第8話
一日目。
彼が、目を覚ますと、わたしは、泣いた顔を、見られないように、すでに、身支度を、整えていた。
「今日は、どこにも、行かないでおこうよ」と、わたしは、言った。「一日中、部屋で、だらだらしよう」と。彼は、不思議そうに、でも、嬉しそうに、笑って、「いいね」と、言った。わたしは、彼を、外に、出さなかった。事故。わたしの頭にあったのは、まず、事故のことだった。車。階段。駅の、ホーム。外には、終わりのきっかけが、無数に、転がっている。だから、部屋に、閉じ込めておけば。三日。せめて、三日、部屋から、出さなければ。
わたしは、彼に、料理を、作った。
火傷を、しないように。包丁で、指を切らないように。彼を、台所に、立たせなかった。彼の代わりに、すべて、やった。窓を、閉め、鍵を、かけ、彼が、高いところの物を、取ろうとすれば、危ないからと、わたしが、取った。彼が、お風呂に入るときも、わたしは、気が気で、なかった。湯船で、溺れたりしないか。転んで、頭を打ったりしないか。わたしは、脱衣所の前で、彼の物音に、ずっと、耳を、澄ませていた。
彼は、わたしの、過保護を、最初は、冗談だと思って、笑っていた。
「今日の君、お母さんみたいだな」と。わたしは、笑い返せなかった。ただ、彼の頭の上の、「あと、二日」に、なった日付を、見て、唇を、噛んでいた。
二日目に、なると、彼は、少し、変な顔を、するように、なった。
「ねえ、どうしたの、本当に」
昼過ぎ、彼は、そう、尋ねた。わたしが、彼が、ベランダに出ようとするのを、とっさに、腕を掴んで、止めたときだった。ベランダの、手すりの上にも、何か、不吉なものが、見えた気がして――いや、それは、わたしの、見間違いだったかもしれない。でも、わたしには、もう、何もかもが、終わりのきっかけに、見えていた。手すりも、コンセントも、彼が握る、箸も、彼の飲む、コーヒーカップも。世界中の物の日付が、いっせいに、彼の終わりを、指差しているような、気がした。
「どうもしない」と、わたしは、言った。声が、震えていた。
「してるよ」と、彼は、言った。怒っては、いなかった。心配していた。彼は、いつも、わたしのことを、心配する人だった。「昨日から、ずっと、変だ。何か、あったなら、言ってよ。一人で、抱え込まないで」
わたしは、言えなかった。
あなたは、あと、二日で、終わる。
そんなこと、どうして、言える。
「ごめん」と、わたしは、言った。「ちょっと、体調が、悪くて。でも、心配しないで。あなたと、いたいの。ただ、いっしょに、いたいだけ」
それは、嘘じゃ、なかった。
わたしは、彼と、いたかった。残された、時間を、一秒でも、長く、彼と、いっしょに、いたかった。閉じ込めているのは、彼を、守るためでも、あったけれど。本当は、ただ、離れたく、なかったのだ。
二日目の、夜、彼は、眠れずに、いた。
わたしも、眠れなかった。
彼の隣で、目を閉じて、寝たふりを、しながら、わたしは、ずっと、彼の頭の上の、日付を、見ていた。あと、一日。日付は、夜が更けても、頑なに、変わらなかった。わたしが、彼を、部屋に閉じ込めても。火から、遠ざけても。刃物から、遠ざけても。日付は、びくとも、しなかった。
そのとき、わたしは、初めて、おかしい、と気づいた。
わたしは、この三日間、彼の終わりのかたちを、勝手に、決めつけていた。事故。怪我。突然の、何か。祖母のときの、「眠ったまま、冷たくなる」みたいな、わかりやすい、終わり。でも、もし、そうなら――もし、それが、外から、やってくる、事故や、病気なら。わたしが、彼を、部屋に閉じ込めたことで、日付は、少しくらい、揺らいでも、いいはずだ。
物の日付は、揺らぐことが、ある。
半額の牛乳が、冷蔵庫の温度を下げると、日付を、一日、延ばすことがある、みたいに。靴を、大事に履けば、底の剥がれる日が、先に延びることが、ある、みたいに。終わりは、扱い方で、少しは、動く。わたしは、この三日間、彼を、これ以上ないくらい、大事に、守ってきた。なのに、日付は、一ミリも、動かなかった。
ということは。
わたしは、暗い天井を、見つめながら、ある可能性に、行き着いた。
この「終わり」は、外から、来るものじゃ、ない。
事故でも、病気でも、ない。わたしが、どう守ろうと、関係なく、もう、決まっている、内側からの、終わり。
そう考えたとき、わたしは、もうひとつのことを、思い出した。
ずっと、忘れたふりを、していたことを。
美月の、ことを。
美月の頭の上に、わたしは、一週間先の、日付を見た。
そして、こわくなって、逃げた。
美月は、死ななかった。
わたしは、ずっと、それを、「日付が、外れた」例として、記憶していた。けれど――暗い天井の下で、わたしは、ようやく、それを、正面から、見つめた。
外れてなんか、いなかった。
あの日付の、朝。たしかに、何かが、終わったのだ。
わたしと、美月の、友達でいられた、時間が。
日付は、間違っていなかった。わたしが、終わりの意味を、勝手に、「死」だと、思い込んでいた、だけだ。終わったのは、美月の、命じゃない。わたしたちの、関係だった。そして――皮肉なことに。それを、終わらせたのは、ほかでもない、終わりを恐れて、逃げた、わたし自身だった。
わたしは、布団の中で、目を、見開いた。
日付は、その人が、死ぬ日じゃ、ない。
その人の、「今のかたち」が、終わる日だ。
牛乳が、腐るのは、牛乳という物の、終わりだ。でも、その牛乳が、ヨーグルトに、なるなら。それは、終わりであり、始まりでも、ある。靴の底が、剥がれる日は、その靴が、靴であることの、終わりだけれど。修理に出せば、別のかたちで、続いていく。終わりは、いつだって、何かの、変わり目だ。
祖母の終わりが、たまたま、「死」というかたちを、していたから。
わたしの見てきた、人の終わりの、いちばん最初の、いちばん大きな、それが、死だったから。わたしは、ずっと、終わりとは、死のことだと、思い込んで、いただけだった。いちばん劇的な終わりだけを、わたしは、確かめてきた。祖母の、死。傘が折れる、音。電球が、切れる、瞬間。割れる、剥がれる、壊れる。わかりやすい終わりばかりを、数えて。それ以外の、静かな終わり――何かが、何かに、変わっていく、その境目を、わたしは、ずっと、見落として、きた。
美月のときみたいに。
たぶん、ほかの、たくさんの人のときも。
わたしは、布団の中で、彼の寝顔を、そっと、盗み見た。
あと、一日。
この日付の、朝、彼が、死ぬとは、もう、思わなかった。
でも、何かが、終わる。彼の、「今のかたち」が。
それが、何なのか、わたしには、まだ、わからなかった。
わからない、けれど――もう、逃げたく、なかった。
美月のときみたいに、終わりを恐れて、自分の手で、台無しにするのは。もう、たくさんだった。




