# 第37話 三正面の支度
栞を作業台に置いて報告を終えると、書斎は長いこと、静かだった。
口火を切ったのは、公爵閣下だった。
「――整理する。三度目の評定の日、表では裁可、地下では影が『最初の頁』を回収し、そして会場で、何かが鳴らされる恐れがある。敵は場所も日取りも、自分から明かした。……罠か、余裕か」
「両方かと。あの男にとって、警戒された会場を調律するのも、興のうちなのだと思います」
「厄介な芸術家だ」
閣下は唸り、それから、決裁の速度で言った。
「王家への警告は、しない」
「お父様?」
「証拠が栞一枚では、正気を疑われるだけだ。それに――影は王家の道具庫の鍵を握っている。警告がどこへ漏れるか、わからん。代わりに、実のある手を打つ。三度目は国王臨席、警備は近衛と騎士団の合同になる。公爵家の権限で、騎士団側に臨時増員を要請する。名指しでな」
名指しの先は、聞くまでもなかった。
三日後、辺境から早馬の返書が届いた。一行だった。
『陣形の外周、承った。――ユリウス・グランフェルト』
――工房側の支度は、温室で進んだ。
「二号機、できたわよ」
夜の作業台の上に、銀のランタンが二つ、並んでいた。一つは見慣れた初代。もう一つは、一回り小さく、細工の細かい新型である。
「照心灯・二号。改良点は二つ。持続は八秒に落ちたけど、再点火が半日で済む。それから――波の質を、検波器と揃えた。二つ同時に使うと、視るだけじゃなく、会場のどこに『仕込み』があるか、鳴って教えてくれる」
「評定の間の、事前検分に使えますね」
「そのつもり。閣下が『会場の魔導具検査』を評定所に申し入れてくれてる。バーナビー派は嫌がるでしょうけど、夜会の一件がある以上、表立っては反対できないはずよ」
百二十人の前で百燈が割れた事件は、王都の記憶に新しい。あの夜の教訓を検査の名分に使う――転んでもただでは起きない用兵だった。
残る議題は、一番重く、一番静かなものだった。
ハワード侯爵の、紗である。
「……解けるものなら、解いて差し上げたい。三十年ですよ。でも」
「でも、時間がない。北の領は二十日かけた。三十年物の紗を評定までの数日で剥がしたら、あの御歳の心が保つ保証はない。――それに、フィオナ」
お嬢様は、工具を置いて、まっすぐに私を見た。
「そもそも私たちに、あの人の心へ勝手に触る権利はないのよ。良かれと思ってでも、同意なしに人の内側をいじったら、それはもう、あっちの男と同じ側だわ」
道具は人を助けるためにある。ただし、人の頭の上からではなく。
この一線を、この人は絶対に、踏み越えない。だから私は、この人の隣にいるのだと、改めて思った。
「では、票は諦めますか」
「諦めない。正攻法でいく」
お嬢様は、にっと笑った。
「紗の下の侯爵に、届く声で話しかけるの。ノルデンの子爵は、肖像画の前でだけ、爪を立ててた。三十年整えられた人にも、内側で引っ掻いてる何かが、きっとある。――フィオナ、書庫仕事よ。四十年前の『論戦の獅子』の演説録、探せる?」
「……侯爵ご自身の、昔の言葉を、答弁で」
「本人の前で、本人に返すの。丸くなる前のあなたは、こう吼えていましたって。……効くかどうかは、賭けよ。でも、人の心をいじらずに紗へ届く方法は、たぶん、それしかない」
波風の記憶で、内側から破らせる。
敵が三十年かけて消した声を、公の場で、本人の耳に返す。逆調律とも照心灯とも違う、一番人間くさい解き方だった。
演説録は、翌日の書庫で、ペルグリン氏が三十分で出してきた。「ハワード様の若い頃の、ですか」と繰り返した老司書の目が、眼鏡の奥で、なぜか少しだけ潤んでいたことを、私は書き添えておく。四十年書庫の主を務める人は、四十年ぶんの、丸くなった人たちを見てきたのだろう。
――評定、前夜。
支度は、出揃った。表の答弁書、地下への備え、会場の検分手順、外周の騎士、二つの照心灯と検波器、そして四十年前の獅子の声。
温室の灯りを落とす間際、お嬢様が、ふと言った。
「ねえ、フィオナ」
「はい」
「明日、全部終わったらさ。……聞いてほしい話が、あるの」
工具箱を仕舞う手が、止まった。
振り向くと、お嬢様は棚の方を向いたままだった。銀の髪の向こうで、耳だけが、少し赤かった。
「な、なによ。何の話かは聞かないの」
「……終わったら、伺います。逃げませんので」
「ん。……逃がさないわよ、どのみち」
どちらのことを言ったのか、わからない台詞だった。たぶん、両方だった。
明日、表で系図と戦い、地下で影と相見え、会場で音と斬り結ぶ。その全部の向こう側に、初めて、戦いではない約束がひとつ、置かれた。
欠けた翼の飴細工は、今夜も小瓶の中にいる。
銀の小鳥は、明日も耳元へ連れて行く。
約束の分だけ、負けられない理由が、増えた。
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(第37話 了)




