第4話 影の試練
鍛冶屋が去り、扉が固く閉ざされた。執務室は再び静寂に包まれる。ロウソクの炎が揺らぎ、溶けた蝋が燭台を伝って滴り落ちる。レイは微動だにせず、地図を見つめていた。
「若様」と、闇に溶けるように立つ執事が声をかけた。「遅くなりました。お休みになりませんか」
「いや」レイは目を上げない。「まだ一つ、片付けねばならぬことがある」
「どのようなことでございましょうか」
「明日は騷がしくなる。準備をしておけ」
執事はその意味を悟れず、しかし追及はしなかった。
冷え込んだ朝。レイは誰よりも早く大広間に降りた。松明はまだ灯されておらず、部屋は灰色の闇に沈んでいる。彼は長いテーブルの上座に座り、肘掛けに手を置いた。執事が蝋燭に火を灯すが、光は隅々の闇を払うには頼りなかった。
粛清を生き残った者たち、隊長たち、荘園管理人、書記官たち――全員が集まった。静寂は分厚く、誰一人として囁きもせず、視線を交わそうともしない。ただ松明の燃える音と、天井から漏れる水の滴る音だけが聞こえる。
レイが顔を上げた。
「報告を聞く」
東方隊の隊長が国境警備の状況を報告した。荘園管理人が木材の調達について述べた。書記官たちが税収の記録を読み上げた。
順調に進んでいた。だが、その時、南部隊の若い兵士が立ち上がった。
赤毛にそばかす、年は十八ほど。よれよれの鎧は案山子のようにぶかぶかだ。彼のスキルは 『震脚』――地面を蹴って衝撃波を放ち、三人の敵を同時に気絶させる力を持つ。誰も彼が口を開くとは思っていなかった。
「若様、お尋ねしてもよろしいでしょうか!」
どよめきが走った。全員が彼の方を向いた。レイが顔を上げる。
「言え」
「なぜ皆があんなにもあなたを恐れるのです? 体は弱々しい。戦闘スキルもない。ただ数字を眺めるだけの、そんな能力のどこに皆が震え上がる理由があるのです」
ざわめきが広がる。誰かが息を呑み、誰かが身を固くし、赤毛の男から距離を取る者もいた。
レイはゆっくりと立ち上がった。集まった面々を一瞥する。冷たく、静かに、微笑みの欠片もなく。
「お前の言う通りだ。私は体が弱い。筋肉もなければ、炎の魔術も使えぬ。私の力はただの目だ」
彼は一歩前に出た。
「しかし、お前が忘れていることがある。恐怖は力から生まれるのではない――確信から生まれるのだ。そして私は、鎧も剣もなくとも、お前たちの誰にも勝てると確信している」
赤毛の男は嘲笑したが、その瞳の奥には既に恐怖が宿っていた。
「証明していただけますか?」
レイは冷ややかに口元を歪めた。口角だけをわずかに上げて。大広間は墓場のような静けさに包まれた。
「よかろう。決闘だ。剣を使う。鎧はなし。今、ここで」
二人の木剣がすぐに運ばれてきた。訓練用の刃毀れした鈍器だ。レイは外套を脱ぎ、一枚のシャツだけになった。赤毛の兵士も鎧を脱ぎ捨て、構えを取る。彼の頭上には六十年という長い余命を示すタイマーが浮かんでいた。
「始め」と執事が告げた。
赤毛の男が猛然と斬りかかる。上段から振り下ろされる一撃。レイは一歩退いてかわす。刃が空を切る。さらに二撃目――レイは横に躱し、まだ剣すら構えていなかった。
「逃げてばかりか!」兵士が苛立った声を上げる。
「そうでもない」
レイは一歩踏み込み、敵の剣を空中で受け止め、絡め取るように奪い取り、相手の喉元に自らの刃を突きつけた。
わずか三秒だった。
赤毛の男は凍りついた。目を見開き、タイマーが一瞬、数日分縮んだ。
レイは剣を下ろさない。
「私は体が弱い」と、男の目をまっすぐに見据えて言う。「しかし、お前の弱点を見極めている。お前が自ら決断するよりも先に、お前がどこを突いてくるか、いつ疲れるか、いつ怯えるか、いつ崩れ落ちるかを知っている」
ようやく剣を引く。
「次に私の支配力を疑った時、この日のことを思い出せ」
赤毛の兵士はその場に崩れ落ちた。
「お許しください、若様……」
「立て。隊の沽券に関わる」
兵士は血の気の引いた顔で立ち上がり、広間を飛び出した。タイマーは元の数字に戻っていた。恐怖が過ぎ去ったのだ。
レイは残る者たちに向き直る。
「他に質問がある者は?」
静寂。
午後、レイは執務室に戻った。執事が書類と未納者のリストを運び込む。レイはそれらに目を通しながらも、別のことを考えていた。
「若様」と執事がささやいた。「危険な賭けでした。もしあの男が――」
「賭けてなどいない。あの男が剣の腕前で生き延びられるはずがないと分かっていたのだ」
執事は驚いた。
「なぜです?」
「タイマーが六十と示していた。もし戦いに長けた男なら、もっと短く表示されるはずだ」
執事は首を振った。執事自身のスキルは 『影縫い』――相手の影をその場に縫い止め、数秒間行動を封じる力を持つ。レイはそれを知っており、密命を託すのに使っていた。
「若様は、本当にすべてを見通していらっしゃるのですな」
「すべてではない。しかし、十分だ」
夕暮れ、執務室の扉をノックする音があった。南部隊から伝令が駆け込む。息を切らせ、冷気で顔を赤く染めた男――そのスキルは 『風脚』。短距離で時速七十キロに達し、足跡を残さず疾走する能力を持つ。レイは彼を待っていた。
「若様、南部国境から緊急の報せです。あの山賊どもが再び姿を現しました。村を襲い、家を焼き、家畜を奪っております」
「数は」
「三十ほど。かつて我々の部隊から逃亡した元兵士が率いています」
レイは考え込んだ。三十の賊は侮れぬ力だ。南部の守備隊はたかが二十、それも経験不足の者ばかりである。
「隊長に伝えよ。明朝まで持ちこたえよと。増援を差し向ける」
伝令は頷き、飛び出して行った。そのタイマーは一瞬怯んだが、減ってはいなかった――恐怖はあったが、恐慌には至っていない。
レイは執事に向き直る。
「東方隊の隊長を呼べ。明日の夜明けに出発する。準備をさせろ」
「かしこまりました」
執事は深々と頭を下げ、退出した。
夜。レイは窓辺に立ち、月を眺めていた。低く垂れ込めた月明かりの下、木々の影が黒い指のように城へと伸びている。どこかで犬が遠吠えをし、どこかで赤子が泣く。
彼は理解している。己の支配力はまだ盤石ではない。人々は彼を恐れてはいるが、敬意を払ってはいない。恐怖は脆い土台だが、それでも土台がある限り壁は崩れずに立っている。
明日、彼は野戦に赴く。机上の作戦を練る戦略家としてではなく、戦場に立つ将として。それは彼の部下にとってのみならず、彼自身にとっても、新たな試練となるだろう。
窓を閉め、ロウソクの灯を吹き消し、彼は床についた。




