第9話
三日目の、朝が、来た。
彼の頭の上には、今日の日付が、浮かんでいた。
今日。今日、終わる。
わたしは、決めていた。
もう、隠さない。
彼が、目を覚ますと、わたしは、彼の手を、握って、言った。
「話したいことが、あるの」と。「とても、信じられない話だけど。でも、本当のことなの。聞いて、ほしい」
わたしは、全部、話した。
牛乳のパックに、二つの日付が、あること。物の、終わる日が、見えること。子どもの頃、それが、特別なことだと、知らなかったこと。十二歳の夏、祖母の上に、初めて、人の日付を、見たこと。その日付の、朝、祖母が、死んでいたこと。それから、ずっと、人を、深く、好きにならないように、して生きてきたこと。
美月の、こと。
近い日付を見て、こわくなって、逃げて、自分で、関係を、終わらせて、しまったこと。それを、ずっと、後悔して、きたこと。
そして、三日前の、朝。
彼の頭の上に、「あと、三日」という、日付を、見てしまったこと。
この三日間、何もできずに、ただ、彼を、閉じ込めて、おかしな行動を、取り続けて、いたこと。
今日が、その日で、あること。
彼の上に、今日の日付が、浮かんで、いること。
話しているあいだ、彼は、ずっと、わたしの手を、握り返していた。途中で、笑いも、しなかったし。馬鹿にも、しなかった。ただ、静かに、わたしの目を、見て、聞いていた。わたしが、話し終えると、しばらく、沈黙が、あった。川の音みたいに、長い、沈黙だった。
「信じられないよね」と、わたしは、言った。涙が、止まらなかった。「でも、本当なの。わたし、あなたが――今日、何か、わたしの知らないことで、終わっちゃうのが、こわくて。ずっと、隠してて。ごめん。逃げたく、なかったの。今度こそ、逃げたく、なくて」
彼は、わたしの頬を、そっと、拭った。
「信じるよ」と、彼は、言った。
わたしは、彼の顔を、見た。
「信じるの?」
「君が、こんな嘘を、つく人じゃないことは、半年で、わかった」と、彼は、言って、少しだけ、笑った。あの、えくぼが、右の頬に、できた。「それに――この三日間の君は、確かに、ちょっと、どうかしてた」
わたしも、つられて、泣きながら、笑った。
「うん。どうかしてた」
「でもさ」と、彼は、言った。「教えてくれて、ありがとう。十二歳から、ずっと、一人で、それを、抱えてたんだろ。こわかったよな。ずっと、こわかったよな。誰にも、言えなくて」
わたしは、こくこくと、頷いた。
言葉が、出なかった。
誰かに、それを、言ってもらえる日が、来るなんて。思っても、みなかった。十二歳の夏から、ずっと、一人だった。物の終わりも、人の終わりも、全部、一人で、見て、一人で、こわがって、一人で、逃げてきた。その重さを、初めて、誰かが、「こわかったよな」と、言ってくれた。それだけで、わたしは、十六年分の、何かが、溶けていくのを、感じた。
その日、わたしたちは、一日中、部屋に、いた。
でも、それは、彼を、閉じ込めるためじゃ、なかった。
ただ、いっしょに、いたかったから、いた。わたしは、もう、彼を、火から遠ざけたり、刃物から遠ざけたり、しなかった。彼が、淹れてくれた、コーヒーを、飲んだ。いっしょに、料理を、作った。彼が、高いところの、本を取るのを、止めなかった。終わりが、今日、来るなら。せめて、その日を、いつもの、一日として、過ごしたかった。逃げるのでも、閉じ込めるのでも、なく。ただ、ふつうに、隣に、いたかった。
わたしは、彼に、たくさんの話を、した。
今まで、誰にも、言えなかった話を。子どもの頃の、孤独。日付の見える世界が、どんなふうに、見えているか。レジに並ぶ人たちの、ばらばらの未来。書庫の本の、遠い終わり。彼は、ひとつひとつ、相槌を打ちながら、聞いていた。ときどき、質問を、した。じゃあ、俺の、このマグカップは? と。わたしは、見て、答えた。三年後の、冬。彼は、笑った。「じゃあ、それまでに、もっと、いいの、買わなきゃな」と。
日が、暮れて、いった。
彼の頭の上には、まだ、今日の日付が、あった。
わたしは、覚悟していた。何が、起きてもいいように。彼の、「今のかたち」が、今日、終わるのだと。それが、何であれ、わたしは、もう、逃げないと。
夜に、なった。
彼が、ぽつりと、言った。
「あのさ」
わたしは、彼の顔を、見た。
「半年、付き合ってきて」と、彼は、めずらしく、言葉を、選びながら、言った。「俺、ずっと、君に、言いたかったことが、あるんだ。でも、なんていうか――重いかな、とか。まだ、早いかな、とか。いろいろ、考えて。言えずに、いて」
彼は、深呼吸を、した。
「この三日間で、わかった。俺、君の、いちばん、こわいところを、見せてもらった気がする。十二歳から、ずっと、隠してきた、いちばん、こわいものを。それを、話してくれたってことは――そういうことだと、思うから」
彼は、わたしの手を、両手で、包んだ。
その手は、温かかった。少し、汗ばんでいて、震えていた。彼も、緊張しているのだ、と、わかった。
「結婚しよう」と、彼は、言った。
わたしは、言葉を、失った。
「これから先、ずっと、君の隣に、いたい。君が、誰の上に、どんな日付を見ても、一人で、抱えなくていいように。俺は、信じるよ。君の見るものを、全部。だから――いっしょに、生きてくれないかな」
その瞬間だった。
彼の頭の上の、今日の日付が、ふっと、消えた。
消えて――そして、新しい日付が、そこに、浮かんだ。
ずっと、ずっと、先の、日付だった。
わたしが、白髪の、おばあさんに、なっているだろう、何十年も、先の。




