# 第54話 就任式、前夜
就任式の前夜、小箱堂の丘には、次々と客が来た。
招かれた者も、招かれずに来た者も。翼を広げた小鳥の看板の下に、この二章と一年で結ばれた縁が、勝手に集まってきた、という方が近い。
最初に着いたのは、エマだった。
「フィオナ様! レティシア様! ……わあ、本当に、ご当主になるんですね」
北から五日かけて逃げてきた少女は、一年で背が伸び、目の隈は完全に消えていた。手には、ノルデン領の薔薇を一抱え。母親が、三年ぶりに咲かせた庭の、初物だという。
「就任式に、と母が。……あの、鐘は、今も、ただの良い音で鳴っています。収穫祭も、二回目をやりました」
「そう。……いい報告だわ、エマ」
お嬢様が、薔薇を受け取った。花の扱いにかけては、この人は、母親のアデル譲り――ではないが、譲られたように、丁寧だった。
次に来たのは、ユリウス様だった。辺境の駐屯地から、就任式の警備の名目で。相変わらず、まっすぐな背中で。
「――ご就任、おめでとうございます。それと」
ユリウス様は、私を見て、少しだけ、笑った。
「フローレス殿。陣形が、認められましたね。正式に」
「……はい。おかげさまで」
「最初の席で申し上げた通りだ。あれは、主従の陣形ではなかった。……俺の見立ては、二連覇の剣より、確かだったでしょう」
「敵いません、その点は」
ユリウス様は、満足げに頷いて、警備の配置を見に、丘を下りていった。あの人の縁は、まだ結ばれていない。いつか本気で、いい相手を見立てて差し上げたい。職業意識が、また、まともな方向に疼いた。
ハワード侯爵も、来た。杖をつき、供の者に支えられて。三十年の紗は、まだ完全には晴れていない。だが老侯爵は、丘の上から王都を見渡して、しみじみと言った。
「……四十年前のわしの演説が、こんな形で役に立つとはな。長生きは、するものだ。墓守を辞めた甲斐が、あったわい」
そして――近衛に伴われて、楽師も、来た。
就任式への出席は認められなかったが、前夜のこの集まりには、特別に。男は、丘の上で、目を閉じて、集まった人々のざわめきを聴いていた。エマの弾む声、ユリウスの生真面目な受け答え、ハワードの昔語り、職人たちの笑い。揃わない、賑やかな、雑音を。
「……いい、調律だ」
ぽつりと、男が言った。
「いや。違うな。……これは、調律されていない。誰も、揃えていない。それでも、こんなに――心地よい」
視た。雪原の底の一色が、この一年で、ずいぶん広がっていた。もう、雪原と呼ぶには、色の面積が多すぎた。修理は、順調だった。
「楽師どの」
私は、訊いた。
「就任式で、あなたに、できないことを頼んでも?」
「……ほう」
「明日、私たちは、壇上で、縁を一つ、公にします。百四十年、この国が隠してきた縁の、続きです。……その場に、音が、欲しいのです。呪いでも、調律でもない、ただの、祝福の音が。あなたに――弾いて、いただけませんか」
男は、長いこと、黙っていた。
五百年、音で人を静めてきた器に、祝福の音を頼む。それが、どれほど不躾な願いか、私にもわかっていた。
「――五百年で」
やがて、男は言った。掠れた、けれど、確かな声で。
「初めての、依頼だ。命令ではなく。……整えるためではなく、祝うために、弾け、と」
像を結ばない顔の、口元が、動いた。今度は、確かに、笑ったのだと、視えた。
「引き受けよう。……五百年ぶんの、腕の見せどころだ」
――夜が更けて、客が引けた後。
私とお嬢様は、丘の上に、二人で残った。
明日の式次第は、頭に入っている。バーナビーの祝辞、国王の裁可、そして――壇上での、二人の宣言。系図に、一行を書き込む瞬間。
「……緊張してる?」
お嬢様が、訊いた。
「はい。前世を含めて、一番」
「奇遇ね。私もよ」
二人で、少し、笑った。
丘の下に、王都の灯りが、瞬いていた。その先に、王宮の白い塔が、月明かりに浮かんでいる。明日、あの塔で、私たちは、百四十年前の二人が届かなかった半歩を、埋める。
「ねえ、フィオナ」
「はい」
「明日が終わったら――南に、行きましょう。つばめ屋のばあさまたちの、お墓に。陛下からの詫びと……私たちの、報告を、持って」
「隠さずに済む国に、なりましたと」
「うん。……まだ、一行だけどね。でも、一行から始まるのよ。全部」
お嬢様は、私の手を、握った。工具だこのある、あたたかい手で。
銀の小鳥が、耳元で、月光を撥ねていた。
欠けた翼の飴細工は、丘の家の、机の小瓶の中で、明日を待っている。
――就任式、前夜。
百四十年と五百年と、十三年と、二つの生涯ぶんの、遠回りの果ての夜が、静かに、更けていった。
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(第54話 了)




