泥酔する前に
目の前にいる美少女を見つめながら、堂也は何度も深呼吸をし、必死に感情を落ち着かせようとした。
「待て、落ち着け。まずは思い出すんだ」
昨夜。
堂也は悠花がもうすぐ武道館のステージに立つというニュースを目にした。
彼女がついに夢を叶えたことが、自分のことのように嬉しかった。
「よし、今日は美味い酒でも飲んで、お祝いしよう!」
堂也は足取りも軽く行きつけの小さな居酒屋へと向かった。
「こんばんはー」
店の片隅で、黒縁メガネをかけた若い女性が微笑みながら声をかけてきた。
右手にはジョッキのビールを持っている。
「こんばんは」
待ち合わせをしていたわけではないが、せっかく会ったので、堂也はそのまま女性の向かいへ腰を下ろした。
ある日、相席になったのがきっかけだった。
気づけば店で会うたびに一緒に飲む仲になっていた。
名前も連絡先も知らない、ただ、不思議なくらい気が合った。
今日の彼女は、黒いTシャツにジーンズ姿。
その上から羽織った赤いレザージャケットがひときわ目を引いていた。
堂也は店主へ声をかける。
「マスター、生ビール一つ」
「今日は何だか嬉しそうね。何かいいことでもあったの?」
女性が興味深そうに尋ねてくる。
「あ、分かります?」
堂也は隠すつもりもなく、自分の喜びを誰かと共有したくてたまらなかった。
「口元が緩みっぱなしよ」
「昔から応援してるアイドルが、ついに武道館に立つんだ」
「アイドル?」
女性は興味を示したように聞いてきた。
「今をときめく人気アイドルの、逸見悠花ですよ。自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、実は中学の同級生なんだ」
堂也は嬉しそうに語った。
「デビューした頃からずっと応援してるよ」
「そんなに前からなんですね」
「最初は全然売れてなくてさ。本当に諦めちゃうんじゃないかって心配で、何通も手紙を書いたこともあるんだ」
「そうなんだ……やっぱりね……」
女性は何かを考えるように、小さく頷いた。
「何か言いました?」
「ううん、何でもない。続けて」
彼女は首を振り、何でもなさそうにひらひらと手を振った。
「ああ。とにかく昔から『武道館でライブをやる』って言ってたんだよ。それが本当に叶ったんだ」
堂也はビールを一口すすると、大して気にも留めずに、興奮して身振り手振りを交えながら話した。
「本当にすごいよ。さすがだ」
「彼女が夢を叶えたこと、そんなに嬉しいの?」
女性が不思議そうに問う。
「当たり前だろ。中学時代の友達が夢を叶えたんだから、嬉しくないわけがない」
堂也は声を潜め、内緒話をするように言った。
「それにさ、ここだけの話だけど……俺、昔は彼女に告白しかけたことがあるんだ」
「えっ!?」
女性がグラスを握っていた手がびっくんと震え、ジョッキの縁からビールが数滴こぼれ落ちた。
「わっ、大丈夫ですか?」
堂也はテーブルの上から何枚か紙ナプキンを引き抜き、拭くのを手伝おうとした。
「ごめん。大丈夫、自分でやるから」
彼女は堂也の手から紙ナプキンを受け取ってテーブルを拭きながら、何事もなかったかのように尋ねた。
「……それで、どうして告白しなかったの?」
「はは、勇気が足りなかったんでしょうね」
堂也は苦笑しながら鼻をかき、ビールを一気に飲み干した。
「振られたら、友達ですらいられなくなるかもしれないって思ってさ」
テーブルを拭く女性の動きがピタリと止まった。
そして、どこか不機嫌そうに小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。
「そこまで彼女のことが好きだったなら……じゃあ、もし今会ったら、すぐに気づける?」
堂也は自信たっぷりに答えた。
「もちろん。あんなに綺麗になったんだから、気づかないわけがないだろ」
「ふーん……そうなんだ」
女性は意味深に鼻を鳴らした。
「まあ、でも今の彼女と俺じゃ、完全に住む世界が違いますからね。気づけるかどうかなんて、何の意味もないですよ」
堂也は苦笑しながら、もう一杯飲み干した。
「……それはどうかしらね」
「でも、そんなことより、彼女が元気にやってくれているのが一番大事です」
堂也は手を振り、さらに次の一杯を注文した。
「……そっか」
女性はまた酒を一口飲むと、静かに呟いた。
「……やっぱり、変わってないんだね」
その会話が終わってからというもの。
嬉しさと、どこか寂しさも入り混じっていた。
気づけば堂也は、いつも以上に酒を飲んでいた。
そして堂也が次に意識を取り戻した時には、もうこの部屋で寝ていた。
いや、待て。
思い返しても、記憶の中には悠花なんて一度も出てきていない。
じゃあ、彼女はどうやってこの家へ来たんだ?
「まさか……?」
堂也の口元がぴくりと引きつる。
ある可能性が頭をよぎった。
相手はいつも黒縁メガネをかけ、うつむき加減で酒を飲んでいた。
堂也も、女の子の顔をジロジロと凝視するようなタチではない。
だから、相手の顔を深く気に留めたことがなかったのだ。
ふと、視線がベッドの脇にある赤い革のジャケットに止まった。
「嘘だろ……」
堂也は顔を覆った。
そういえば以前、彼女に向かって「悠花と声が少し似てますね」と言ったことがあった。
思い出した瞬間、恥ずかしさで穴があったら入りたくなった。
誰が想像できただろうか。
あれは「似ている」どころか、正真正銘の本人だったのだ。
狼狽する堂也を見て、国民的美少女アイドルは「計画通り」と言わんばかりの、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
彼女は枕元に置いてあった黒縁メガネを手に取ると、パチリと軽やかに装着した。
少し顔を近づけてくると、花のような甘い吐息が届く。
「……ようやく、気づいた?」
黒縁メガネをかけたその姿は、昨日まで酒を飲んでいた彼女そのものだった。
「待って、ちょっと待って」
堂也は顔を覆ったまま、片手を挙げてタイムを要求した。
「悠花、お前……いつから俺だって気づいてたんだ?」
「最初に相席になった、あの日からだよ」
「それって最初からじゃないか! なんで教えてくれなかったんだよ!」
堂也は思わず声を荒らげた。
「……だって、言ったら負けた気がするんだもん。それに、まさか堂也がここまで鈍感だなんて思わなかったし」
悠花は顔を背け、少し拗ねたように唇をとがらせた。
「……私は、一目で堂也だって分かったのに」
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