最初の読者
「それで……なんで悠花がここにいるんだ?」
堂也は一番気になっていたことを口にした。
あの黒縁メガネの若い女性が悠花だったことは分かった。
だが、どうして彼女が自分の家にいるのか、その答えにはまだ辿り着いていない。
「え? 覚えてないの?」
悠花は驚いたような表情で堂也を見つめる。
「堂也が『家にライブのブルーレイがあるから、一緒に観よう』って私を引っ張ってきたんだよ?」
「俺が……? いや、待て。うっすら覚えてる気がする……」
堂也は愕然と口を開いた。
断片的な記憶を辿ると、自分から誘ってテレビをつけたところまでは思い出せる。
そして……そのあとのことは何一つ覚えていない。
「うわぁ……俺、一体何やってるんだ……」
堂也は喉の奥からうめき声を漏らす。
そんな彼を見て、悠花はくすくすと楽しそうに笑った。
「ねぇ、部屋を見てもいい?」
「いいけど、面白いものなんて何もないよ」
堂也は頭をかきながら了承した。
悠花は両手を背中に回し、興味津々といった様子で部屋を見回し始めた。
「へぇ~、ここが堂也の部屋なんだ」
「なんか、妙に恥ずかしいな……」
部屋は決して広くはないが、きれいに整理整頓されている。
中でもひときわ目を引くのは、壁際に置かれた大きな本棚だった。
まずは、本棚の中央に目が止まる。
悠花のライブBlu-rayやグッズが大切そうに並べられていた。
悠花はそっと息を飲んだ。
「……堂也」
さらに視線を滑らせると、堂也自身の作品だけが単独で並べられている。
その隣には資料や、お気に入りの小説が並んでいる。
「わぁ、堂也の本もちゃんと置いてあるね」
悠花は興味深そうに本棚を眺め、華奢な指先を本の背表紙に滑らせていく。
やがて一冊の前で手を止め、それをそっと引き抜いた。
「あっ」
表紙を見た堂也は、思わず声を漏らした。
「『恋するアイドル~みんなには内緒だよ~』」
鈴の音のような声が、そのタイトルを読み上げる。
堂也は思わず耳を押さえ、がっくりと頭を垂れた。
「読まないで……」
「どうして? 私、この作品けっこう好きだよ」
悠花が手に取っていたのは第二巻だった。
彼女はペラペラとページをめくる。
「これ、堂也の初めての恋愛作品だよね」
悠花の言う通り、これは堂也にとって初めての恋愛作品だった。
デビューしてから今まで、堂也はいくつかの作品を書いてきた。
長編も短編もあったが、そのほとんどがホラー作品である。
ホラーしか書けない──そう思われるのが嫌だった。
だから、あえて真逆ともいえる恋愛小説に挑戦したのだった。
「私、ここが一番好きなんだ」
悠花はページの文字を指先でなぞりながら、静かに読み上げる。
「『浅野はまるで春の微風のように、
優しく寄り添い、そっと隣を包み込んでくれる。
彼女の笑顔を見ていると、自然と自分まで笑顔になってしまう』」
(終わった……。まさか悠花がモデルだって気づかれたりしないよな……?)
堂也にとって一番気まずいのは、そのヒロインのモデル本人が目の前にいることだった。
「一つ、聞いてもいい?」
「ど、どうぞ……」
「……第三巻は、いつ出るの?」
悠花は期待に満ちた眼差しで堂也を見つめる。
「それは、その……」
堂也は一瞬、返す言葉を失った。
第一巻は、アイドルを目指す少女の成長物語だった。
ヒロインはオーディションを受け、主人公も彼女を追うように芸能界へ入り、裏方スタッフとして働き始める。
そこまでは順調で、読者からの評判も良かった。
だが第二巻では、物語に波乱を生むため、主人公の恋敵となる業界の先輩を登場させた。
対比を際立たせるため、あえてヒロインとは完全に正反対の性格に設定した。
そして、見事に行き詰まった。
その先輩がなぜ主人公を好きになるのか。
物語をどう展開させればいいのか。
堂也にはさっぱり見当がつかなかったのだ。
「……が、頑張ります」
ようやく喉の奥から声を絞り出す。
(他の人ならともかく、悠花に続きは? って言われたら、死ぬ気で書くしかないだろ……)
悠花は堂也の目をじっと見つめたまま、何も言わなかった。
「……分かった、頑張ってね」
やがて微笑み、本を元の場所へ戻す。
「あなたの最初の読者、ずっと続きが出るのを待ってるからね」
「最初の読者……その呼び方、まだ覚えてたんだ」
堂也は懐かしそうに悠花を見る。
中学生の頃。
『俺の一番最初の読者になってくれ』
『うん!』
悠花はソファに腰掛け、目を細めて微笑んだ。
胸の前で両手の指を組みながら言う。
「もちろん。私は大作家・御堂逸中先生の一番のファンだから」
「頑張るよ」
読者から直接原稿を催促されるというプレッシャーに、堂也は冷や汗を浮かべながら答えた。
悠花がさらに何かを言おうとしたその時、突然スマートフォンの着信音が鳴り響いた。
彼女はポケットからスマホを取り出し、画面に目を落とした。
その瞬間、顔色がサッと変わる。
「やばい、お姉ちゃんからの電話だ」
悠花は素早く堂也に目配せをすると、すぐに通話に出た。
片手でスマートフォンを押さえながら、何度も頷いた。
「お姉ちゃん……うん、今は友達の家にいるよ」
そこで悠花は、一瞬だけ堂也へ視線を向けた。
「うん、大丈夫。すぐ帰るから」
「うん……うん。それじゃ」
通話を終えると、堂也は恐る恐る尋ねた。
「大丈夫なのか?」
悠花は申し訳なさそうに頷き、手早く荷物をまとめる。
「大丈夫。ただ、急いで帰らないと」
堂也は忘れ物がないか一緒に確認した。
「あ、そうだ。連絡先を交換してなかった」
悠花は慌ただしく堂也とIDを交換すると、バッグを抱えて外へと向かった。
玄関先で振り返った悠花は、人差し指で黒縁メガネをくいっと押し上げる。
そのまま指先を桜色の唇の前に添えた。
「今日のこと、内緒にしてね?」
「……ああ、分かってる」
「それじゃ、またね~」
悠花はいたずらっぽくウインクすると、マスクをつけて外へ出ていった。
「……またな」
堂也は動揺を隠しきれないまま頷き、静かにドアを閉める。
しばらく玄関で立ち尽くした後、自分の頬を軽くつねった。
「いてっ……夢じゃなかったのか……」
***
悠花は軽い足取りで廊下を歩いていた。
「今までは一人で読むことしかできなかったけど」
「これからはやっと、堂々と堂也と作品の感想を話し合えるんだ」
正直なところ、ずっと我慢していた。
何度も作品の感想を口にしそうになった。
それでも、堂也が自分から気づいてくれるまで待とうと決めていたから、必死にこらえてきたのだ。
「……全部、堂也が鈍感すぎるのが悪いのよ」
そう言いながらも、今にも鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌が良かった。
「あっ、ごめんなさい」
浮かれていたせいで、曲がり角で若い女性とぶつかりそうになる。
悠花は慌てて頭を下げた。
「いえ、私の方こそ不注意でした」
相手はスーツ姿の女性だった。
社会人になったばかりのような初々しい雰囲気をまとっている。
すれ違いざま、その女性もまた、一瞬だけ悠花の横顔を振り返っていた。
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