VS 試験
開始の一時間前くらいには、会場に着いていた。
試験会場はいつもの図書館だから、迷う可能性なんて万が一も無くて、何か道中で起こったとて必ず辿り着けるほどだ。
でも念には念を。
試験開始の時間じゃなくて、会場が開く時間を目安に着くといい。
暁音さんからの最後のアドバイスだ。
早く着くメリットはいくつか。
まず一番は遅刻しないことだろう。
一秒でも遅刻すれば、基本的に試験は受けられない。
その危険が回避できるのなら、多少眠くても早起きして向かった方がいいだろう。
そして同じくらい大きなメリット。
会場慣れができる。
僕は普段からこの図書館に来て勉強してたから実家の次くらいの安心感を覚えているが、そうじゃない人は初めて来る場所に心が乱されることがあるだろう。
早く着けば、知らない場所を多少知ってる場所に変えることが出来る。
知らないカフェでも一時間も勉強すれば自然と身体が慣れるみたいな、そんな理論だ。
そして最後、メンタルを安定させる時間を作れる。
さっきのと若干被る部分はあるが、当日のメンタルは当日になるまで分からないから、安定させるための時間を予め予定として確保した方がいいというもの。
早く着いた会場で勉強することで、会場慣れと同時に精神統一も行える。
ゼラさんが言ってた会場に持ち込める気を紛らわすものってのも、このタイミングで使うといいだろう。
僕は一冊、勉強とは関係ない本を持ち込んだ。
Sクラス冒険者の冒険譚、休日に読み進めていたやつの続きだ。
実際に会場まで来て分かったことは、見慣れた場所でも関係なく緊張が訪れる。
会場馴れをしてる僕ですらこれだ、初めて来る場所とかでだったらもっと酷かったことだろう。
予め決めていたのは、勉強する気にすらなれなかったら持ってきた冒険譚を読もうということ。
緊張のあまり何も手がつかなくて焦り続けるよりは、せめて没頭できる何かに熱中していた方がいいだろうという判断だ。
幸い、今の僕は勉強が全く手につかないほどまでの緊張は感じていない。
冒険譚は今はお守り代わりにして、僕は参考書のページを開いた。
暁音さんが貰ってきてくれたこの参考書、分厚いながらにしっかり色々詰まってるこいつは、この試験勉強期間で全体を三周した。
分からない問題は暁音さんに聞きながらだったから、ほとんどは解けている。
が、未だに自力で解くことはできない問題も十数問。
今この時間で急に解けるようになるとは思えないのでそこには軽くしか触れずに、全体を再確認する方向に努める。
全問解き切れなかったのは悔しいが、これが今の僕の実力なのだと噛み締める。
確かめてみて、やはり基本的なところに抜けはない。
公式を書き出すまでもなく、全て頭に入ってる状態だ。
例題を見て、解法を頭の中に思い浮かべる作業に入る。
実際に手を動かす必要が無いほどやり込んだ問題たちは、具体的な数値こそ出ないものの、脳内でほぼ丸裸に。
初めて解いた時には難解だったこいつらも、今はざっと目を通すだけで解法が浮かぶ。
これが、繰り返し解いた成果なんだろう。
開始三十分前になって、とりあえず一通り見終えた。
感想としては、自分の実力がよく分かった。
何度目を通しても理解できない難問はあるが、基礎応用共にちゃんと自分の中に身についてる。
エーテルの基本式から始まったこの学問。
エーテルがどう変化するかとか、流れる仕組み、変化後の動きなど、エーテルという千変万化な物質を取り扱う以上その学習範囲も膨大になる。
そんなエーテル学を完璧に学習しきったとは、口が裂けても言えない。
でも、ある程度は学べた。
自分の身になったと、断言出来る。
高い高い山の頂上は未だ見えず。
でも、確かに僕はここまで登って来たんだなと、振り返って見渡すことができる。
それが僕の成果、僕の今の実力だ。
さて、時間だけを見るならペースをあげれば何とかもう一周はできるか、と言った具合だ。
ここからもう一周、苦手な範囲だけを見てもいいし、飛ばした難問に挑んでもいい。
残り三十分、ここから伸びる可能性はいくらでもある。
ふーっと、息を吐いてから、
僕は参考書を閉じた。
そしてそいつをカバンにしまって、代わりに冒険譚を開く。
この世界に来る前のまともに勉強してこなかった僕が見たら、きっと血迷った選択に見えるだろう。
直前に叩き込まないなんて何事か、もしかしたら直前に見た範囲が出るかもしれないというのにその可能性を捨てるなんて、とそう思うに違いない。
確かにそれは間違いじゃない。
直前に確認した単語や数式が出る可能性なんていくらでもある。
合格するか分からない以上、その可能性に賭けないなんて愚か、慢心もいいところだろう。
でも、僕はもう参考書は開かない。
これ以上の足掻きで、点数をもぎ取りに行くことはしない。
なぜなら、僕は散々足掻いてきた。
勉強を始めてから、今の今までの何千時間、藻掻いて、足掻き続けてきたんだ。
土壇場で足掻いて取れるごときの点数なら、もう既にこの手の中にあるはずだ。
ここで慌てた賭けに挑むほど、自分のこれまでを舐めちゃいない。
残り時間で伸びる可能性に賭けることより、残り時間を緊張で落とさないことに費やした。
これが僕なりの戦略、最後に出した結論だ。
冒険譚は、僕をその世界に没頭させてくれた。
片角のミノタウロスらしき怪物との戦いは、手に汗握るものがあり思わず見入った。
確かな文才とそのスケールに心踊らされ、ほんの直前まで試験の緊張を忘れさせてくれた。
でも、いよいよその緊張と向き合わなければならない時間だ。
冒険譚をカバンにしまって、うんと伸びをする。
その瞬間どっと帰ってきたそいつは、想定よりは小さく軽い。
きっと身体が慣れてくれたんだろう。
どうにか扱えるサイズになった緊張を片隅に、僕は戦いの心構えを始める。
胸に抱くはこれまでの学習の日々。
地味で映えない努力の毎日は、辛く苦しいものだった。
初めて扱う数式に戸惑い悪戦苦闘を強いられたことも、理論が理解できずに何時間と頭を悩ませたことも、全部が今の僕を作る。
暁音さんやゼラさんから教わった知識と思考法は、確実に僕の助けになった。
毎日真っ黒になる利き手の側面を洗う作業もいつの間にか癖になってて、早起きだって今では慣れた。
この一年で変わったことはいくつもあって、特にものの見方が随分理論的になったと思う。
なぜこうなって、どうしてこうなるを日常的にも意識するようになった。
それが良いことなのか悪いことなのかはまだこの先を生きてみないと分からないけど、でも理屈っぽさって言う属性を手に入れたと思えばちょっぴりお得なんだろうか。
正直これだけの勉強をするのは二度とごめんだなとは思うけど、暁音さんの言葉にもあった通り、その分だけ誇りに思えた。
決して無にはならない糧になるはず。
長いトンネルの中に居るような生活にも、ようやく終わりが見える。
今ここで、全てにケリをつける。
配られた解答用紙と問題。
膝に手を置き、僕らなりの戦闘態勢に。
教卓の上に置かれた砂時計。
初めの合図と共にひっくり返るそいつが、僕らの時間を管理する。
用紙が行き渡ったことを確認し、試験官が砂時計に手をかけた。
「始めてください」




