は、湯番でございます」
「これは失礼いたしました。小さき湯番殿」
老人が深々と頭を下げる。
娘は慌てて頭を下げ返した。
「どうぞ、お足元にお気をつけください」
「かたじけない」
左近が俺の隣へ寄り、小声で言った。
「殿より愛想がよろしい」
「俺と比べる必要があるか?」
「城主自ら、見習われてはいかがですかな」
「左近」
「聞こえぬふりをいたします」
この男は、主人に対する遠慮をどこかへ置き忘れている。
もっとも、以前の三成なら、この軽口さえ許さなかったかもしれない。
正しさを求め過ぎて、正しいことを伝える相手の心を見落とす。
三成の記憶には、その失敗がいくつも沈んでいた。
俺は娘の背中を見た。
一人ずつ木札を渡し、何度も頭を下げている。
あの小さな背中に、同じ失敗を背負わせたくはなかった。
◇
最初の鈴が鳴った。
ちりん。
湯殿の掃除が終わった合図だ。
続いて、白那が湯口へ手をかざす。
水面がわずかに揺れ、白い湯気が立ち上った。
「熱過ぎず、冷た過ぎず」
白那が偉そうに頷く。
「妾が見てやったのじゃ。ありがたく浸かるがよい」
「白那さまは、何もしていないように見えました」
「見えぬところでしておる!」
娘が首をかしげると、白那はぷいと顔を背けた。
娘が二度目の鈴を鳴らそうと、紐へ手を伸ばす。
そのときだった。
「あっ」
湯殿の中で、女中の声がした。
がたん、と桶が倒れる。
灰汁で洗い物をしていた桶が傾き、薄く濁った水が板張りの床へ広がった。
足を痛めていた男が、濡れた板へ踏み出す。
身体が大きく傾いた。
「危ない!」
娘が叫ぶ。
男は壁へ手をついたが、傷めた足に力が入らない。
その後ろには、腰の曲がった老婆がいた。
娘は鈴の紐を握ったまま、固まった。
鈴を鳴らせばよい。
三度。
決めたとおりに。
だが、大人たちの声と桶の音に囲まれ、指が動かない。
自分が間違っていたら。
大したことではなかったら。
皆を騒がせてしまったら。
そんな迷いが、小さな顔に浮かんでいる。
「鳴らせ!」
俺が声を上げるより先に、白那が叫んだ。
「そなたが危ないと思うたのであろう!」
娘が白那を見る。
「外れておれば後で考えればよい! 人が倒れてから鳴らして何になる!」
その言葉に、娘の手が動いた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
三度の鈴が、佐和山の朝に響いた。
「湯殿を止める!」
俺は入口へ走った。
「左近、後ろの者を下がらせろ!」
「承知!」
左近が両腕を広げ、入ろうとしていた者たちを止める。
俺は足を滑らせた男の腕を取り、壁際へ座らせた。
「傷は?」
「ひ、開いてはおりませぬ」
「無理に立つな。後ろの者も、一度外へ」
老婆は女中に支えられ、ゆっくりと湯殿を出た。
娘は鈴の紐を握ったまま、青い顔をしている。
「わたしが桶の近くに置いた木札を、取ろうとして……」
急いだ拍子に、桶へ袖を引っかけたらしい。
床へ広がった灰汁の水を見つめ、娘の目に涙がたまった。
「わたしのせいです」
「泣くのは後じゃ」
白那が湯殿へ入ってきた。
幼い足で、濡れた板を踏む。
「白那、滑るぞ」
「誰に申しておる」
白那が指先を水面へ向けた。
床に広がっていた水が、細い筋となって動き始める。
灰の混じった濁りだけが集まり、板の隙間を避けながら排水口へ流れていく。
まるで水自身が、進む道を知っているかのようだった。
白那の額に、うっすらと汗が浮かぶ。
「これしきの水も扱えぬとは」
強がっているが、息が少し浅い。
俺は白那の肩へ手を伸ばした。
「もういい。あとは人の手で拭く」
「分かっておる。妾は道を示しただけじゃ」
白那は俺の手を払い、娘を見上げた。
「そなたも突っ立っておるな。布を持て」
「はい!」
娘は袖で涙を拭い、女中たちと一緒に雑巾を取りに走った。
湯殿の板を拭く。
桶を片づける。
灰汁を使う場所を、入口から離す。
濡れた板には、滑り止めとして目の粗い筵を敷く。
誰か一人を責める前に、同じことが起きない仕組みを作る。
失敗を怒鳴りつけるだけなら簡単だ。
だが、それでは次に隠す者が出る。
「殿」
左近が新しい筵を敷きながら言った。
「湯殿へ灰汁の桶を持ち込まぬ決まりにいたしましょう」
「ああ。洗い物は外で済ませる」
「娘御の失敗だけではございませぬな」
「置き場所を決めなかった俺の失敗でもある」
娘が手を止めた。
「父上も、失敗なさるのですか?」
「する」
「たくさん?」
「……そこは少し考えてから答えさせてくれ」
「たくさんにございますな」
左近が余計なことを言う。
白那が鼻で笑った。
「数え切れぬほどじゃ」
「お前たち、味方ではないのか?」
「味方であるから申しておる」
白那は濡れた袖を気にしながら、娘へ顎を向けた。
「そなたも覚えておけ。失敗をせぬ者などおらぬ」
白那の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「失敗した後に、目を逸らす者がおるだけじゃ」
娘は鈴を見上げた。
「わたしは……目を逸らしませぬ」
「ならばよい」
白那はすぐに、いつもの尊大な顔へ戻った。
「もっとも、妾ほど賢くなるには百年はかかるがな」
「白那さまは、百歳より上なのですか?」
「そこを聞くでない!」
湯殿に、笑い声が戻った。
◇
板が乾き、筵も敷き直された。
怪我人の様子にも問題はない。
娘は再び、鈴の紐を握った。
先ほどよりも手は震えていなかった。
「鳴らせるか?」
「はい」
「怖くないか?」
「少し、怖いです」
娘は正直に答えた。
「でも、怖いままでも鳴らします」
ちりん。
ちりん。
二度の鈴が鳴った。
湯殿再開の合図だ。
待っていた者たちが、今度は足元を確かめながら中へ入っていく。
先ほどの老人が、娘の前で立ち止まった。
「小さき湯番殿」
「はい」
「よい鈴でございました」
「ですが、わたしが桶を倒してしまいました」
「だからこそでございます」
老人は笑った。
「失敗した者が鳴らす鈴ならば、わしらも失敗を隠さずに済みます」
娘が目を丸くする。
やがて、木札を一枚差し出した。
「どうぞ、お足元にお気をつけください」
「かたじけない」
老人が湯殿へ入っていく。
俺は娘の前へ膝をついた。
「今日から、お前は佐和山の小さき湯番だ」
「わたしが……」
「鈴を鳴らし、札を渡し、危ないと思ったことを大人に伝える。それがお前の役目だ」
「でも、また間違えるかもしれませぬ」
「間違えてもいい」
俺は鈴を指した。
「黙っているより、ずっといい」
娘は鈴を両手で包み、深く頷いた。
「はい。小さき湯番のお役目、務めます」
妻が娘の肩へ手を置く。
左近は腕を組み、満足そうに頷いていた。
白那だけは、少し離れた水桶の上でそっぽを向いている。
「白那」
「何じゃ」
「お前からも何か言ってやれ」
「妾が?」
白那はしばらく黙り、娘を横目で見た。
「鈴の音は、水音より遠くへ届く」
「水音より?」
「そうじゃ」
白那は胸元の鈴へ触れる。
ちり、と澄んだ音がした。
「水の流れを見失うたときは、鈴を鳴らせ。帰る道を知る者に、その音が届く」
娘には、まだ言葉の意味が分からないようだった。
俺にも、すべては分からない。
だがその言葉は、なぜか胸の奥に残った。
帰る道。
帰る者。
そのために残される、鈴の音。
「白那さま」
娘が呼ぶ。
「明日も、わたしの鈴を見てくださいますか?」
白那はすぐには答えなかった。
しばらく尊大に腕を組んだ後、仕方なさそうに鼻を鳴らす。
「そなた一人では心許ないからな」
水桶から飛び降り、娘の隣に立つ。
「妾が見張ってやる。ありがたく思え」
「はい!」
「ただし、妾の方が上じゃ。忘れるでないぞ」
「白那さまも、小さき湯番ですか?」
「妾は水守じゃ!」
また笑い声が起こった。
その笑いに混じり、湯殿から男たちの安堵の息が聞こえる。
湯気が立つ。
鈴が鳴る。
人が失敗し、それでも顔を上げる。
こうして佐和山に、小さな湯番が生まれた。
その日の夕刻。
城門から、一人の使者が駆け込んできた。
「申し上げます!」
使者は俺の前へ膝をつき、息を整える。
「加藤主計頭清正様が、近江へ向かわれております」
左近が眉を上げた。
俺の胸には、三成の記憶がざわめき始める。
秀吉子飼いの猛将。
肥後の虎。
そして、石田三成とは決して相容れぬと噂される男。
「清正が……」
「佐和山で妙な湯を始めたとの噂を、お聞きになったようにございます」
使者は恐る恐る顔を上げた。
「真偽を、自ら確かめると」
湯殿から、白い湯気が流れてくる。
白那が俺を見上げた。
「今度は、虎か」
幼い水守は不敵に笑う。
「よかろう。湯に入れば、虎もただの濡れ猫じゃ」
「本人の前で言うなよ」
「妾が恐れると思うたか、愚か者」
白那の鈴が、ちりんと鳴った。
佐和山の湯を疑う男が、こちらへ近づいていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
今回は、大きな戦や策ではなく、湯殿の小さな決まりごとから、佐和山が少しずつ「帰る場所」になっていく回でした。
娘はまだ名前を出さず、「小さき湯番」として少しずつ物語に関わっていきます。
白那も相変わらず偉そうで口も悪いですが、ちゃんと見ているところは見ている……はずです。
団子さえあれば、たぶん。
次回は、この小さき湯番がもう少し頑張る予定です。
失敗するのか、小さな勇気を見せるのか。
そして白那がどう動くのかも、見守っていただけると嬉しいです。
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次の湯も、「湯」るりと沸かしてまいります。




