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# 第12話 視えない色の、視かた



 機会は、向こうからやってきた。


 記録庫に忍び込んだ翌朝、私は叔父の執務室に呼ばれた。心臓に悪い符合だったが、用件はまるで別だった。


 執務室は、几帳面の見本のような部屋だった。書類は角を揃えて三つの山、ペンは太さの順、壁の書棚には縁談係百四十年の実務書が年代順に並ぶ。この部屋で叔父は二十年、病がちな兄の名代を務めてきた。公爵家の縁組の実務、分家の差配、王都との折衝。フローレスの家が回ってきたのは、九割方、この人の几帳面のおかげである。それを疑う者は、家中に一人もいない。


 一人も、いなかった。昨夜までは。


「グランフェルト家から、正式な申し入れだ」


 執務机の向こうで、叔父ギデオンは一通の書状を掲げてみせた。辺境伯家の封蝋。中身を読むまでもなく、叔父の顔がすべてを語っていた。


「婚約を前提に、話を進めたいそうだ。ユリウス卿たっての希望だとある。いやあ、めでたい。百三回目にして、ようやくだよ」


「……左様、ですか」


「ついては二週間後、公爵家で夜会を開く。両家の顔合わせと、内々のお披露目を兼ねてね。準備の差配は私がやるが、お嬢様の説得はお前の仕事だ。あの方は着飾る席をお嫌いだから」


 夜会。婚約。お披露目。


 言葉が上滑りしていく。頭の芯が冷えているのは、昨夜の発見のせいだけではなかった。婚約という単語が、思ったより深いところに刺さった音を、私は聞かないふりをした。


 今は、それどころではない。


 目の前に、視るべき人がいる。


 叔父は書状を畳み、上機嫌で今後の段取りを並べている。柔和な目元。菓子の土産の記憶。父の弟。捨てられた紋。夜分の外出を知っていた声。


 ――視ろ。


 昨夜、決めたはずだ。相棒の隣に立つと、決めたはずだ。


 私は息を整え、まっすぐに叔父を見て、心の内で引き金を引いた。


『鑑定』。


 世界が、淡く発光する。叔父の輪郭が光を帯び、その内側が――


 墨だった。


 人の形に流し込まれた、一面の墨。打算も、誠実も、嘘も、何もない。色があるべき場所に、ただ黒い静寂だけが満ちている。


 倉庫の梁の上の男と、同じ。


 市場の雑踏の人影と、同じ。


(――視えない)


 膝の裏が、冷たくなった。


 千人視てきて、視えなかった人間は三人だけ。そのうち二人は正体不明の影で、三人目が、いま目の前で、にこやかに夜会の料理の話をしている。


「……フィオナ? 聞いているかい」


「は、い。夜会の、お料理の――」


「顔色が悪いな。最近多いね、それ」


 叔父は書類から目を上げ、私を見た。


 柔和な目元は、そのままで。


「根を詰めすぎだよ。夜更かしは、ほどほどに」


 ……偶然の言葉だ。そう思おうとした。だが墨色の沈黙の前では、どんな世間話も底が知れなかった。視えないというのは、こういうことか。嘘が視える人生を送ってきた私は、視えないことが、こんなに怖い。


「下がっていいよ。ああ、それと」


 退出間際、叔父が付け足した。


「夜会の警備の件で、王都から専門の人間を呼ぶ。見慣れない顔がうろつくが、気にしないように。……大事な夜だ。虫一匹、入れたくないのでね」


 執務室を出て、廊下を曲がって、使用人階段の踊り場まで来たところで、私はようやく壁に手をついた。


 整理しよう。紙の話だけ。お嬢様の言い方を借りるなら。


 一つ。叔父の内側は視えない。墨色は、倉庫と市場の影と同一の「何か」だ。偶然で片づく確率は、プロの見立てでゼロに近い。


 二つ。ただし――視えないことは、黒の証明ではない。


 昨夜からずっと引っかかっていたことが、墨を目にして、はっきりした。あの墨は「隠している」のか、「塗り潰されている」のか、外からでは区別がつかないのだ。鑑定除けの術で己を覆う加害者なのか。それとも、何者かに心を塗り潰された、操り人形なのか。


 禁術の隷属具。命令を刻む型。


 もし叔父が――使う側ではなく、使われる側だったら?


 菓子の土産をくれた叔父と、蔦の紋の主が、頭の中でどうしても重ならなかった理由。それは私の甘さかもしれない。でも、プロの眼が「判定不能」と言っている以上、黒と決めつけるのも、白と信じるのも、等しく職務怠慢だった。


 三つ。いずれにせよ、夜会だ。


 両家が揃い、王都から「見慣れない顔」が入り、屋敷の門が開く夜。仕掛けるならあの夜で、仕掛けられるのもあの夜だ。


 ――その晩の温室で、私は視たものすべてをお嬢様に報告した。


 墨のこと。区別がつかないこと。夜会のこと。


 お嬢様は分解途中の魔導灯を脇へ押しやり、長いこと黙って聞いていたが、やがて一言、こう訊いた。


「フィオナはどう思うの。ギデオン殿は、使う側? 使われる側?」


「……わかりません。ただ」


 私は、暖炉の前の夜を思い出していた。視ることから逃げた夜。あのとき逃げた理由は、黒だったら怖いから、だけではなかった気がする。


「叔父は昔、私の眼のことを『縁談係のために生まれてきた才だ』と言いました。あの言葉だけは……嘘であってほしくない、と思っています。判定不能のまま、それだけは」


「わかった。なら、両にらみでいく」


 お嬢様は作業台に紙を広げ、屋敷の見取り図を描き始めた。線は迷いなく、目はすでに戦支度だった。


「夜会までの二週間で、こっちの仕掛けを用意する。相手が影を使うなら、影を炙り出す道具を作ればいい。――ちょうど良い教材が手元にあるしね」


 押収品の腕輪。命令を刻む禁術の核。


 それを解析して対抗手段に変える算段を、この方はもう立てている。道具は人を助けるためにある――その信条ごと、敵の技術を鹵獲して撃ち返す気だ。


「フィオナの仕事は二つ。夜会の招待客名簿と、警備計画の写しを手に入れること。それから――」


 お嬢様は顔を上げ、少しだけ、声の調子を変えた。


「当日、私の隣にいること。一晩じゅう、よ。婚約披露の席だろうと関係ないわ。いい?」


「……それは、業務命令ですか」


「相棒命令」


 そんな命令系統は存在しない。


 存在しないが、拒否権もまた、存在しなかった。


---


(第12話 了)


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