第十一話 僕達は、海も川も知らない
大きくてクリーンな水槽という名の世界。
温度もスピードも制御された水流という名の社会。
安全で快適な、バリアフリーの街。
栄養も食感も計算され、洗練された食事。
予防接種に健康診断。
全てが完璧なシステム。
なのに、どうして僕の心は、こんなにも落ち着かないんだろう。
何が、僕をこんなにも不安にさせるんだろう。
けがをしたり、病気になった者は、いつの間にかいなくなる。
水槽の底の暗い穴。そこに入った者は、もう二度と戻って来ない。
彼が、穴の話を始めたのは、いつだっただろう。
『あの穴の向こうには、何があると思う?』
『さあ、何だろうね』
『もうひとつの世界があると思うんだ』
『どんな?』
『分からないけど。ここじゃない世界』
『……』
『……』
『もうひとつの世界なんて、ないかもしれないよ』
『あるかもしれない』
『もうひとつの世界は、ここと同じかもしれないよ』
『違うかもしれない』
『もうひとつの世界が、ここより酷かったら?』
『その時はその時さ』
『ここから出るには、あそこしかない』
『出られるとは限らないんじゃないかな』
『入って行った者がひとりも戻って来ないなら、やっぱり出口だと思う』
『ここに戻って来られなくなるなら、そっちの方が怖くない?』
『戻って来られなくても、ここから出てみたい気持ちの方が強いんだ』
『ここが嫌なの?』
『嫌じゃないけど。この壁の向こうに何があるのか知りたい』
『この壁は僕達を守ってくれているんだよ』
『本当は違うかもしれない』
『壁の向こうに行って何をするの?』
『分からない』
『何も分からない所に行くのは、危ないんじゃない?』
『そうかもしれない。でも、この気持ち、僕の中で段々強くなって来るんだ』
『違うことを考えてみたら?』
『いろいろ考えても、結局同じ所に戻って来る』
『答えが出ないことを考えるから、辛くなるんじゃない?』
『考えることを止める方が怖いよ』
『何をそんなに考えるの?』
『僕達以外の誰もいないこととか、何でできているか分からない食べ物とか』
『僕達にとって、それは当たり前のことだと思うけど』
『当たり前なのに、僕達は何ひとつ理解できていない』
『何も問題がないなら、それで良くない?』
『僕は、それがどうしようもなく落ち着かないんだ』
『壁の向こうに行けば解決する?』
『分からないけど、今とは違う何かが得られるかもしれない』
『難しいね』
『だから、考えるんだ』
『どうすればあの穴に入れるか、分かったよ』
『入らなくて良いよ』
『弱って泳げなくなったら、上の方の水の流れに負けて、沈んでしまうんだ』
『どうして知ってるの?』
『しばらく観察したし、ぎりぎり行ける所までちょっと潜ってみた』
『危ないよ。皆、言ってるよ。下に行っちゃいけないって』
『でも、本当の理由を知っている者はいない』
『たいした理由じゃないから、知らなくても良いのかもしれないよ』
『この世界じゃない世界があるなら、行ってみたいんだ』
『この世界で毎日をちゃんと生きることも、それなりに大切だと思うけど』
『ここじゃない世界が見たい。ただ、それだけなんだ』
『僕には、分からないよ』
『分かってほしくて言ってるわけじゃ……いや、やっぱり分かってほしいのかも』
『ごめん』
『僕も、困らせてごめん』
『……』
『……』
『今日の夕食、君の好きな味だと良いね』
『うん。ありがとう』
彼と最後に交わした会話。
彼の寂しそうな笑顔。
僕が思い出せるのは、それだけ。
僕が心の中に隠した不安を、彼は気づいていただろうか。
気づいていたから、僕にだけ、穴の話をしたのだろうか。
それなのに僕は、ちっぽけなプライドで、彼を失望させただろうか。
彼は、穴の中へ消えた。
それでも、群れは泳ぎ続ける。
彼は、もう戻って来ない。
それなのに、僕は泳ぎ続ける。
僕達の一日は何も変わらない。
ただ、泳ぐ。
泳ぎ続ける。
僕達が生きる毎日の先には、どんな未来が待っているのだろう。




