# 第13話 消えた五人の、行く先
夜会まで、残り十二日。
温室が照心灯の工房と化している間、私には私の戦場があった。紙の戦場である。
消えた五件の縁談。記録庫から写し取った五つの名前の、現在を洗う。縁談係の身辺調査の伝手、社交界の名鑑、教会の記録簿。表の帳面で辿れるところまでは、三日で辿り終えた。
結果は、こうだった。
一人目、エルネスト・ロウ子爵。健在。ただし三年前から人が変わったと領地で囁かれ、今は夜会の招待名簿に名がある。中身については、語るまでもない。
二人目、南部の伯爵子息。縁談の打診から二月後に「流行り病で病没」。享年二十六。健康そのものの剣自慢だったと、名鑑の旧版にはある。
三人目、西部の男爵家次男。「商用で大陸へ渡航」したきり、三年間、帰国の記録なし。家族は音信を「多忙のため」と説明しているが、その家族の商会には、三年前から不自然な額の送金が続いている。口止め料の匂いがした。
四人目、消息不明。家ごと、王都から消えていた。
この四人目が、一番、後味が悪かった。北部の子爵家。打診の翌月に「領地替えを願い出て」一家で北の辺境へ移り、以後、納税の記録だけが機械のように正確に続いている。人の暮らしの痕跡――教会の洗礼記録も、市場の商いも、隣家との悶着も――が、三年間、一件もない。家がそこに「在る」ことだけが、書類の上で完璧に維持されている。
まるで、誰かが「在ることにしておいた」ような。
深追いは、やめた。紙の帳面で分かるのはここまでで、この先は、夜会のあとの仕事だ。
そして五人目――王都の東の僧院に、いた。
「――クレイン修士、ですか」
夜会まで十日の午後。僧院の面会室で、私とお嬢様は、五人目と向かい合っていた。
元・準男爵家の嫡男、トマス・クレイン。三年前、家督を弟に譲って僧籍に入った、と記録にはある。年の頃は三十前。剃髪した頭と質素な僧衣に、けれど所作の端々に、貴族の育ちが残っていた。
「はい。公爵家の方が、私に何のご用でしょう」
穏やかな声だった。視た。色も、穏やかだった。噓も、怯えも、後ろ暗さもない。信仰に整えられた、静かな色。
ただ、その色のまんなかに――穴が、あいていた。
墨ではない。塗り潰されたのでもない。ただ、色があるべき場所に何もない、ぽっかりとした空白。私は、チェイニー子爵の末路を思い出していた。独房で抜け殻になり、蔦の記憶だけを綺麗に失った男。あれと、同じ手口の痕だ。
「単刀直入に伺います。三年前、オールウィン公爵家との縁談を打診されたご記憶は」
「……オールウィン家と、私が? まさか。恐れ多いことです」
嘘ではなかった。本当に、覚えていないのだ。
「では、家督を譲られた経緯を伺っても? 記録では、ご自身のご意志と」
「ええ、それは……」
修士は答えかけて、ふと、言葉に迷った。穏やかな色の縁が、かすかに揺れた。
「……妙な話をします。笑わないで聞いてくださいますか。私には、三年前の春の記憶が、ないのです」
面会室が、静かになった。
「気づいたら、僧院の門前に立っていました。家督の譲渡状には確かに私の署名があり、家の者は皆『お前が自分で決めた』と言う。ならばそうなのでしょう。ここでの日々に不満はありません。神は良くしてくださる。ただ――」
修士は自分の胸に、そっと手を当てた。
「時々、夢を見るのです。春の庭で、誰かに問われている夢を。『こちら側に付くか』と。私は、断ったような気がする。断って、それから――そこで、いつも目が覚めます」
こちら側に付くか。
勧誘だ。
消えた五人は、排除されたのではなかった。最初に、誘われたのだ。おそらくは、駒になれと。縁談という入口から、お嬢様に近づく駒に。
そして断った者から順に、消された。病没。渡航。失踪。記憶ごと僧院へ。従った一人だけが、ロウ子爵として、いまも盤上を歩いている。
「……最後に、一つだけ。その夢の中で、問うてきた相手のお顔は」
「顔は、霞んでいて。ただ」
修士は目を閉じ、記憶の穴の縁を、指先で探るように言った。
「灰色の、仕立てのいい上着でした。それと……菓子の匂いが、した気がします。焼き菓子の。妙でしょう? 恐ろしい夢のはずなのに、匂いだけは、優しいのです」
辞去の間際、それまで黙っていたお嬢様が、初めて口を開いた。
「クレイン修士。最後に一つだけ。……あなたは今、幸せ?」
不躾にもほどがある問いだった。だが修士は気を悪くするでもなく、少し考えて、微笑んだ。
「はい。ここでの日々は、静かで、満ちています。……ただ」
「ただ?」
「春が来るたび、思うのです。私はこの静けさを、自分で選んだのだったかな、と。選んだのなら、誇れる。選ばされたのなら――誰かに、返してほしいものがある気がする。それが何かは、思い出せないのですが」
修士は自分の掌を、じっと見た。
「不思議なもので、記憶は消えても、手だけが覚えていることがあるのです。私はときどき、剣の素振りの形に、手が動く。僧に、剣は要らないのに」
三年前、健康そのものの剣自慢だった二人目の伯爵子息のことを、私は思い出していた。この人も、剣の人だったのだ。奪われたのは春の記憶だけではない。剣も、家督も、そして「自分で選んだ」という、人生の背骨も。
――帰りの馬車で、お嬢様は長いこと、窓の外を見ていた。
灰色の上着。菓子の匂い。名指しにはほど遠い断片だが、私の胸の中では、一人の人物の輪郭を正確になぞっていた。五歳の私に焼き菓子をくれた、あの柔和な目元を。
口には、出さなかった。出せば確定してしまう気がした。
「……ねえ、フィオナ」
やがて、お嬢様が口を開いた。声は静かで、静かなぶんだけ、底が深かった。
「私、百二敗って、笑い話にしてきたのよ。社交界の笑い者上等、破談は私の芸風、って。負けは全部、私のものだと思ってたから笑えたの。でも」
膝の上の拳が、震えていた。怒りで。
「違ったのね。私のお見合いは、面接だったのよ。悪党の。私に近づく駒の選考会。受かった奴が席に着いて、落ちた奴は――断った、まともな人から順に、消されてた。病死。失踪。記憶ごと僧院送り。私の縁談の裏で、五人よ、フィオナ。五人の人生が、畳まれてたのよ」
「……はい」
「笑えないじゃない。もう二度と、笑えないじゃないの……!」
声が、割れた。
私は、隣に座り直した。慰めの言葉は選ばなかった。千の席で千の涙を見てきたプロの結論として、こういうとき、言葉は大抵、邪魔になる。
代わりに、手を握った。工具だこのある、硬い手を。夜会の晩、私を引き戻してくれる予定の、あたたかい手を。今日だけは、先に、私から。
馬車が石畳を鳴らす音の中で、お嬢様は何も言わず、けれど握り返す力だけが、痛いほど強かった。
――夜会まで、十日。
盤をひっくり返す理由が、また五人ぶん、重くなった。
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(第13話 了)




