# 第11話 記録庫の底、縁の系譜
「開いたわ」
所要時間、七秒。フローレス本邸の記録庫の錠は、公爵家の温室のそれより上等だったらしい。三秒余計にかかった、とお嬢様は不満げだった。
「……手際が良すぎて、将来が心配です」
「褒め言葉として受け取っておく。ほら、灯り」
深夜の記録庫に、絞った魔導灯の光がひとつ。
両壁の棚には、樫の書類箱がびっしりと並んでいた。フローレス家が縁談係を拝命して百四十年。公爵家に関わるすべての縁組の記録が、ここに眠っている。仲介状の控え、釣書の写し、身辺調査の報告書。縁の、系譜だ。
見習いの私には、閲覧権限がない。当主と、当主代行にしか。
「手分けしましょう。私は直近の箱。お嬢様は――」
「ハロルドの偽造状との突き合わせでしょ。任せて、書式の癖なら回路図と同じよ。線の引き方には人格が出るの」
作業は、静かに進んだ。
先に口を開いたのは、お嬢様だった。
「こっちは半分、答えが出たわよ。ハロルドの偽造状、書いたのは外の人間じゃない。行頭の下げ幅、敬称の崩し方、封の折り――全部フローレスの書式の流儀そのもの。外の代筆屋なら、こうは書けない。この家の書式教育を受けた誰か、まで絞れる」
「……身内、ですか」
「筆跡は上手に殺してあるけど、癖は道具と同じ。使い込んだ手ほど、隠れないの」
嫌な符合だと思いながら、私は直近三年の仲介状の控えを、一枚ずつ検めていく。宛名、日付、署名。署名の大半は叔父ギデオンのものだ。当主代行なのだから、当然のことで、それ自体は何の証拠にもならない。
異変に気づいたのは、四十枚目あたりだった。
「……レティシア様。お見合いの記録、何敗まで覚えていらっしゃいますか」
「失礼ね、全部覚えてるわよ。それが何」
「控えの枚数が、合いません」
この三年でお嬢様の縁談は四十一件。だが控えは四十六枚ある。数え直しても、四十六。
宛名を照合して、浮いた五枚を抜き出した。どれも見覚えのない相手だった。日付はあるのに、お見合いは行われていない。つまり――打診されたが、席に着く前に消えた縁談が、五件。
五枚を、灯りの下に並べた。日付は三年前の春から、およそ半年おき。家格はいずれも中位、年回りは適正、経歴は堅実。縁談係の見習いとして正直に言えば、どれも「良い釣書」だった。悪くない、ではない。良い、のだ。百二人の有象無象と比べて、明らかに、選ばれ方の質が違う。
良い縁談だけが、席に着く前に消えている。
その事実の座りの悪さに、私はまだ、このとき正しい名前を付けられずにいた。
「消えた、っていうのは」
「辞退か、破談か。理由の記載は……ありません。ただ」
五枚に共通するものが、一つだけあった。
控えの隅、事務の検印が並ぶ場所に、小さな印がひとつ紛れている。剣に絡む、双頭の蔦。
倉庫の腕輪と、同じ紋だった。
「……ビンゴ、ね」
お嬢様の声から、温度が抜けた。
「フィオナ。この紋、家の人間なら誰でも押せるの?」
「いえ、そもそも家の印章にこんな紋は――」
ない、と言いかけて、私は言葉を呑んだ。
記憶の底で、何かが引っかかった。家系図。子どもの頃、父の書斎で見た、古い古い一枚。現在の家系図には載っていない、いちばん上の段。
私は記録庫の最奥、百四十年前の箱を引きずり出した。埃を払い、いちばん底の革装丁を開く。フローレス家、拝命当時の家譜。その扉頁に、初代の家紋が押されていた。
剣に絡む、双頭の蔦。
そして紋の下、初代当主の名が記されているはずの場所は――墨で、黒々と塗り潰されていた。
名前ごと、消されている。改易とは、そういうことなのだろう。家譜に名を残すことすら許されない罪。うちの家は百四十年、塗り潰された祖先の上に、縁談係の看板を掲げてきたのだ。
墨、と胸の中で誰かが呟いた。視えない色と、同じ黒だった。
「……うちの、紋です」
声が、掠れた。
「初代フローレスの紋。二代目の頃に何かの咎で改易されて、紋も改められた――父から昔、そう聞きました。詳細は家でも語られません。百年以上前に、捨てられた紋です」
「捨てられた紋を、いま使ってる人間がいる」
お嬢様が、静かに続きを引き取った。
「縁談の控えに検印できる立場で。禁術の隷属具に署名代わりに刻んで。――フィオナ、これはもう、外の人間の仕業じゃないわ」
わかっている。
わかっていたのだ、本当は、暖炉の前のあの夜から。
私は震える手で、直近の箱に戻った。確かめる順序は、決まっていた。まず、チェイニー子爵の控え。正規の手続きで届いた、あの釣書の。
控えの隅に、蔦。
押されて、いた。
質草詐欺の仕入れ屋は、偶然お嬢様の前に現れたのではない。あの縁談も、蔦の指で盤に置かれた駒だった。二件続けての「クロ」は、二件続けての配牌だったのだ。
縁を結ぶ家の、捨てたはずの紋。千組を結んだ私の力と、同じ根から生えた、影。目を逸らしてきたものが、百四十年ぶんの埃の匂いの中で、輪郭を結んでいく。
「……最後に、確認したいことが」
私は直近の箱に戻り、震えそうになる指で、いちばん新しい控えを抜いた。
ユリウス・グランフェルト辺境伯子息。正規の手続き、正規の書式、叔父の署名。何もかもが本物の、あの晴れた空色の縁談。
控えの隅に。
双頭の蔦が、押されていた。
「……そん、な」
膝から、力が抜けそうになった。
ユリウス様は、シロだ。あの色に嘘はなかった。それは今も確信できる。けれど――彼をお嬢様の前に運んだ盤面そのものが、蔦の紋の上にあった。善意の駒。本人も知らないまま、誰かの指で進められた。
百三人目の「当たり札」は、配られた札だった。
なら、その前は? 百二人は? 私が生まれる前からの、この家の縁のすべては――?
「フィオナ。息して」
気づけば、お嬢様の手が私の背にあった。工具を握る、硬い、あたたかい手のひらだった。
「最悪の想像をするのは後。今は目の前の紙の話だけしなさい。いい? 紙が教えてくれたのは二つ。紋は家の内側にいる誰かのもの。そして、そいつは私の縁談を全部、盤の上で動かしてる。それだけよ」
「……それだけ、って」
「それだけ分かれば、上等ってこと」
お嬢様は五枚の控えとユリウス様の控えを手早く写し取り、箱を元の位置へ戻した。手つきは職人のそれで、声だけが、低く燃えていた。
「私の百二敗はね、フィオナ。全部私の勝手な負けだと思ってたの。それは私の、まあ、誇りみたいなものだったわけ。それを――裏で盤を組んでた奴がいるなら」
魔導灯が、ふっと消される。
闇の中で、悪童の声だけが笑った。
「その盤、ひっくり返すわよ。相棒」
記録庫の扉を、私たちは音もなく閉めた。
廊下の窓の外、東の空がわずかに白み始めていた。夜明け前のいちばん暗い時刻に、私は一つだけ、決めたことがある。
次に叔父に会ったら――今度こそ、視る。
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(第11話 了)




