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旗本・大名の家臣で残った戦国大名家(歴史雑談)  作者: 伊丹 美鈴


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第6話は朝倉家です

 第6話は朝倉家です。戦国時代に越前国を支配していたのですが、天正元年(1573年)織田信長軍に攻められ一乗谷城は落城します。従兄弟である越前大野郡の朝倉景鏡を頼りますが、既に織田方に寝返っていた景鏡の手勢に囲まれ賢松寺で自刃します。その後、妻子も処刑され、朝倉家は戦国大名として滅亡します。それで、嫡流ではないのですが朝倉一族の中で生き残ってた方の話です。

 朝倉氏の始まりは、平安時代末期に日下部宗高が但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉)に住し、朝倉氏を称したことによると言われています。但馬朝倉氏から分かれて、越前に移った系統が越前朝倉氏となります。

 越前朝倉家初代の朝倉広景は建長6年(1254年)但馬国朝倉谷に生まれます。鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏の下に馳せ参じます。元々斯波高経(足利高経)の母方の祖父である長井時秀の被官であった縁で斯波高経に従い、越前入りします。この時斯波高経に従軍して新田義貞討伐で戦功をたてます。これ以降斯波氏の被官となります。

 2代目高景の時は幕府軍の一員として出陣し、斯波高経に反旗を翻しています。その功から2代将軍足利義詮より越前で7か所の地頭職を賜ります。越前守護には畠山氏が就きます。3代目氏景の時に斯波氏が越前守護に復帰すると、斯波氏の被官に復帰します。

 話を戦国時代の前ぐらいに飛ばします。戦国大名としての朝倉家の礎を築いたのが7代目の孝景(敏景)です。※何度か名前が変わるのですが、便宜上7代目の孝景として話を進めます。孝景は長禄2年(1458年)に起きた守護の斯波義敏と守護代甲斐常治の戦いで守護代側に与し、活躍します。また、同年の足羽郡和田荘での合戦で守護側の堀江利真(義兄)や朝倉将景(叔父、舅)らを敗死させ、守護代側を勝利に導きます。また、和田合戦の翌日に和田常治が亡くなったため、孝景の影響力が強くなります。応仁元年(1467年)に応仁の乱が起きると、斯波家は東西に分かれて戦います。孝景は当初は西軍につきます。しかし、文明3年(1471年)足利第8代将軍義政及び細川勝元から守護権限行使の密約をもらって、東軍へ寝返ります。将軍の後ろ盾により、越前の実効支配による領国化を進めていきます。幾多の戦いで勝利を重ねて越前一国をほぼ手中に収めます。しかし、文明13年(1481年)に亡くなります。8代目氏景が跡を継ぎ、越前の統一を果たします。

 その後、朝倉家は11代目の義景まで続きます。義景の時に、織田家との戦いとなり、元亀4年(1573年)一乗谷城の戦いで敗れた朝倉義景は、大野郡に移り、従兄弟の朝倉景鏡の裏切りにあい、自刃します。嫡男「愛王丸」も処刑され、朝倉家嫡流は絶え、戦国大名としての朝倉家は滅亡します。

 その後の朝倉家一族ですが、朝倉景鏡は織田家に降伏し、名前を土橋信鏡と改めます。しかし、一揆との戦いで討死します。朝倉景健は、義景が自刃すると、織田家に降伏し、名前を安居景健と改めます。一向一揆との戦いで、一揆方に敗れ降伏します。織田軍の越前再侵攻で一揆方が劣勢になると、再度織田家に降伏しようと一揆方の下間頼照、下間頼俊を討ち取って首を持参したのですが、認められず自害させられます。

朝倉家で生き残った方というのは、駿河国に移った方がおられます。朝倉景高(義景の叔父)が、10代目の孝景(義景の父)との争いに敗れて越前国から離れた時に景高の子朝倉在重は駿河国に逃げ、今川氏に仕えます。今川氏が戦国大名として滅亡すると、今度は徳川家に仕えます。

 徳川家が関東へ移封となった際には、在重は駿河に残りますが、子の宣正が徳川秀忠付の家臣となり、徳川家に仕えます。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの信州上田城攻めにその名前があります。

 元和5年(1619年)には二代将軍秀忠の次男の忠長が大名となり、その附家老に任じられます。さらに元和10年(1624年)には掛川城主(2万6千石)となります。しかし、忠長が寛永9年(1632年)に改易されると、朝倉宣正は連座により改易となります。

 朝倉宣正の弟の在重(石見守、※父と同名)は旗本として残ります。また、宣正の孫の重正は朝倉家の改易後は母の父である酒井忠勝(老中・大老になった方)のもとで育てられます。そして、麻田藩の青木重兼に男子がいないため、娘婿として青木家に養子に入ります。

筆者も今回知ったのですが、 朝倉家というと越前のイメージが強かったのですが、但馬国出身だったんですね。それと、朝倉家の生き残った方も越前では悲惨な最期であったり、江戸時代まで生き残った方も三代将軍家光と弟の忠長の確執に巻き込まれてしまったんですね。「主君を諫言できなかった罪」のためと言われてもつらいですね。これで、第6話は終わりです。また、第7話でお会いしましょう。

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