# 第40話 役目の修理
旋律が、立ち上がった。
礎石の光が柱廊を駆け、地下聖堂の空気そのものが、巨大な弦になって唸り始める。骨に響く低音の上に、あの領の鐘と同じ質の――しかし桁の違う厚みの――音が、積み上がっていく。
頭上の床の、さらに上。評定の間。国王と、七人の評定官と、傍聴の貴族たち。この音が届き切ったとき、あの部屋の人々は、それから国中の人々は、波風ごと、静まる。
「――共鳴破砕は!?」
「駄目! 礎石は王宮全部の土台よ、力ずくで割ったら、上の連中ごと生き埋めだわ! それに、この規模の術式を一瞬で断ったら――」
「三年の紗を一晩で剥がすのと、同じことが、国中で起きる」
鐘の教訓が、そのまま、こちらの手を縛っていた。壊せない。止めるなら、別の道しかない。
演奏する男の背中に、私は、声を投げた。
「――調律師!」
旋律は、止まらない。それでも、像を結ばない顔が、半分だけ、こちらを向いた。
「あなたは五百年、命令で鳴ってきた。でも私は視ました。北の鐘楼で、あなたの底を。雪原の底に、たった一つ残った色を。……あれは『人を静めたい』色では、なかった。あれはただ――音が、好きな色だった」
左袖の中で、私は二号機の引き金を、引いた。
照心灯の波が、旋律を掻き分けて、男に届く。八秒。墨がめくれ、雪原が、露わになる。五百年ぶんの、自分で自分に重ねた紗の野原。その最奥で脈打つ、小さな、鮮やかな一色。
男の指が――五百年、狂ったことのないはずの指が、半拍、乱れた。
「……何を、している」
「視せているんです。あなたに、あなたを」
八秒が、尽きる。墨が閉じる。だが、乱れた半拍は、旋律の中に、消えない皺として残った。
そのときだった。
礎石の光が、脈動を変えた。旋律の底から、音ではない音が――問いの形をした振動が、地下聖堂に満ちた。奏でる者へ、装置そのものが差し出す、五百年ぶりの、確認。
――望みを、述べよ。
建国の装置は、奏者の望みを楽譜にする。五百年前、器に流し込まれたのは王の望みだった。以来、装置は問うたびに、同じ答えを受け取ってきた。命令を。望みの、代用品を。
「音に問われたら――」
私は、懐の紙ごと、叫んだ。
「名ではなく、望みを答えなさい! あなたの、望みを! 王の命令でもなく、造られた目的でもなく――五百年で一度だけ、船を見逃したときの、あの『自分でしたこと』の続きを!」
旋律が、揺れた。
男は、鍵盤に置くように礎石に触れた手を、見下ろしていた。像を結ばない顔の中で、初めて、何かが像を結ぼうと、もがいていた。
「……望み」
声が、掠れた。五百年前の、楽師の声の残骸で。
「私、の……。命令では、なく……」
「あるでしょう、一つだけ!」
叫んだのは、お嬢様だった。
「あんたの署名! 呪いの果てにまで四音、書き続けた! 命令はあんたに署名しろなんて言ってない――あれだけは、あんたの『好き』でやったことでしょう! 五百年、それだけ手放さなかった! なら答えなさいよ、その四音の続きを、どう鳴らしたいのか!」
問いの振動が、待っていた。
長い、長い半拍ののち。
最古の道具は、答えた。
「――聴きたい」
旋律が、崩れ始めた。
「整えて、いない音を。……均していない、人の声を。笑うのも、泣くのも、諍うのも、そのままの。私が五百年、雑音と呼んで、消して回った――あの、揃わない音たちを。一度でいい。楽師の耳で、ただ、聴きたい」
命令ではない答えを、五百年ぶりに受け取った装置は――
沈黙した。
礎石の光が引き潮のように衰え、大調律の唸りが、倍音から順に、ほどけて消えていく。旋律の残骸の中に、男は、立ち尽くしていた。演奏をやめた楽師の、所在ない手のままで。
「……解けぬよ」
やがて、男は言った。静かに。
「望みを答えても、器は器だ。最初の命令は、まだ私の底で鳴っている。今日は黙らせた。だが命令は、また鳴る。私は、そういうふうに、造られている」
「なら――修理よ」
お嬢様が、前へ出た。
「あんた、道具なんでしょう。上等だわ。うちはね、壊れた道具を直す店なの。役目を歪められた道具を、本来の役目に返すのが商売。……あんたの最初の役目は『調律の器』じゃない。作り替えられる前、あんたは楽師だった。なら、そこまで戻す。命令の回路だけ摘出して、音だけ、残す」
「――できるものか。五百年、王家の術師の誰にも」
「王家の術師は、あんたを道具として直そうとしたのよ。私は違う」
お嬢様は、まっすぐに、像を結ばない顔を見上げた。
「あんたを、人として直す。骨の共鳴管も、血の触媒も、五百年の腕も、音の好きな心も、全部あんたのものとして残して――命令だけを、抜く。時間はかかる。何年かかるかわからない。痛いかもしれないし、抜き切ったとき、あんたの五百年が終わるかもしれない。それでも」
一拍。
「壊れたままでいるのと、直る痛みと、どっちを選ぶの。楽師さん」
地下聖堂は、静かだった。
五百年ぶりに演奏をやめた男は、自分の両手を、長いこと見ていた。人を静めるために作り替えられた、けれどその前に、ただ音を愛でるために生まれた、その手を。
「……終わる形としては」
男は、石の書を――最初の頁を、こちらへ、差し出した。
「上等な、部類だ」
遠く、頭上の階段から、複数の足音が近づいていた。剣の鳴る音と、聞き覚えのある、まっすぐな誰何の声。外周が、駆けつけたのだ。
大きな調律は、鳴らなかった。
代わりに地下の墓場には、五百年ぶりに――ただの静けさが、降りていた。
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(第40話 了)




