# 第39話 剪定録と、最初の頁
評決の間、候補者と随行は別室にて待機――その慣例が、私たちの足を自由にした。
別室の扉を出て、回廊を三つ折れ、書庫へ。低い唸りは、床下でゆっくりと育ち続けている。書庫の扉は開いていて、その奥、北西の書架の谷に、老司書が立っていた。
「……ペルグリン氏」
「開いておる」
老人は、書架の裏の暗がりを、杖で示した。
書架が一枚、扉の形に口を開けていた。奥に、下りの石段。四十年、炭を食い続けてきた喉の入り口が、当たり前のような顔で、そこにあった。
「四十年で、初めて開いた。……鍵の音は、しなかった。あの扉はな、鍵で開いたのではない。『歌って』開いたのだ。わしはもう、追う脚を持たん。これを」
差し出されたのは、古い携行灯と、それから、小さく折られた紙だった。
「四十年前、先代の司書から引き継ぎの夜に渡された口伝じゃ。『地下に降りる者があれば、渡せ』と。……わしの秘密は、これで全部だ。行きなされ」
紙には、一行。
『地下にて、音に問われたら、名ではなく、望みを答えよ』
――石段は、長かった。
下るほどに、唸りは骨に近くなり、携行灯の火が、音に合わせて揺れた。降りきった先は、広かった。
剪定録の書庫は、地下の大聖堂だった。
石の柱廊に、黒い背表紙の綴りが、壁という壁を埋めている。百年。二百年。年代の札は、奥へ行くほど古くなる。摘まれた縁の、一件が一冊。壁一面が、百年ぶんの、誰かと誰かの終わり。
「……墓場ね」
お嬢様が、低く言った。
「系図に残らない縁は、ここに『残されて』たのよ。捨てもせず、悼みもせず、ただ帳簿として。――反吐が出る几帳面だわ」
百四十年前の棚は、すぐに見つかった。
第二王女とアデル・オールウィンの綴りは、薄かった。摘まれるまでの調べと、剪定の命令書と、そして末尾に、後日の追記が一行。
『対象二名、南方へ逸失。追跡は中止。――中止進言、調律師』
目を、疑った。
追跡を止めさせたのは、あの男だった。すべてを整え、すべてを消してきた男が、この一件だけ、逃した。
「……どういう、こと」
「本人に訊けばいい」
声は、柱廊の最奥から、返ってきた。
書庫のいちばん古い棚の前に、灰色の外套が立っていた。手には、革ではなく石の板で装丁された、一冊。唸りは、その足元の床から、湧いていた。
「よく来た。フローレスの眼と、いい耳のお嬢さん。……ちょうど、最初の頁を開いたところだ」
「その前に、答えなさいよ」
お嬢様が、一歩、踏み出した。
「百四十年前。あんたはなんで、二人を逃したの」
男は、少しだけ、黙った。像を結ばない顔が、石の書物に落ちる。
「――彼が、頼んだからだ」
「初代様が……?」
「獄の壁越しに、彼は言った。『あなたは何もかも整えるが、あなた自身の望みで何かをしたことが、一度でもあるか』と。……なかった。一度も。私は答えられなかった。だから、試した。命令ではなく、頼まれごとを、一つだけ聞いてみた。船を、見逃した。……それが、私の五百年で、唯一の『自分でしたこと』だ」
五百年。
その数字を、男は署名を書き添えるくらいの気軽さで、置いた。
「あんた……何なの、一体」
「読んで聞かせよう。最初の頁だ」
男は石の書を、掲げた。
「建国の頃、この地には七つの部族がいて、七つの戦があった。初代の王は賢く、そして急いでいた。剣で束ねる時を惜しみ、術で束ねることを選んだ。人心を均す音の術。だが術には、器が要る。生きた、器が」
床の唸りが、一段、深くなった。
「一人の楽師が、選ばれた。選ばれて、作り替えられた。骨を共鳴管に、血を触媒に、心を――楽譜に。七つの部族は一夜で静まり、国は生まれ、王は器に命じた。『この調律を、永く保て』と。……器は、命令のままに、五百年、保った。王が代わっても、命令だけは、切れなかったからだ」
石の書を閉じて、男は、私たちを見た。
「私はね、お嬢さん。あなたの言う『道具』なのだよ。人を助けるために、ではなく、人を静めるために作られた、最古の魔導具だ。……そして道具は、造られた目的を、果たしたがる。この五百年、私は小さな調律を重ねてきた。領を一つ、老人を一人。だが、器の底ではずっと、最初の命令が鳴っている。――『この調律を、永く保て』」
男の足元、床の礎石が、脈打つように光り始めていた。
「王宮の礎はね、建国のとき、共鳴室として組まれた。この国最大の楽器だ。最初の頁は、その総譜。……大きな調律とは、つまり、建国のやり直しだよ。七つの部族を一夜で静めた音を、今度は国中に。誰も争わず、誰も泣かず、誰も、波風を立てない国に」
「――そんなの」
お嬢様の声が、震えていた。怒りと、それから、別の何かで。
「そんなの、あんたが五百年やらされてきたことを、国中の全員に、やるだけじゃない……!」
「そうとも」
男は、静かに、肯った。
「道具の完成とは、そういうものだ」
礎石の光が、柱廊を這い上がる。唸りが、旋律の形を取り始める。
五百年前に人であることを摘まれた、最古の道具が――最後の演奏を、始めようとしていた。
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(第39話 了)




