# 第47話 帰る理由
自由港での最後の夜、私たちは手記を、読み終えた。
中ほどの頁に、リラ――王女だった人の、書き込みがあった。アデルの手記に、時折、別の筆跡が寄り添っている。夫婦の会話が、そのまま紙の上でも続いているようだった。
ある頁で、アデルが『今日、客に「ご夫婦で?」と訊かれ、「ええ」と答えた。この港では、誰も驚かない』と書いていた。その隣に、リラの細い字で、こう添えてあった。
『驚かれない、ということが、こんなに軽いものだとは。故郷では、私の存在そのものが、国を揺るがす秘密だった。ここでは、私はただの、腕のいい細工師の女房である。……秘密でなくなるとは、こういうことか。私は五十を過ぎて、初めて、ただの私になった』
お嬢様は、その頁を、長いこと、指でなぞっていた。
「……ただの私、か」
「はい」
「私はね、フィオナ。たぶん、ただの私にはなれないの。公爵になるってことは、生涯、名前を背負うってこと。この人みたいに、名前を捨てて軽くなる道は、選べない」
お嬢様は手記を閉じ、膝の上に置いた。
「でも、それでいいと思ってる。この人たちは、名前を捨てて、軽さを手に入れた。私は――名前を背負ったまま、その名前の方を、軽くしたいの。公爵家の令嬢が、女の相棒と生きる。それが誰も驚かない名前になるように、名前の側を、作り替える。……重いままで、軽くする。矛盾してるけど」
「矛盾していません」
私は、言った。
「役目の、修理です。名前という道具の役目を、あなたが直すのです。捨てるのでも、壊すのでもなく。……あなたらしい直し方だと、思います」
お嬢様は、少しだけ目を見開いて、それから、笑った。
「……ほんと、あなたって、私の言いたいことに名前をつけるのが上手いわよね」
「十三年、聴いておりましたので」
――出立の朝、つばめ屋の前は、賑やかだった。
職人たちが総出で見送りに出て、マレナ氏が、餞別の包みを抱えてきた。
「創業者の工具を、ひと揃い。うちには五代ぶんの写しがありますから、原本は、北の家に帰った方がいい。アデルばあさまの鑿です。……北の土は、久しぶりでしょう」
お嬢様は、包みを両手で受け取った。次期公爵の顔ではなく、道具を託された職人の顔で。
「――必ず、いい仕事をさせます。この子たちに」
「ええ。それと」
マレナ氏は、金の印章を包んだ布に、目をやった。
「ばあさまたちの遺言、覚えておいでですね。『縁を結ぶ側に使え』と。……北で何をなさるおつもりか、あたしは訊きません。ただ、これだけは。あの二人は、隠れて勝ったことを、恥じてはいませんでした。でも――もし北の国が、隠れずに済む国になるのなら。あの二人の墓に、いつか、報せに来てください」
「……必ず」
お嬢様の声は、少しだけ、掠れていた。
――帰りの船は、追い風だった。
行きの十日が、帰りは八日。フィオナはもう船酔いをしなかった。二度目の海は、初めてより、ずっと親しげだった。
甲板で、楽師が、北を向いて立っていた。
「……戻るのだな。あの、共鳴室の真上へ」
「はい。就任式が、あります。……不安ですか。礎石の近くは」
「いや」
男は、首を振った。像を結ばない顔が、少しだけ、こちらを向いた。
「この海で、たくさんの雑音を聴いた。港の駆け落ちも、見た。……あの若者たちの、揃わない、必死な音。あれを聴いてしまうと、もう、揃えたいとは思わん。命令はまだ底で鳴っているが、私の耳の方が、命令を聴きたがらなくなった。……修理とは、こういうことか、店主どの」
「上出来よ、患者さん」
お嬢様が、風の中で笑った。
「その調子で、あと数年、通いなさい。命令の回路、根こそぎ抜いてあげるから」
――北の港ルーメルが、見えてきた。
行きに、百四十年前の航路として渡った海を、私たちは今、帰る理由を胸に、戻ってくる。
手記。鑿。そして、金の印章。
過去から預かった三つの荷物が、船室に積んである。どれも、就任式で使う。系図に一行を書き込むための、百四十年ぶんの、弾薬だった。
「フィオナ。王都に戻ったら、忙しくなるわよ」
手すりの上で、お嬢様が言った。潮風が、銀の髪を北へなびかせていた。
「返還事業の続き、楽師の診療、就任式の支度。……それと、たぶん、バーナビー従叔父様が、もうひと暴れ。継承は決まっても、『伴侶に女を』となれば、話は別だと騒ぐでしょうね」
「望むところです。正面から来るなら、正面から」
「ん。――二人で、受けて立つわよ」
北の港の匂いが、潮風に混じり始めた。
帰る理由が、こんなにたくさんある帰郷を、私は前世を含めて、知らなかった。
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(第47話 了)




