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# 第46話 港の駆け落ち



 自由港での日々は、手記を読む朝と、工房を手伝う昼と、海を聴く夕方で、穏やかに過ぎた――はずだった。


 三日目の昼、工房に、若い男が飛び込んできた。


「マレナさん! 頼む、匿ってくれ! いや、匿えなくても……せめて、船の手配を!」


 息を切らした青年は、二十歳そこそこ。仕立ての良い服が、逃げてきたらしく乱れている。その半歩後ろに、外套のフードを目深にかぶった、もう一人。


「……落ち着きな、セドロ。何があった」


「駆け落ちだ。……北の商家の娘さんと。俺は港の船大工で、身分が釣り合わないって、娘さんの家が縁談を潰した。無理やり別の家に嫁がせようと――だから、二人で逃げてきた。でも家の追っ手が、この港まで」


 フードの内から、震える声がした。


「わたしのせいで、セドロを危ない目に……もう、諦めた方が」


「――諦めるのは、まだ早いわよ」


 工房の隅から、声が飛んだ。うちの店主である。糸巻きの軸受けを握ったまま、目だけが、すでに戦支度になっていた。


「事情は聞かせてもらったわ。追っ手は何人、いつ着く?」


「あ、あなたは」


「通りすがりの、縁談係よ。……ちょうど、その手の商売なの」


 私は内心で頭を抱えた。視察である。慰霊である。決して、他国の港で他人の駆け落ちに首を突っ込む旅程ではない。ないのだが――手記を読んだばかりのこの人が、目の前の駆け落ちを見過ごせるはずが、なかった。百四十年前、同じ海を渡ってきた二人の物語を、今朝も読んでいたのだ。


「フィオナ。追っ手の素性、視られる?」


「……お受けします。どのみち、止めても走るのでしょう、あなたは」


「話が早くて助かるわ、相棒」


 ――追っ手は、その日の夕刻に現れた。


 娘の生家が雇った、王都の取り立て屋くずれが四人。港の宿に陣取り、船会社に「駆け落ち者を乗せるな」と圧をかけて回っていた。フードの娘を国から出さないための、水際作戦である。


 私は港をひと巡りして、視た。


 四人のうち三人は、金で動く色。だが一人――束ねる立場の男の色に、見慣れた濁りがあった。娘の生家から、正規の依頼以上のものを受け取っている色。具体的には、娘を連れ戻したあと「事故」に見せかけて船大工を始末する算段の色だった。縁を潰すだけでなく、証人ごと消す腹積もり。


「……穏やかじゃないわね」


「はい。連れ戻しの護送では済ませない気です。あの束ね役は」


「なら、こっちも穏やかにはやらない」


 お嬢様の作戦は、港ならではだった。


 まず、つばめ屋の職人網を使い、港中の船会社に「公爵家の名で正規の渡航保証を出す」と触れて回った。次期公爵の後ろ盾は、取り立て屋くずれの脅しなど、一撫でで吹き飛ばす。娘とセドロの乗る船は、たちどころに決まった。


 問題は、束ね役の「始末」の算段だった。これは船を用意するだけでは、防げない。追ってくる。


「――だから、囮を出すのよ」


 出航の朝。桟橋には、フードをかぶった「娘」と船大工が、堂々と乗船した。束ね役の四人が、色めき立って追う。船が出る。四人は最後の桟橋で追いつき、タラップに手をかけ――


「そこまでよ」


 甲板の上で、フードが払われた。


 現れたのは、娘ではなかった。銀の髪の、次期公爵だった。隣で船大工の服を着ていたのは、私である。丈が余った。


「オールウィン公爵家次期当主、レティシアよ。この船は私が渡航を保証したわ。公爵家の保証した船客に手をかければ、それは他国の港での、公爵家への敵対行為。……国際問題にしたい人は、どうぞ、そのままタラップを登ってらっしゃい」


 束ね役の顔が、青ざめた。


 そして――本物の二人は、とっくに、別の桟橋から、別の船で、静かに港を出ていた。囮に注意を集めている間に。古典的で、確実な手だった。夜会でユリウス様が言った、囮の基本である。


「フィオナ、あの束ね役の『始末』の証拠は」


「押さえてあります。娘の生家との、裏の契約書の写し。港の役所に、正規に告発済みです。連れ戻しは私的な範囲でも、殺しの算段は、この港の法が見過ごしません」


 束ね役は港の衛兵に引き渡され、駆け落ちの二人は、朝の海へ、消えていった。隠れて、ではあった。まだ、この時代の南でも、身分違いの縁は、隠れて渡るしかない。


 けれど――船倉ではなく、甲板の上で、二人は肩を寄せて立っていた。百四十年前の二人より、半歩だけ、堂々と。


「……半歩ね」


 見送りながら、お嬢様が言った。


「百四十年で、船倉から甲板まで。次の百四十年で、旗を揚げて渡れるようになるかしら」


「なると思います。……誰かが、系図に一行、書けば」


 お嬢様は、こちらを見て、笑った。


 その手には、いつのまにか、あの金の印章が握られていた。宿題の期限を、確かめるように。


---


(第46話 了)


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