044 白き道標と、霧の向こうの青き影
開拓団の朝は早い。しっかりと朝食を胃に収めた後、ハルキは装備を整え始めた。
身に纏うのは、ドワーフ嫁のピリカさんが丹精込めて仕立ててくれた皮鎧だ。
手に馴染む質感と、守られているという確かな重みがある。
リュックには皮の水筒、そして保存食として鹿の脂と肉を練り固めた自家製プロテインバー、わずかな乾燥ベリーを詰め込んだ。
「よし……。足首、よし。手首、よし」
慎重にバンテージを巻き、手足の関節を保護する。これから向かうのは、未知の沼地だ。
準備不足は命取りになる。
そこへ、今日の探索パートナーであるセイルとガルドがやってきた。
セイルはいつもの無駄のない狩猟スタイル、ガルドは研ぎ澄まされた剣を腰に下げている。
対するハルキが手に持っているのは、武器ではなく、大量のライ麦の藁束と白い粘土の入った袋だった。藁の先に粘土を塗り、道しるべとして地面に刺していく作戦だ。
(俺の鑑定スキルにはマップ機能なんて便利なものはない。
これが本当に役立つのか、正直わからないし、無駄に終わるかもしれない……。
でも、思いついたからにはやってみたいんだ)
不安よりも「やってみよう」というワクワクした冒険心が、ハルキの胸を叩いていた。
村から平原を歩くこと約一キロ。
左手に深い森を、右手に広大な沼地を見据える境界線に辿り着く。ここからが本番だ。
沼地へ一歩踏み出すと、たちまち濃い霧が視界を遮った。
足元はぬかるみ、一面を覆う緑の苔が地表を隠している。
「おわっ、ずぼっ……って! まったく、なんなんだよこれは……」
苔の下に隠れた水たまりに足を取られ、ハルキは思わず溜息を漏らす。
上から見れば平坦に見えるのに、一歩ごとに裏切られるような感覚。
不自由な足取りに、早くも体力が削られていく。
だが、その時だった。ハルキの「何故?」に鑑定スキルが鋭く反応した。
【泥炭】
「ん……でい、たん……?」
聞き慣れない単語に首を傾げると、鑑定ウィンドウがさらなる詳細を表示し始めた。
――植物が不完全に分解され堆積したもの。乾燥させることで燃料として利用可能。
「これ……燃料になるのか? 使えるんじゃないか、これ!」
改めて周囲を見渡すと、霧の向こうに『泥炭』の表示が点在している。
ハルキは後ろを歩くセイルに声をかけた。
「セイルさん、これ、泥炭って言うらしいんですけど……使えると思います?」
「ほう……。そうだな、よく知っているな。確かにそれは乾かせば燃料になる。
薪の乏しい場所では重宝するものだ。
……もっとも、運ぶのは相当な重労働だがな」
すると、後ろを歩いていたガルドが「ガハハ!」と豪快に笑いながら肩を叩いてきた。
「そりゃ、ハルキが頑張って運ぶしかねえな! 期待してるぜ、大将!」
「そりゃ……そうだな! 腕が鳴るよ」
ハルキも負けじと笑い返す。
セイルはその二人のやり取りを最後尾から聞きながら、呆れたような、苦笑を漏らしていた。
「ほいっ、と」
ハルキは一定の間隔で、先端を白く塗った藁を泥に突き刺していく。
振り返れば、灰色の霧の中にポツン、ポツンと、白い目印が等間隔に並んでいた。
この「道しるべ」があれば、帰りに迷うことはない。自分のアイディアが形になったことに、確かな手応えを感じていた。
「ほいっ」
リズムよく次の藁を刺した、その時だった。
霧の向こう側――。
音もなく、何かが動くような「違和感」が、ハルキの肌を粟立たせた。
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ハルキは、一定の間隔で、白い粘土を塗ったライ麦の藁束を沼地のぬかるみへと突き刺した。霧の中にぼんやりと浮かぶ白い目印。これがあれば、帰り道を見失うことはないはずだ。
だが、その「道しるべ」を刺した直後だった。
前方の霧が、不自然なほどに濃く、そして青白く脈打った。
霧の奥から現れたのは、巨大なヘラジカのような影。全体的に青みを帯びた体躯は、周囲の湿気すらも凍りつかせるような、圧倒的な威圧感を放っている。
「なんだ、あいつ……ヤバすぎるぞ」
ハルキが本能的な恐怖で後ずさると、入れ替わるようにガルドが前に出た。
「俺の出番だ。ハルキは下がってろ」
ガルドは腰の剣を抜き、細く、長く息を吐く。
獲物を射抜くような狼の眼光が、青いモンスターを正面から捉えた。彼が丹田に気を溜め、踏み込もうとした――その瞬間だった。
『――ッ!!』
ハルキの脳内に、突如としてけたたましいサイレンが鳴り響いた。
まるで救急車が目の前を猛スピードで通り過ぎるような、歪んだドップラー効果を伴う警告音。鑑定スキルが、かつてないレベルの危険を知らせていた。
「いかん、伏せろッ!」
セイルの叫びと同時に、強い力で頭を泥の中へと押しつけられた。
見上げれば、モンスターが前足を高く跳ね上げている。
次の瞬間、世界が真っ白に塗りつぶされた。
「……ッ、がぁっ……!?」
衝撃波が鼓膜を突き破り、全身の産毛が逆立つ。
ハルキが直前に突き刺した「粘土塗りの藁棒」に、空から引き寄せられた巨大な雷光が吸い込まれていた。本来なら自分たちを直撃するはずだった一撃を、道しるべが避雷針となって肩代わりしたのだ。
しかし、その防壁は完璧ではなかった。
『バチバチバチッ!』と、視界が強烈な閃光で点滅を繰り返す。
藁棒は雷のエネルギーに耐えきれず、一瞬で爆ぜて粉々に砕け散った。そして、棒を伝って逃げ切れなかった残りの電流が、湿った泥水を這い、周囲を容赦なく焼き尽くす。
ようやく視界が回復し始めたハルキの目に飛び込んできたのは、無残に焼けた地面と、鼻をつくイオン(オゾン)の匂いだった。
「ガルド……!?」
そこには、全身から白い煙を上げながら、ゆっくりと膝をつくガルドの姿があった。
モンスターに最も近く、攻撃の構えを取っていた彼には、地面を伝った強烈な電撃が直撃していたのだ。
王者のように君臨する青いモンスターと、倒れゆく仲間。
沼地の静寂は、雷鳴という名の絶望によって塗り替えられた。
言葉はいらなかった。
ハルキとセイルが視線を合わせた瞬間、二人の意思は「撤退」で一致した。
二人は泥にまみれながら、倒れ伏したガルドに駆け寄る。巨体である狼族のガルドは重く、足元のぬかるみがその重みを倍増させた。
それでも、二人は必死にガルドの腕をそれぞれの肩に回し、ずるずると這いずるようにしてその場を離れた。
背後に感じる、刺すような視線。
ハルキは恐怖に突き動かされ、恐る恐る後ろを振り返った。
あの青い巨躯は、最初の一歩から動いていない。ただ、霧の向こうから冷徹な観察者のように、逃げ去る彼らを見つめていた。
「……さっきのは、警告だ。今のうちに、逃げるぞ」
セイルが鋭く告げる。
「け、警告……? あれでかよ……!」
ハルキは喉を鳴らした。自分なら一撃で消し炭になっていたであろうあの一撃が、単なる「追い払い」に過ぎない。その事実への恐怖を、ハルキは気合でねじ伏せ、再びガルドを運ぶ力に変えた。
霧が晴れ、ようやく一息つける距離まで逃げ延びると、
セイルが「ここまで来れば大丈夫だろう」
ハルキは泥の中に膝をつき、肩を上下させて激しく喘ぐ。
「ぜぇ……ぜぇ……。セイルさん、ガルドを……!」
「わかっている。ハルキ、お前は周りを警戒しろ。ガルドの体にはまだ『余雷』が残っている可能性がある。素人は触るな」
セイルは冷静にガルドの傍らに跪いた。
彼自身が電撃魔法を操るスペシャリストであるからこそ、その破壊のメカニズムも熟知している。
「ハルキ、水筒を出せ。俺が指示した場所にだけ、少しずつ垂らせ」
「あ、ああ! わかった!」
ハルキは言われるがまま、震える手で水筒を構えた。
セイルはガルドの胸元や首筋に細く青い光を灯し、体内に残留している魔力的な電気の偏りを、自身の魔法で中和していく。それは、ハルキには到底理解できない精密な「解術」に近い作業だった。
「落雷の衝撃で心臓が驚いているだけだ。幸い、お前が刺したあの藁棒が雷の大半を吸った。……これなら一週間も寝れば、元通り吠えられるようになるだろう」
「……よかった。本当に……」
泥だらけの顔で笑うハルキを、セイルは少しだけ意外そうに見つめ、すぐにいつものクールな表情に戻って立ち上がった。
「歩けるか、ハルキ」
「おう……任せとけ。体力だけは自信があるんだ!」
ハルキは再び、ガルドの巨体を背負い直した。足取りは重いが、その表情には開拓者としての確かな覚悟が宿っていた。
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【著者より:落雷に関する補足とご注意】
作中でのセイルによる治療描写は、あくまで本作の世界観における
「魔法的なエネルギーの中和(解術)」をイメージしたファンタジー演出です。
現実の落雷事故において、体に水をかける処置は有効ではありません。
もし現実で落雷事故に遭遇した場合は、以下の適切な初期対応を優先してください。
直ちに救急車を呼ぶ: 外傷がなくても内臓や心臓にダメージを負っている可能性があります。
心肺蘇生(CPR): 意識や呼吸がない場合は、直ちに胸骨圧迫などの心肺蘇生を行ってください。
体に電気は残らない、被災者の体に電気が溜まっていることはありません。
素手で触れて救助しても二次感電の恐れはないため、迷わず救護してください。
■ 日本での落雷について
日本国内で人が落雷を受ける確率は、年間で約100万分の1程度と言われています。非常に低い確率ではありますが、ひとたび発生すれば極めて危険です。
避難の目安: 雷鳴が聞こえたら、そこはすでに落雷の射程圏内です。すぐに鉄筋コンクリートの建物内や、車の中へ避難してください。
「高い木」は危険: 木の下での雨宿りは、木を伝った電撃を受ける「側撃雷」の危険があるため、絶対に避けてください。
物語の中ではハルキたちが知恵を絞って立ち向かいますが、現実では「まずは逃げる、すぐに病院へ」が鉄則です。皆様もどうぞ、安全な場所で物語をお楽しみください。
【異世界豆知識:泥炭】
本編でハルキたちが発見した「泥炭」について、中世欧州の歴史を交えた豆知識をご紹介します。
1. 泥炭とは「石炭の赤ちゃん」
泥炭は、湿地に生えた苔や植物が完全に分解されず、長い年月をかけて堆積したものです。数千年の時間を経て炭化したもので、いわば「石炭になる一歩手前の状態」と言えます。掘り出した直後は水を含んだ泥の塊のようですが、レンガ状に切り出して乾燥させると、非常に優れた燃料になります。
2. 中世欧州の「庶民の味方」
12世紀から14世紀の欧州では、人口の増加に伴って森林が伐採され、薪の価格が高騰していました。そこで重宝されたのが泥炭です。
特に北欧やアイルランド、オランダなどの低湿地帯では、泥炭は「貧者の燃料」と呼ばれ、庶民の暖房や調理に欠かせない命の綱でした。薪のように激しく燃えるのではなく、じわじわと長時間熱を持ち続ける特性があるため、冬の夜に暖炉の火を絶やさないためには最適だったのです。




