# 第50話 私事ではない、という重さ
就任式まで、ひと月を切った。
公爵家の書斎は、連日、戦務室と化していた。就任式の式次第、王家との調整、領政の引き継ぎ、そして――返還事業と紗の技術回収という、国家規模の仕事の采配。次期公爵の卓上には、私事の入り込む隙間が、日に日になくなっていく。
その隙間のなさが、そのまま、一つの問いになって、私たちの間に横たわっていた。
就任式で、私を、どう扱うか。
「――正直に、言うわね」
夜の書斎、二人きりになったところで、お嬢様が切り出した。いつもの悪童の顔ではなかった。当主の顔だった。
「就任式の壇上に、あなたを『伴侶』として立たせたい。ずっとそう思ってた。……でも、状況が変わった」
「返還事業の、責任者になられたから、ですね」
「うん。私が女公爵になって、女の伴侶を公にする。それだけなら、オールウィン家一つの話だった。反対する親戚を説き伏せれば済んだ。でも今は――私は王家の古傷を掃除する事業の、責任者よ。その私が『前例のない伴侶』を立てれば、反対派は、こう言うわ。『あの女は、王家の秘事を握った上で、その秘事を盾に、掟破りを押し通そうとしている』と」
金の印章。剪定録。百四十年前の王家の秘事。
私たちの手には、王家を揺るがす証拠が、握られている。伴侶の公認をその力で押し通せば――それは、脅迫と、区別がつかない。
「あんたの言う通りに認めなければ、王家の恥をばら撒くぞ。……そう受け取られたら、私たちの縁は、『愛』じゃなくて『取引』の産物になる。百四十年前のアデル様たちが、命がけで守った縁の続きを――取引の道具にするなんて、私は」
お嬢様の声が、初めて、揺れた。
「……絶対に、嫌なの」
書斎が、静かになった。
これは、恋の障害の話ではなかった。愛し合う二人を引き裂く親戚や掟の話なら、いくらでも戦いようがある。だがこれは――勝ちすぎた者の、悩みだった。私たちは強くなりすぎた。王家の秘事を握り、国家事業を任され、世論を味方につけた。その力があるからこそ、「愛で認めさせる」ことが、「力で認めさせる」ことと、見分けがつかなくなっている。
「……取引にしない方法を、考えましょう」
私は、言った。
「愛を、力で押し通すのではなく。……力を、手放した上で、愛を問う方法を」
「手放す?」
「はい。――金の印章と、王家の秘事。あれを、伴侶公認の交渉材料には、使わない。それどころか」
私は、一晩考えていたことを、口にした。
「先に、返してしまうのです。何の条件もつけずに。王家の秘事を握ったまま伴侶を認めさせれば、脅迫に見える。ならば――秘事を、無条件で王家に返した後で、丸腰で、伴侶の公認を願い出る。取引の札を全部捨ててから、頭を下げる。……そうすれば、少なくとも、脅迫にはなりません」
「……フィオナ。それ、私たちの一番強い札を、捨てるってことよ。捨てたら、反対派を抑える手段が、なくなる。……負けるかもしれない」
「負けるかもしれません。でも」
私は、まっすぐに、お嬢様を見た。
「アデル様の遺言を、覚えていますか。『使うなら、縁を摘む側にではなく、結ぶ側に使え』。……金の印章を、自分たちの縁を認めさせる取引に使ったら、それは結局、『縁のために王家を摘む』ことになりませんか。私は、あの印章を、そんな風には使いたくない。あなたも、同じはずです」
お嬢様は、長いこと、私を見ていた。
それから――ふ、と、肩の力が抜けた。いつもの、悪童の顔が、戻ってきた。
「……ほんと、あなたって人は。私が一番、格好つけたい部分を、いつも先に言うんだから」
「十三年、聴いておりましたので」
「その台詞、気に入ってるでしょ」
「はい。とても」
――方針は、決まった。
金の印章と、剪定録の王家関連分は、無条件で返上する。何の見返りも求めず。そして、力を手放した上で、丸腰で、就任式の場で伴侶の公認を願い出る。
勝ち目は、正直、わからない。反対派を抑える切り札を、自ら捨てるのだから。
だが――百四十年前、アデル様たちは、もっと丸腰だった。名前すら、捨てていた。それでも、勝った。隠れて、ではあったけれど。
私たちは、名前を捨てない。印章という鎧も、いったんは脱ぐ。その上で、堂々と、正面から願い出る。
百四十年前の二人が届かなかった半歩を、埋めるために。
「――さて」
お嬢様が、立ち上がった。当主の顔と、悪童の顔が、半分ずつの表情で。
「まずは陛下に、印章をお返しに行くわよ。……人生で一番、格好いい手ぶらで」
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(第50話 了)




