最終話
わたしは、声を上げて、泣いた。
彼は、何が起きたのか、わからずに、おろおろしながら、わたしを、抱きしめた。「どうした、何か、まずいこと言った」と、慌てる、彼の背中に、腕を回しながら、わたしは、ようやく、全部、わかった。
彼の、「今のかたち」が、終わったのだ。
今日、終わった。
「わたしの、恋人」という。付き合って、半年の、まだ、何も、約束していない、いつ終わっても、おかしくない、あの、頼りない、かたちが。
そして、新しいかたちが、始まった。
日付は、間違っていなかった。一度も。あと三日、というのは、彼が、死ぬまでの、三日でも、別れるまでの、三日でも、なかった。彼が、わたしに、プロポーズするまでの、三日だったのだ。彼の、「恋人」という季節が、終わって。別の季節が、始まるまでの。
終わりは、終わりじゃ、なかった。
ただの、変わり目だった。
わたしは、十二歳の夏から、ずっと、それを、死だと、思い込んできた。いちばん最初に見た終わりが、祖母の死だったから。劇的な終わりだけを、数えて。それ以外の、無数の、優しい終わりを、見落として、きた。美月のときも。たぶん、ほかの、たくさんの人のときも。わたしは、人の上の日付を、ぜんぶ、「死」のラベルで、見て、こわがって、逃げて、深く好きにならないように、して、生きてきた。
でも、終わりは、ほとんどの場合、誰かが、消えることじゃ、ない。
何かが、別の何かに、変わっていく、ことだ。
わたしは、彼に、プロポーズの返事を、した。
涙で、ぐしゃぐしゃの顔で、何度も、頷いて。「うん、うん」と。彼は、まだ、少し、戸惑いながら、でも、ほっとしたように、笑って、わたしを、強く、抱きしめた。
その夜、彼が、眠ったあと、わたしは、また、彼の寝顔を、眺めた。
あの、春の朝と、同じように。
でも、今度は、油断したわけじゃ、なかった。
わたしは、自分の意思で、彼の頭の上を、見た。ずっと、ずっと、先の、優しい日付が、そこに、あった。いつか、その日は、来る。彼の、本当の、終わりの日が。それは、たぶん、祖母のときみたいな、わかりやすい終わりだろう。わたしは、それを見ても、もう、こわく――いや。
こわくない、と言えば、嘘になる。
こわい。何十年も先でも、それが、来ることを、思うと、胸が、締めつけられる。彼が、いつか、いなくなる。その日が、確かに、あって。わたしは、それを、もう、見て、しまった。知って、しまった。
でも、わたしは、決めた。
その日付に、おびえて、生きるのは、やめる。
その日が、来るまでの、何千、何万という、日々を、終わりを数えて、過ごすのは、やめる。
終わりは、いつだって、来る。すべての物に。すべての人に。それは、変えられない。わたしは、それを、ずっと、呪いだと、思ってきた。でも、ちがう。終わりが、あるからこそ。その手前の日々が、光って、見えるんだ。半額の牛乳の上に、灯る日付が、なぜか、優しく見える、みたいに。終わりが見える、わたしは、たぶん、誰よりも、いまを、見ている。
わたしたちは、その秋に、結婚した。
小さな式だった。彼の友達と、わたしの、数少ない友人と。両親も、来てくれた。母は、わたしの花嫁姿を見て、泣いていた。
式のあと、母が、そっと、わたしに、近づいてきた。そして、「あんた、昔から、人の顔を、まっすぐ見ない子だったね」と、言った。わたしは、どきりとした。母は、知らない。わたしが、何を見て、何を避けてきたのか。物の終わる日のことも、人の頭の上の日付のことも、わたしは、母にさえ、話したことが、なかった。けれど、母は、続けて、こう言った。「でも、今日のあんたは、ちゃんと、あの人の顔を、見てた。よかった」と。わたしは、何も言えずに、ただ、頷いた。母の頭の上にも、もちろん、日付は、あった。けれど、わたしは、その日は、見なかった。母の、皺の寄った、笑った顔だけを、見ていた。いつか、その日が来ても、後悔しないように。今、この顔を、覚えておこうと思った。
式のあいだ、わたしは、つい、癖で、参列者の頭の上の、日付を、数えそうになった。けれど、やめた。今日は、見ない。今日は、誰の終わりも、数えない。わたしは、彼の顔だけを、見ていた。誓いの言葉を言う、彼の、少し上ずった声と、右の頬の、えくぼだけを。
それから、何年かが、経った。
わたしは、相変わらず、図書館で、働いている。彼は、相変わらず、わたしより、歩くのが速い。喧嘩もするし、つまらないことで、笑い合う。ふつうの、暮らし。けれど、わたしにとっては、ずっと、欲しくて、手に入らないと思っていた、ふつうだった。
ある日のことだ。
仕事帰りの、混んだ電車で、わたしは、座っていた。前に、一人の、若い女の子が、立っていた。高校生くらいだろうか。制服を着て、うつむいて、スマートフォンを、見ていた。なんとなく、思いつめたような、顔をしていた。そして、その子の、頭の上に。
近い、日付が、浮かんでいた。
あと、数日の。
昔のわたしなら、目を、逸らしていた。こわくて。どうしようもなくて。その子の顔を、なるべく早く、忘れようとして。見なかったことに、して。あの、美月のときみたいに。
でも、わたしは、もう、逸らさなかった。
その日付が、その子の、どんな「変わり目」なのか、わたしには、わからない。死かもしれない。でも、たぶん、ちがう。引っ越しかもしれない。卒業かもしれない。失恋かもしれない。あるいは、いま、思いつめているらしい、何か、つらいことの、終わりかもしれない。わからない。わからないけれど――それが、何であれ。その子は、その日を、越えて、いく。終わりの、その先へ。
次の駅で、わたしは、立ち上がった。
降りる駅では、なかった。けれど、わたしは、その子に、席を、譲った。「どうぞ」と、声をかけて。その子は、驚いたように、顔を上げて、わたしを、見た。それから、小さく、「ありがとうございます」と、言って、座った。少しだけ、その、思いつめた顔が、ゆるんだ、気がした。
それだけのことだ。
席を、譲った。ただ、それだけ。その子の、終わりの日付は、それで、変わりはしない。わたしには、相変わらず、人の終わりを、変えることなんて、できない。
でも、わたしは、もう、逃げなかった。
近い日付の、その子の隣に、ひとつ手前の駅まで、立って、いた。終わりが見えても、目を逸らさずに。こわがって、いなくなったりせずに。ただ、隣に、いた。たぶん、それが、十二歳の夏から、ずっと、わたしに、できなかったことだった。そして、いま、ようやく、できるように、なったことだった。
今でも、牛乳のパックには、二つの日付がある。
今でも、すれ違う人の頭の上に、てんでばらばらの、日付が、光っている。来年の人。十年後の人。ずっと先の人。そして、ときどき、ぞっとするくらい、近い、人。
でも、わたしはもう、近い日付の人から、目を逸らさない。
その日付が、その人の、どんな「変わり目」なのかは、わたしには、わからない。死かもしれない。別れかもしれない。あるいは――誰かの、プロポーズの、三日前かもしれない。引っ越しの、前日かもしれない。新しい命が、生まれる、その日かもしれない。終わりのかたちは、見えない。見えるのは、ただ、何かが、変わるという、その一点だけ。
いつか、わたしは、彼の頭の上の、あの遠い日付の、本当の意味を、知ることになる。
それが、彼の死なのか。それとも、また、別の、変わり目なのか。
今は、わからない。
わからないままで、いい。
隣で、彼が、寝息を、立てている。
その頭の上の、ずっと先の日付を、わたしは、もう、数えない。
ただ、今日が、まだ、終わっていないことを。
よろこんでいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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