# 第9話 三月かけて直した歌
縁談が進んでいても、温室の夜は変わらない。
「フィオナ、油差し。あと布、細いの」
「はい。……本日はまた、懐かしいものを」
作業台の上に鎮座しているのは、古びた木の小箱だった。チェイニーの歌う小箱ではない。もっと不格好で、蓋の角が欠けていて、側面に子どもの彫刻刀の傷が残る――十三年前、私たちが三月かけて直した、あのオルゴールである。
「アシュフォードの小箱を触ってたら、この子の油を替えたくなったのよ。ほら、兄弟みたいなものだし」
「兄弟、ですか。血筋がずいぶん違いますが」
「道具の血筋は素材じゃないの。誰の手で生きてきたか、よ」
お嬢様は蓋を開け、慣れた手つきで機構を検分し始めた。私は隣で布と油を捧げ持つ。十三年変わらない、助手の定位置だった。
「――ねえ、覚えてる? 最初にこの子を開けた日」
「忘れられるものですか。五歳のお嬢様に、挨拶より先に『指が入る?』と訊かれた日です」
「だってあなたの手、本当にちょうどよかったんだもの」
悪びれもせずに言って、お嬢様は笑った。
思い出す。あの頃のこの方は、今よりもっと、ひどかった。
公爵家の一人娘。周りは全員が敬語で、全員が三歩引いて、望む前に何もかも差し出される暮らし。五歳の子どもにとって、それは丁重な檻と同じだった。だからこの方は、誰も直せなかった壊れたオルゴールに執着した。望んでも手に入らないものが、この世にそれ一つしか、なかったから。
「あの頃の私って、どうだった。正直に言いなさいよ」
「正直に、ですか。……手のつけられない癇癪玉でした。歯車が一つ嵌まらないだけで工具を投げ、三日口をきかず、かと思えば夜中に私の部屋の窓を叩いて『今すぐ来て、わかったの』と」
「うわ、覚えてる。ばね座金の向きね」
「私は五歳児に叩き起こされる六歳児でした」
けれど――と、私は油を布に含ませながら思う。
あの三月が、すべての始まりだった。
工具の名前を覚え、油の匂いを覚え、この方の癇癪の周期と、癇癪の底にある「直したい」の必死さを覚えた。歯車が嚙み合った日の、部品を並べて図面と睨めっこした雨の日の、そして最後のねじを締めた春の朝の――蓋を開けたら、音が、鳴った。
素朴で、少し掠れた、けれど確かな歌だった。
五歳の公爵令嬢は、その歌に合わせて庭を三周した。二周目からは、私の手を引いて。
「……あのとき決めたのよね、私」
お嬢様が、機構に目を落としたまま言った。
「壊れたものは、直せるって。丁重に飾って諦めるんじゃなくて、手を汚せば直るって。……で、その隣には手の小さい助手がいるものだって」
「後半は決めないでいただきたかったですね」
「もう遅いわ。十三年物よ」
油を差し終えたオルゴールを、お嬢様はそっと巻き上げた。
巻き上げる手つきが、他のどの魔導具とも違うことに、私は昔から気づいていた。骨董の歌う小箱にも、最新式の触媒にも、この方は職人の手で触れる。的確で、迷いのない手だ。けれどこの不格好な木箱にだけは、指の力が二割、優しい。修理助手として言わせてもらえば、技術的にはただの過保護である。過保護のまま、十三年、この箱だけは一度も壊れていない。
鳴る。十三年前と同じ、素朴で掠れた歌。温室の硝子に音が反射して、夜気の中に薄く広がっていく。私たちはしばらく、黙ってそれを聴いていた。
この沈黙の作法も、十三年物だった。どちらかが口を開くまで、曲は二周する。今夜も、二周した。
この時間が、ずっと続けばいいと思った。
思った、そのときだった。
「――ああ、そうだ。忘れてた」
お嬢様が上着の隠しから、一通の封書を取り出した。上質な紙。辺境伯家の封蝋。
「ユリウス卿から手紙。今日の市場のお礼ですって」
「……左様ですか。それは、ようございました」
「読んで」
「は?」
「読み上げて。私、手が油まみれだもの」
封書が、ずいと差し出された。
断る理由が、見つからなかった。断りたい理由なら胸の中に一つ、はっきりとあったが、それは理由として口に出せる種類のものではなかった。
私は封を切り、読み上げた。
「『先日は得難い一日を賜り――』……達筆でいらっしゃいますね。『核石の研磨の実演は、貴女の解説あってこそ倍して興味深く』……『次の機会には、辺境の工房の話などもぜひ』……」
誠実で、押しつけがましくなく、次に繋げる一文まで品がいい。手紙の作法として、満点だった。千通添削してきた私が保証する。満点である。満点だから、読み上げる声が、時々かすかに硬くなるのを止められなかった。
「――以上です。お返事は、いかがなさいますか」
「んー」
お嬢様はオルゴールの蓋を閉じ、少し考えて、言った。
「代筆して。あなたの方が上手いもの」
「……私が、ですか」
「私の言いたいことは決まってるの。『研磨は磨きの角度が命』と『次は五番区画の端材市も面白い』。あとは適当に、失礼のないように包んで」
つまり、私が。
この方の言葉を、この方の縁談相手への、心のこもった手紙に仕立てるのか。
千組を結んだプロの技術で。満点の返事を。
「……かしこまり、ました」
その夜、自室の机で、私は三回書き損じた。
一回目は、事務的にすぎた。『先日は御同行を賜り恐悦に存じます。御指摘の研磨につきましては――』。読み返して、破った。これでは礼状ではなく納品書だ。お嬢様の声が、どこにもない。
二回目は、書けた。書けてしまった。
『研磨はね、磨きの角度が命なの。あの職人の手つき、貴方も見たでしょう。結晶の目を読んで、逆らわずに、でも流されずに磨く。ああいう手が、私は好きよ。――次は五番区画の端材市にいらっしゃい。宝の山だから』
声が、聞こえる文面だった。あの方の早口が、笑い方が、身を乗り出す癖が、行間で息をしていた。
書けるのだ、私には。十三年ぶん、聴いてきたから。
書けるからこそ、ペンが止まった。
この一通は、あの方の声を、あの方の縁談相手に届ける。声のいちばんいいところを、選り抜いて、包装して、他人の手に渡す。それが縁談係の代筆で、私はその、名人で。
――誰の親しみを、誰に売っている?
問いが浮かんだ瞬間、二枚目は手の中で丸まっていた。破って捨てた。誰の親しみだ、と自分に問い直すのが怖かった。
三回目でようやく、過不足のない一通が書き上がった。一回目より温かく、二回目より他人行儀な、ちょうどいい湯加減の手紙。プロの目盛りで言えば、及第点。
及第点しか、出したくなかった。
封をして、蝋を落として、それから私は机に突っ伏した。
プロの仕事だった。完璧な、代筆だった。
この手紙が縁を進めれば、私の職分は果たされる。私の胸の奥のなにかが、また一つ、静かに軋むだけで。
――指先に、まだ油の匂いが残っていた。
温室の、あのオルゴールの油だ。石鹸で二度洗ったのに、落ちない。落ちないままでいい、と思っている自分がいて、私はその自分から、そっと目を逸らした。
嘘の理由は、自分にすら、つき慣れてしまった。
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(第9話 了)




