# 第10話 嘘が視える眼は、鏡を視ない
夜半の温室は、レティシア様の城である。
昼は庭師の領分でも、日が落ちれば作業台と工具と分解途中の魔導具が主役に変わる。公爵夫妻も匙を投げて久しい、公然の秘密基地だった。
私が呼び出されたのは、叔父と会った翌日の晩のことだ。
「座りなさい、フィオナ」
作業台の向かいの丸椅子。お嬢様は魔導灯の傘を外した剥き出しの光の下で、腕を組んでいた。工具を握っていない。この方が温室で手ぶらでいるのは、雨の日の犬くらい珍しい。
「……修理のご用では、ないのですね」
「修理よ」
お嬢様は顎で私を指した。
「あなたの」
「壊れておりません」
「嘘。市場の日からずっと調子が変。飴細工の屋台、あなた昔から素通りできたことないのに断ったでしょう。荷物なんて片手で足りたくせに」
観察眼が憎い。道具にだけ発揮していてほしい。
「それは……ユリウス様とのお時間を、お邪魔しては、と」
「ほら嘘。二個目」
お嬢様は作業台の引き出しを開け、小さな包みを無造作に放って寄越した。受け取って、開く。飴細工だった。翼を広げた小鳥の形の。市場のあの屋台の意匠で、少し翼が欠けている。
「持ち歩いてたら欠けたわ。文句は受け付けない」
「…………」
受け取った小鳥は、指先で少し、べたついた。市場の日からずっと持ち歩いていた証拠だった。文句など、あるはずもなかった。
「それとね。……手紙。代筆させたの、あれは私が悪かった」
「? いえ、職分ですので」
「そういう話じゃないの」
お嬢様は膝を抱え直し、少しだけ、視線を作業台の木目に落とした。
「書き上がったの、読んだわよ。……上手かった。上手すぎた。私の声が、してたの。早口も、言い回しの癖も、私より私だった。読みながら思ったのよ。ああ、この人は十三年、私をこんなに聴いてたんだって。それで――」
言葉が、一度切れた。
「それで? じゃあなんでこの人、自分の声はちっとも聞かせてくれないのかしらって。そう思ったら、なんだか無性に腹が立ってきて、今夜呼びつけたってわけ」
……理不尽である。
理不尽であるが、反論の言葉は一つも見つからなかった。代筆は完璧で、自分の声は及第点以下。その配分を選んだのは、ほかならぬ私だからだ。
「で? 三個目の嘘を聞く前に、そろそろ本当のことを言いなさい」
剥き出しの魔導灯の光は、逃げ場に乏しい。
私は飴の小鳥を見つめたまま、口を開いた。本当のことを、言える範囲で。
「……ユリウス様は、良縁です」
「うん」
「嘘のない方です。あなたの素を見て、面白がれる方です。家格も釣り合い、辺境伯家なら王都の派閥からも距離が置けます。プロとして申し上げれば、これを逃す手はない。私は――この縁談を、進めるべきだと考えています」
「うん。それで?」
「それで、とは」
「今のは全部『縁談係の見習い』の意見でしょう。私が聞いてるのは、フィオナの話」
言葉に詰まった。
お嬢様は椅子の上で膝を抱えた。淑女の礼法が卒倒する座り方で、けれどこの温室では、それが素の彼女の形だった。
「ねえ、フィオナ。私、考えたのよ。仮にの話、私があの人と結婚するとするじゃない」
「……はい」
「辺境伯家に嫁ぐってことは、王都を離れるってことよね。三番街の工房も、この温室も置いていく。それは、まあ、いいの。道具はどこでも直せるから。でも」
膝を抱えた腕に、少しだけ力がこもった。
「あなたは? あなたはどうするの、フィオナ」
「わたし、は」
「ついてくる? 縁談係の職分は、縁を結んだら終わりでしょう。フローレスの家はこの領地にある。あなたには、あなたの家の役目がある。――私が結婚するってことは、そういうことよね」
考えたことが、なかった。
いや、違う。考えないように、してきたのだ。百二回の破談は、その問いを百二回、先送りにしてくれていた。
思い描こうとして、みる。辺境へ嫁ぐお嬢様。花嫁行列。遠ざかる馬車。見送る側の、私。それから――それから、が続かない。翌朝の温室に工具の音はなく、三番街の親方は「リティは?」と訊き、私は縁談係の帳面を繰る。誰の縁を? この方のいない屋敷で、私は一体、誰の。
描けないのではなかった。描いた瞬間に、胸の底が抜けるのだ。
結ばれなければ、隣にいられる。
千組を結んだプロの、なんと惨めな本音だろう。
「……お嬢様の行かれる場所が、私の職場です」
絞り出した声は、我ながら官僚の答弁みたいだった。
「はい三個目の嘘。もういいわ、今日のところは」
お嬢様はぱっと膝を解いて立ち上がり、いつもの調子で工具箱を漁り始めた。追及は終わり、らしい。この引き際の良さも、憎いところだった。
「ただね、フィオナ。一個だけ覚えておいて」
背中を向けたまま、お嬢様は言った。
「私の縁談を決める権利は、お父様にも、縁談係にもあると思ってる。でも――私の相棒を辞めさせる権利は、誰にもないから。あなた自身にもよ」
「……横暴です」
「公爵令嬢だもの」
ふふん、と笑う気配がした。
私は欠けた翼の小鳥を、そっと握り込んだ。飴はてのひらの温度で、少しべたついた。捨てられる気がしなかった。
温室を辞す間際、扉に手をかけたところで、背中に声が届いた。
「ああ、それと。ユリウス卿への手紙、次からは自分で書くわ」
振り向くと、お嬢様は工具箱を漁る手を止めずに、こちらも見ずに、続けた。
「下手でもいいの。私の縁談なんだから、私の下手な字で書くのが筋よ。あなたの名文はね、フィオナ」
そこで初めて、顔だけがこちらを向いた。
「もっと別のことに、取っておきなさい。……いつか、あなた自身の声で何か言いたくなった時のために」
返事は、できなかった。
一礼だけして、温室を出た。夜気が頬に冷たくて、握った小鳥だけが、掌の中でほんのりと甘かった。
――その夜、自室に戻った私は、机に一枚の紙を広げた。
フローレス家の家系図。仲介状に署名できる者、家の書式に触れられる者、公爵家の内情に通じる者。条件で絞れば、残る名前は五つもない。そのうちの一つを、私は昨夜、視ることから逃げた。
嘘が視える眼は、鏡を視ない。
視たくないものから、目を逸らし続ける。お嬢様への想いも、叔父への疑いも、同じ弱さの裏表だ。
……それでは、駄目なのだろう。
あの方は、揚げ芋一本の恩で禁術の組織に殴り込む人だ。その相棒が、身内が怖くて眼を瞑っていては、隣に立つ資格がない。
「……調べよう」
声に出すと、腹が決まった。
縁談係の記録庫には、歴代の仲介状の控えがすべて眠っている。ハロルド・メイエルの偽造状と筆跡や書式の癖を突き合わせれば、内部の誰の手が入ったか、絞れるはずだ。
鍵を管理しているのは、当主代行――叔父、その人だけれど。
幸い、私は鍵開けの上手い相棒を知っている。
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(第10話 了)




