# 第45話 隠さずに済む時代の、二人へ
つばめ屋の中は、いい工房だった。
入って三歩でわかる。道具が、正しい場所で、正しく摩耗している。作業台は五つ、職人は七人、扱うのは楽器と細工物と、時々、時計。南方式の工具に、ところどころ北方の古い流儀が混ざっているのは、創業者の手癖が五代かけて受け継がれた痕なのだろう。
「――ちょっと! この糸巻きの軸受け、摩擦を貝殻の粉で逃がしてるの!? 北方だと油一択なのに――ねえ、この配合、伺っても!?」
うちの店主は、入って三十秒で職人たちに交ざった。次期公爵の肩書きは、工房の敷居をまたいだ瞬間、どこかへ置いてきたらしい。マレナ氏が「ばあさまたちも、ああだったそうですよ」と笑った。
交流は本物の技術談義で二刻ほど続き、それから私たちは、店の奥へ通された。
奥の間は、小さな祈りの部屋のようだった。
飾り棚に、使い込まれた工具がひと揃い。壁に、一枚の肖像画。
――描かれているのは、二人の老女だった。
作業着姿で、肩を並べて、笑っている。片方は日に灼けて豪快に、片方は上品に、悪戯っぽく。豪快な方の目元に、私は見覚えがあった。毎日見ている顔の、面影があった。
「……アデル様」
隣で、お嬢様が、小さく言った。
「これ、アデル様の方、よね。だって……なんか、うちの家系の顔してるもの」
「五代目としてお答えすると、その通りです。豪快な方がアデルばあさま、お上品な方がリラばあさま――本当の名は、手記に。二人とも、私が生まれる前に亡くなりましたが、工房の年寄りは皆、二人に育てられました。血の子はおりません。私らは全員、弟子と養子の系譜で。……ばあさまたち曰く『縁は血だけで結ぶものじゃない。うちは手で結ぶ家系だ』と」
マレナ氏は飾り棚の下の引き出しから、油紙の包みを二つ、恭しく取り出した。
「創業者の遺言です。『いつか北から、私たちのような二人連れが訪ねて来る。眼の家の子か、オールウィンの子か、あるいはその両方か。来たら、これを渡せ』――五代、口伝で預かってまいりました。どうやら本日が、その日のようで」
包みの一つ目は、分厚い手記だった。
表紙に、几帳面な字で、宛名が書いてあった。
『隠さずに済む時代の、二人へ』
手記は、アデル・オールウィンの手によるものだった。私たちは奥の間を借りて、二人で、読んだ。全部は一日で読み切れない厚さだったから、その日は、最初と、最後を。
最初の頁は、船倉から始まっていた。
『名前を捨てた。家を捨てた。荷袋二つと、リラの手だけを持って、この海を渡った。怖くなかったと言えば嘘になる。ただ、船倉の暗がりでリラが言ったのだ。「名を失くしても、手は失くしていないわ」と。その通りだった。着いた港で、私たちは手に職を求め、壊れたものを直して暮らすことにした。名前を失くした者には、名前のいらない仕事が、いちばん性に合った』
『道具を直すたび、思う。壊されたものは、直せる。摘まれた縁は――さて、どうだろう。私たちの縁は摘まれたはずだった。だが摘まれた枝は、海を渡って、この土に挿したら、根を張った。剪定というものは、思うほど、万能ではないらしい』
挿し木だ、と思った。摘まれた枝が、別の土で根を張る。庭の言葉で言うなら、二人の百四十年は、見事な挿し木だった。
そして、最後の頁。
『この手記を読む二人へ。私たちは幸せだった。苦労は書き切れないほどあったが、幸せは、書く必要がないほどあった。それだけは、疑わずに読んでほしい』
『一つだけ、心残りを書く。私たちは、隠れて勝った。それがあの時代の、精一杯だった。だからいつか――隠さずに済む時代が来て、私たちのような二人が、堂々と生きられる国になったら。この手記は、その二人のものだ。あなたたちが読んでいるということは、少なくとも、ここまで訪ねて来られる時代にはなったということ。……よくやった。私たちの分まで、その先へ行きなさい。北の国の系図に、私たちが書けなかった一行を、書いてきなさい』
隣で、頁を持つ手が、震えていた。
お嬢様は、笑おうとして、失敗して、それから諦めて、両方いっぺんにやった。泣きながら笑う顔で、肖像画のアデル様と、同じ顔で。
「……言われちゃったわね、フィオナ。ご先祖様に、宿題」
「はい。……期限は、就任式です」
包みの二つ目は、小さく、重かった。
開くと、古びた天鵞絨の上に、金の印章が一つ。刻まれた紋は――見間違えようもない、王家の紋章。それも、王族個人にのみ許される、名入りの印章だった。
リラ、という愛称の主が、本当は誰だったのか。この印章一つが、百四十年前の「病没」と「輿入れ」の記録を、根こそぎひっくり返す証拠だった。
「ばあさまたちは、こう言い遺しました」
マレナ氏が、静かに言った。
「『これを世に出すも、海に沈めるも、受け取った二人が決めること。私たちはもう、どちらでも構わない。ただ――使うなら、縁を摘む側にではなく、結ぶ側に使え』と」
金の印章は、掌の上で、火薬のように重かった。
王家の百四十年前の秘事、その動かぬ物証。就任式を控えた私たちの手の中に、それは、いま、確かに載っていた。
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(第45話 了)




