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# 第48話 返してはいけない縁



 王都に戻ると、剪定録の返還事業が、本格的に動き始めていた。


 小箱堂の王都出張所は、この事業のために借りた一室である。壁一面に、地下から運び出した黒い綴りが並ぶ。一冊が、一つの摘まれた縁。数百冊のうち、遺族の所在が判明したものから、順に返していく。王家の詫び状を添えて。


 最初の数件は、涙の再会だった。


 六十年前に「破談」とだけ聞かされた縁が、実は当人同士は結ばれることを望み、家と王家に引き裂かれたのだと知った老人が、綴りを抱いて声を上げて泣いた。相手はとうに亡くなっていたが、「あの人も、私を選んでくれていたのか」と、それだけで、六十年の霧が晴れたと言った。


 返還は、詫びであり、供養だった。しばらくは。


 ――五件目で、私たちは、壁にぶつかった。


「……この綴りは、返さない方がいいかもしれません」


 私は、一冊を手に、お嬢様に言った。


 二十年前の記録だった。摘まれた縁の片方――エレナという女性は、存命で、王都に住んでいる。だが綴りを読むと、事情が、単純ではなかった。


「エレナさんは今、別の相手と結婚して、幸せに暮らしています。子も三人。……二十年前に摘まれた縁の相手は、彼女の、いまの夫の弟です」


 お嬢様の眉が、寄った。


「……義理の弟」


「はい。若い頃、姉妹のように育った家同士で、エレナさんは弟の方と恋仲でした。それを両家が――当時はまだ、王家の意向とは知らずに――『兄の方が家格の釣り合いがよい』と、縁を付け替えた。エレナさんは事情を知らされないまま、兄と結婚し、二十年、幸せに暮らしています。弟は、独身のまま、遠国に」


 この綴りを返せば。


 エレナは知る。自分が本当は弟を愛していたこと。その縁が王家に摘まれ、家の都合で兄に付け替えられたこと。二十年の幸せが、摘まれた縁の上に建っていたこと。


「……返せば、あの家族の二十年が、崩れるかもしれないわね」


 お嬢様は、綴りを見つめた。


「返さなければ、エレナさんは、知らないまま幸せでいられる。……でも、それは、王家が二十年前にやったことと、何が違うの。『知らない方が幸せ』と決めて、真実を伏せる。私たちも、同じことをするの?」


 返還事業の、根っこを揺るがす問いだった。


 私は、しばらく考えて、前世の経験から、一つだけ言えることを言った。


「……前世で、一度だけ、似た相談を受けたことがあります。結婚を決めた女性が、式の直前に、昔の恋人の消息を知りたいと。調べれば、揺らぐかもしれない。調べなければ、知らないまま添い遂げられる。……私は、どうしたと思いますか」


「調べた?」


「本人に、選ばせました」


 私は、綴りを、そっと置いた。


「『知る権利』を、私が代わりに行使してはいけない。かといって『知らないままがいい』と、私が決めるのも、越権です。……返還とは、記録を渡すこと。でも本当に返すべきなのは、記録ではなく、『選ぶ権利』なのだと思います。二十年前、エレナさんは、選ぶ権利ごと奪われた。ならば私たちが返すのは――『知るか知らないか、あなたが選んでいい』という、その一点ではないでしょうか」


 お嬢様は、長いこと、黙っていた。


 それから、ゆっくりと、頷いた。


「……そうね。全部見せて崩すのでも、全部伏せて守るのでもない。『こういう記録があります。読むか読まないかは、あなたが決めていい』って、選ぶ側を、返す」


「選ぶ側、ではなく、選ぶ権利ですね」


「……それが言いたかったの。異国帰りは、たまに言葉が遠回りするのよ」


 お嬢様は、こほんと咳払いした。十日の船旅と半月の南方暮らしで、舌がまだ、潮の匂いを引きずっているらしかった。


 ――エレナのもとへは、私が一人で、行った。


 用件を告げず、ただ「二十年前の、ある記録について、お伝えするか否かを、あなたに選んでいただきたい」と。中身は言わず、「読めば、過去について知らなかったことを知る。読まなければ、今のまま。どちらも、間違いではありません」と。


 エレナは、聡明な人だった。しばらく考えて、静かに訊いた。


「……それを知って、私の子どもたちや、夫が、傷つきますか」


「あなたが、望まない限りは。この記録は、あなただけのものです」


 エレナは、また少し考え、それから、首を横に振った。


「では、結構です。……私は、いまの家族を、自分で選んで、愛してきました。その二十年が、昔の何かの『上に建っている』のだとしても――建てたのは、私です。私の脚で。それだけで、十分」


「――承知しました」


 私は綴りを鞄に戻し、深く一礼して、辞した。


 選ばなかったことも、選択だった。二十年前に奪われた権利を、エレナは今日、自分の手で、行使したのだ。「知らないままでいる」という選択を、初めて、自分で。


 ――出張所に戻ると、お嬢様が待っていた。


「どうだった」


「『読まない』を、選ばれました。ご自分で」


「……そう」


 お嬢様は、少しだけ、笑った。寂しさと、納得の、半分ずつの笑みで。


「返還って、渡すことだと思ってた。違うのね。……選ぶ権利を、その人に返すこと。渡さないことも、含めて」


「はい。難しい商売です、これは」


「でしょうね。……でも、うちがやらなきゃ、誰がやるの」


 壁一面の、黒い綴り。数百の、摘まれた縁。その一冊ずつに、こういう分かれ道が、待っている。


 返還事業は、涙の再会だけでは、済まない。


 それでも私たちは、一冊ずつ、選択を返していく。百四十年前、初代が「摘む鋏は持たない」と言った、その続きの仕事として。


---


(第48話 了)


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