第5話は浅井家です。
戦国時代に北近江の戦国大名であった浅井家は織田信長によって滅ぼされてしまいます。小谷城の戦いで浅井長政・久政父子は自刃し、嫡男の万福丸も処刑されます。戦国大名としては滅亡します。そして筆者も今回初めて知ったのですが浅井長政の側室が生んだ子(庶子)がおられたという話が残っています。今回は、その中で丸亀藩の客分として残り、その子孫が丸亀藩士として続いた浅井井頼さんの話です。
戦国時代に浅井氏は北近江の国人(国衆)でした。出自については諸説あるそうなので、割愛します。まずは、浅井亮政・久政・長政さんの三代の話になります。
浅井亮政は、浅井氏の庶流である浅井直種の子として誕生します。そして浅井家惣領の浅井直政の娘と結婚し、惣領家の跡継ぎとなります。浅井亮政が家督を継承した時は浅井氏は北近江半国の守護である京極氏の被官でした。被官というのは、家臣に近いのですが、元々小領主であった国衆が守護の軍事指揮下に入るかわりに所領を安堵してもらい、周囲の敵に攻撃されれば、守護が後詰といって救援に来るという相互扶助の関係でした。戦国期に段々上下関係となり、家臣化されていく事例があります。
京極氏の家督争いが起きると、浅井亮政はこれをとりまとめ、国衆たちの盟主となります。勢力を拡大しつつある亮政に対し、南近江守護である六角定頼が大永5年(1525年)近江北部へ侵攻します。小谷城は攻められるのですが、堅固で攻めあぐね、さらに六角氏本国で乱が発生し、一時的に和睦します。しかしその後、享禄4年(1531年)箕浦合戦で浅井亮政は六角定頼に敗れます。また、天文7年(1538年)佐和山合戦でも浅井亮政は敗れ、六角氏に従属します。そして、天文11年(1542年)亮政は亡くなります。浅井久政が跡を継ぎます。久政も六角氏に従属する方針を継続します。
しかし、永禄3年(1560年)浅井賢政(後の長政)と六角承禎で行われた野良田の戦いで浅井軍が勝利します。浅井氏は北近江での政治的立場を確立します。翌年の永禄4年(1561年)浅井賢政は長政と改名し、備前守を名乗ります。その後、織田信長から同盟の提案があり、信長の妹の市が長政に輿入れします。
元亀元年(1570年)に織田信長率いる幕府軍は、若狭及び越前攻めを行います。浅井家は朝倉家ともかねてから繋がりがあったため、浅井長政は信長を裏切り、出陣します。(金ヶ崎の戦い)。そして同年に浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍で姉川の戦いが起こります。織田・徳川軍の勝利となります。
そして、天正元年(1573年)一乗谷城の戦いで朝倉義景は自刃し、朝倉氏が滅亡します。また、小谷城の戦いで浅井長政・久政父子も自刃し、嫡男の万福丸も処刑されて浅井氏は滅亡します。
で、ここから今回の主題である浅井井頼さんの話となります。この方は、伝わっている名前が井頼、喜八郎、長春、周防と複数あります。浅井三代記には織田信長の追及を逃れた次男の存在が書かれていたり、浅井氏家譜大成には喜八郎の名前が記載されているそうです。また、出家してからは作庵という名前だったようです。
信長さんが生きておられる時は匿われていたのですが、秀吉さんの時代になると秀吉の養子となった信長の四男の秀勝に仕えていたようです。さらに、秀勝が亡くなると、豊臣秀長・秀保さんに仕えます。秀保さんが亡くなると、大和郡山城主となった増田長盛に仕えます。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで増田長盛は西軍でしたので、改易となります。浅井井頼は生駒一正を頼って、讃岐丸亀城に身を寄せます。しかし、その後生駒家を出て山内家に仕官します。その一方で生駒正俊から奉公構が出されたため、慶長19年(1614年)に山内家を辞すことになります。
そして。同年姉である淀殿を頼って、大坂城に入ります。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では毛利勝永隊に配されます。しかし、大坂城は落城しますので、再び浪人となります。
大坂城を落ち延びた後は、もう一人の姉である常光院(京極高次夫人)のいる若狭国小浜藩の京極家を頼ります。京極家の藩主は忠高の時代になっていましたが、客分待遇で庇護されます。そして、出家して作庵と名乗ります。常光院は藩主への遺書の中にも弟のことを頼むといったことを書かれたそうです。
その後、京極家の国替えに伴って、出雲・龍野・丸亀と移っていったそうで、子孫は丸亀藩士として続いたようです。
浅井家に生き残った方がおられたという話は筆者も驚きでした。研究されておられる方々に敬意を表します。また、浅井井頼さんはお世話になる家を転々とされて苦労されたのではないかと思いました。これで第5話は終わりです。ではまた第6話でお会いしましょう。




