# 第44話 百四十年目の航路
視察の名目は、三日で整った。
『公爵領工房「小箱堂」、南方自由港における技術交流ならびに創業者縁故の慰霊視察』――帳面に書く分には、一分の隙もない文言である。旅の実態が何であるかは、書かないのが帳面の礼儀というものだ。
揉めたのは、同行者の一件だった。
「――楽師を、連れて行く」
お嬢様がそう言い出したとき、王家側の窓口は当然、渋面になった。前例なき係属中の身柄を、国外も同然の自由港へ。正気か、と顔に書いてあった。
説得の理屈は、こうだった。
「診療は月二回、欠かせば命令回路の抑えが緩みます。半年の視察の間、放置する方が危険。それに――考えてもみてください。命令の残る『器』を、どこに置くのが一番危ないか。建国の共鳴室、つまり王宮の礎石の真上ですよ。あの人を王都に置くのは、火薬を竈の隣に置くのと同じ。海の上ほど、礎石から遠い場所はないでしょう」
理屈は、通った。通ってしまうのがこの理屈の恐ろしいところで、王家は近衛二名の随行を条件に、身柄の帯同を認めた。
かくして一行は六名。私とお嬢様、護衛のロルフ、近衛二名、そして五百年の楽師。世にも珍妙な視察団が、南の港ルーメルから、出航した。
――航海は、十日。
私は、三日目まで使いものにならなかった。
「うぷ……」
「情けないわねえ、調査主任。ほら、生姜湯」
「……前世を、含めまして……船は、初めて、でして……」
「千組結ばせて船は初めてって、あなたの前世、行動範囲どうなってたの」
面談室と式場の往復です、とは言えなかった。言う体力がなかった。
四日目に胃が海と和解してからは、船旅は、存外に良いものだった。
水平線。帆の鳴る音。夜ごとの、満天。そして船室の壁に掛けられた、公爵家の紋の旗。
「……百四十年前は、この旗、掲げられなかったのよね」
五日目の夜、デッキの手すりで、お嬢様がぽつりと言った。
「アデル様たちは、名前を捨てて、荷物みたいに船倉に隠れて、この海を渡った。同じ航路を、私たちは家の旗を揚げて、堂々と渡ってる。……百四十年で、ここまでは来たのよ。ここまでは」
「ここから先は、就任式で」
「ん。……系図に、書き込みに行くわよ。堂々と」
夜風が、銀の髪を揺らした。手すりの上の手に、私は自分の手を、重ねた。隠す理由は、この船の上には、もう一つもなかった。
――もう一人の乗客も、この航海で、静かな変化を見せていた。
楽師は、毎日、船首に立った。
近衛に挟まれたまま、何時間でも、海を聴いていた。七日目の夜、診療のついでに私が様子を訊くと、男は珍しく、長く喋った。
「……海は、面白い。波は一つとして同じ形をしていないのに、全体としては、崩れない。誰も指揮していないのに、調和している。……五百年、私は『揃えねば調和しない』と思っていた。そのように、教わったから。そのように、造られたから」
男は、暗い水平線を見たまま、言った。
「揃えずに調和するものが、世界には、最初からあったのだな。……祭りの雑踏と、同じだ。私はどうやら、ずいぶん狭い楽譜の中に、いたらしい」
視た。雪原の底の一色が、また少し、広がっていた。海の色に、少し似た方向へ。
修理は、施術だけで進むのではない。世界の音を浴びることそのものが、この患者には、効いている。連れてきた判断は、正しかったのだと思う。
――十日目の朝、自由港が見えた。
ルーメルの倍はある港だった。国籍の違う帆が林立し、桟橋には十の言葉が飛び交い、坂の街には、色とりどりの屋根が段々に積み上がっている。波風どころか、波風でできたような街だった。
商工組合の案内人に導かれ、坂道を三つ折れた、その角で。
私たちは、足を止めた。
石造りの、間口の広い工房。開け放った戸口から、槌の音と、木屑の匂い。そして軒先の、古びた木の看板に――
燕が、二羽。
翼を広げた二羽の燕が、向かい合って、一つの輪の形に彫られていた。百四十年の潮風に磨かれて、木目の艶だけが深くなった、創業以来の看板だった。
「……フィオナ。うちの看板」
「はい。……小鳥、でしたね。一羽の」
丘の上の小箱堂の、翼を広げた一羽の小鳥。海の向こうのつばめ屋の、向かい合う二羽の燕。相談したはずもない、百四十年を挟んだ、二つの店の意匠が――まるで対の細工のように、呼応していた。
偶然と呼ぶには、出来すぎていた。縁と呼ぶには、ちょうどよかった。
看板の下から、齢六十ほどの、日に灼けた女性が、木屑を払いながら現れた。私たちの顔を順に見て、それから公爵家の旗印に目を留めて、彼女はにっと笑った。どこかで見たことのある、悪童の笑い方で。
「――お待ちしておりました、北のお客様。つばめ屋五代目、マレナと申します。さ、どうぞ。……創業者のばあさまたちが、あなた方みたいな二人連れを、百四十年前から待っておりましたので」
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(第44話 了)




